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情に流されるということ|「ということ。」第14回

 Twitterで、次回の《ということ。》のテーマはどれにしよう? とアンケートをとった結果、この、「情に流されるということ」が一番多くの票を集めた。

 情に流されるということ。

 アンケートの選択肢に入れておきながら、私にはその経験がないように思える。私は、自分が心地よいと思えない関係ならば、いっそ壊すことにも積極的だ。

 そもそも、情に流されるとは、具体的にどんな状態のことだろう?
 その経験がない私がまず思い浮かべるのは、「もう好きではない恋人と、だらだらと付き合う状態」だ。たまに家に遊びに来てくれる女友だちは、「彼とは、ほとんど情で付き合っているようなものだし……」とつぶやく。あと、「一時的に保護した猫を、しかるべき施設に預けたくない状態」も、それかもしれない。「手当てするだけのつもりだったのに、情がわいちゃってねえ」と話す、目尻の下がった年配の女性を想像するのは、難しくない。

 今、私が「あ、おもしろい」と思うのは、女友だちと彼も、女性と猫も、そんなひと言の後にだって関係が続くのだろうということだ。彼らは、情によって一緒にいることはあっても、情のせいで離れることはない。

 情、か。悪くないのでは? 情がなければ、どの関係もなくなってしまう。自分と誰かの間に生まれた、目には見えないものに身を委ねることを、どうして悪く思ってしまうのだろう? 「情に流される」を良い意味で耳にしたことがない。それこそ不思議に思えてきた。

 冒頭で、「私は情に流されたことがない」としたが、撤回させてほしい。ある。大いに、ある。情に流されまくりだ。家族にも、友だちにも、恋人にも。声が大きいとか、無遠慮だとか、頼りないとか、うんざりするときもある。だが、情だ。愛情や友情が、ちょっとクサいけれど、確かにそこにある。情で、つながっている。流されている。むしろ、情の流れに自ら飛び込んで、身を委ねている。きっとお互いに情があって続いている関係。幸福だ。

 それに、この世で最初に「情に流されちゃって」と言ったひとは、果たして悲しい顔をしていたのか。もしかすると、ちょっと困ったように眉を下げて、うれしそうに、はにかんでいたかもしれない。「情に流されちゃって」「でもね、とっても幸せなの」と。

 さて、ここまで綺麗に意見をまとめた風だが、「同情」についても触れないと、ズルい気がする。先の女友だちがいう情は、もしかすると同情に近いかもしれない。同情なんてごめんだ! というひともいるだろう。ただ、今こそ力づくで、言わせてほしい。同情してくれるひとを、大事にしろ! と。

 情云々の前に、誰でも、「一人」だということを忘れてはいけない。ただ個体なのだ、私たちみーんな。それでも、こちらの気持ちを推し量ろうと試みてくれるひとがいる、その贅沢さを知るべきだ。同情する側としては、正直、他の個体の心情なんて、知っても知らなくても命に関わらない。なのに、挑戦してくれているのだ。時間も、労力もかけて。
 これも、「情に流される」が悪く聞こえる問題と同じだ。「同情」が悪く聞こえる問題。大問題だ。

 話題が散らかってしまったが、つまるところ、私は「何でもかんでも悪く捉えないでよ、淋しいじゃない」と言いたいのだ。あいにくポジティブとは縁遠い私だが、一概にものごとを悪く捉える習慣こそない。もったいない。どれも本当は、もっとやさしい事実かもしれないのに。

 と、いうわけで。拙い記事ばかりですが、これからもどうぞ、「情」でお付き合いくださいませ。




 余談ですが、メイン画像は映画『ニューヨークの巴里夫』より。
 この記事を書き終わってから、この映画を思い出しました。セドリック・クラピッシュ監督による、『スパニッシュ・アパートメント』『ロシアン・ドールズ』『ニューヨークの巴里夫』の三部作。私の考える「情に流される」に近い、その結果の一つのような作品です。よろしければ。

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