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悔やめないということ|「ということ。」第21回
「もういいや」と、やめたことはたくさんある。たぶん誰にでも、それなりに。例えば、バレエや英会話。書道やフルート。両親は相当のお金を使って習わせてくれたが、どれも実にならなかった。例えば、根性の悪いあいつの鼻をへし折ること、下ばかり向くあの子の顔を上げること。オリジナルの正義に自信が持てなかった。
おそらく、こういうことごとがある場合、世間はそれを「後悔」とか「未練」とかそんな風に呼ぶ。すっきりしない。ああすればよかった。もっとがんばれた。なぜあそこで諦めたのだろう。そう思えることならば、きっとよかった。それだけ心を熱くできた記憶なのだから。
けれど、そうとすら思えない「もういいや」には、じゃあ名はないのか。たぶんそれは、初めからなかったことにされるから名前もないのだ。……たぶん。
私には、名もない「もういいや」は後悔よりも尊いものと思える。なかったことにできる程度のそれの、やめ時を見極めたという証だから。時間を無駄にしなかった。見極めるっていうのは、直感の話じゃあない。辞書には、《物の真偽を十分検討したうえで、判定する。確かめる》とある。“十分検討”して、“判定”したことが何よりも尊い。
そう、信じたい。やらないで後悔するよりもやって後悔したほうがいい。という馴染みのお言葉も、感心したふりをしただけ。本当は、あんまりピンときていない。やらない選択だって、褒めてみたい。選ぶことは捨てること。その実、きちんと何かを失って道を決めるのだから、右も左も、選ぶことの価値は等しいはず。
そうしてみのる実もあれば、育まれる正義もあってほしいのだ。一世一代の岐路に備えて。