おしゃべりということ|「ということ。」第10回
私は、「おしゃべり」があまり得意ではない。無口なわけでは決してないけれど、そもそもどうしても話したい!ってこともなければ、とっておきの感動や興奮は自分だけのものだと割り切ってしまっているところがある。それを誰かに伝えたいだなんて、おこがましいし、野暮なことだ。
私が饒舌になるのは、相手からの問いに対して、自分らしい回答をちゃんと用意できているときに限られる。
「人と猿の遺伝子は99%同じ」というのは有名な話で、残りの1%の違いによって、人は言葉を扱える。人たちの間で言葉が発達したのは、そりゃあ、意思疎通のためというのはもちろんだけど、そもそも人の世界は言葉ありきなのだ。だから、耳の聞こえない人にだって手話がある。
そこで、だ。
じゃあ、おしゃべりの価値はなんだろう?
例えば(これは私の勝手な憶測だけれど)、体一つでは最弱である人という生き物は、強靭な身体と引き換えに感情を持つようになった。集団でなければ生きていけないその生き物は、互いに親しみの感情を抱く必要があり、そのためにコミュニケーションを積極的にとろうとした。でも、コミュニケーションをとればとるほど、その内容の選択肢は減っていく。そしてついには、まったく意味のないことまでしゃべらなくてはいけなくなったのが、おしゃべりのはじまり。とか?
あるいは、そういった集団の中で過ごすうちに各々に承認欲求が生まれ、意味があろうとなかろうと、発言すること自体に価値が出てきたのがそのはじまり。だったりして。
いずれにせよ、たぶん、生命維持という目的において、おしゃべりは不可欠とはいえない気がする。
でもなんとなく、おしゃべりは健康にいいのだろうなとは思う。きっと、脳の老化のスピードを遅めたり、満足にしゃべり笑うことによって、体の免疫力なんかが高まったりするはずだ。そんなニュースを、耳にすることも多くなったわけで。
と、なると。私は早死にするのだろうか?おしゃべりが苦手、だというだけで?それはなんだか、損した気分だ。もしそんな理由で死ぬ日が来たら、棺桶の中でふてくされてしまいそう。
で、今回の結論としては、「まあ、いっか」である。
この「」の中に入れる言葉を、煙草一本分のあいだ考えてみた。「明日からもうちょっとおしゃべりしてみよう」?「今日家に着いたら、まずは一人でおしゃべりの練習をしよう」?「まずは人のおしゃべりのお相手を快く引き受けよう」?どれもしっくりこなくて。灰皿に火種を押しつける瞬間浮かんだのは、「まあ、いっか」だった。
「まあ、いっか」は、最強の呪文だなとつくづく思う。この話はもう終わり!ともいえる響きで、かつ、あと腐れも感じさせず。前向きな気持ちにすらなれてしまう。「まあ、いっか」。これに尽きる。
それに、この記事を書くにあたって頭の中ではおしゃべりし尽くしたので、たぶん、私は長生きする。それならもう、何の問題もない。
まあ、いっか。
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