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食べるということ|「ということ。」第1回

今日読み終わった小説に、

“こうして食べることが、とても正しいように思えてきた。”
(『葉桜』橋本紡 より)

という一文があった。

食べること。調理されたあるいはされていない食物を口のなかに入れて、顎を動かし咀嚼し、飲み下すこと。

辞書には、
1 食物をかんで、のみこむ。「生 (なま) で―・べる」「ひと口―・べてみる」
2 暮らしを立てる。生活する。「なんとか―・べていくくらいの蓄えはある」
3
㋐「食う」「飲む」の謙譲語。いただく。食 (とう) ぶ。
「御仏供 (ぶく) のおろし―・べむと申すを」〈枕・八七〉
㋑「食う」「飲む」を、へりくだる気持ちをこめて丁寧にいう語。
とある。

橋本紡の先の一文は、

”どんなに心を揺さぶられても、人はお腹を空かせるし、生きるという行為からは逃れられない。”

と続く。

私が、その時の胃袋の具合や食事をともにする相手の嗜好から解放されている状態で食べ物を選ぶとき、舐めるように見るのが成分表だ。

欲しい情報は、カロリーの数値でなく、ナトリウムやマグネシウム、カルシウムなどの数値。もっとも気にするのは、ナトリウムとカリウムのバランスだが、カリウムが成分表に表示されている食品は少ない。

ナトリウムは普通に生活していれば、嫌というほど摂取できる。米やパンといった、いわゆる主食に多く含まれているからだ。
けれど、その過剰摂取に対抗してくれるカリウムはなかなか摂取するのが難しい。カリウムが豊富に含まれるものといえば、豆乳やココナッツウォーター、キウイやスイカなど、意識しないと生活に入ってこないものばかりだ。

なぜ私がここまでカリウムを欲しているかというと、生まれつき浮腫みがちな身体だからだ。朝起きればほっぺに枕の皴のあとがついているし、きゅっとした足首に憧れていても現実には程遠い。

話を戻すと、私は、「私がそうでいたい私であるために食べ物を選んでいる」のだ。

食べたものは自分の身体を作る。血となり、肉となる。その材料の選び方として、私は成分表を見ているに過ぎない。

だから、
”こうして食べることが、とても正しいように思えてきた。”
は、本当なのだ。

男の子からの告白を断って帰宅した主人公が、妹から貰った八朔を泣きながら口に運ぶシーンでこの一節は出てくる。人を傷つけても、人に傷つけられても、食べなきゃいけない。豪華なスイーツでも、実家から送られた大根でも、食べなきゃいけない。そしてそれらが、自分の胃にきちんと落ちていく感覚を味わうのだ。それは食べられるものたちに対する礼儀でもある。

食べることは生きることだ。なにかを背負ったり、なにかから逃げたりすることだ。それは、思いや命だったりもするし、嫌な仕事や上手くいかない恋愛だったりもする。私たちはそれをなおざりにしてはいけない。しっかり噛んで、ごくりと飲み込むこと。

そして最後に「ごちそうさま」と言えれば、それはすっかり幸せなことなのだ。

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