「ジェネリック東京」化する京都-なぜ京都は「おもろない」街になったのか-
はじめに
JNTO(日本政府観光局)の最新の公表では2024年10月の訪日外国人観光客数は331万人で前年同期比31.6%増、過去最速で累計3,000万人を突破し、コロナ前の2019年を超えることは確実視されています。また、これに伴うオーバーツーリズム(いわゆる観光公害)の弊害は耳にタコができるほど報道されており、京都の玄関口となるJR京都駅は日本語を話している人の方がかえって珍しい状態です。
今年の初夏ですが、仕事で松山に一週間滞在して帰京した際にちょっとショッキングな体験をしました。仕事が終わった土曜日には道後温泉で温泉むすめ・道後泉海ちゃんのパネルや現地の方々と交流を堪能して伊丹空港からリムジンバスで京都駅八条口に降りました。どこを見回しても外国人、日本語が全く聞こえないわけで、私はどこの国に飛ばされたのかと急激な疎外感に襲われました。同時に私が愛していた京都という街は、もう戻ってこないのではないかと寂しさも感じました。
京都でオーバーツーリズムというと「住民がバスに乗れない問題」が全国的なイメージでしょう。オーバーツーリズムは街のキャパシティを超える観光客の訪問が招くものとして、「持続可能な観光都市」が提唱されていますが本当にそれだけで解消するものでしょうか。「持続可能な観光都市」ってなんでしょうかね。押し寄せる観光客を「上手くさばく」ことが重要なのでしょうか。はっきり言って、京都は「観光都市」としては完全に失敗したと筆者は考えています。
その代表例が「京の台所」の面影を残すことなくフードコートになり果てた錦市場でしょうが、それだけではありません。寺町商店街、新京極商店街、河原町商店街、もはや「田の字」地区あらゆるところが錦市場化しつつあるといえます。インバウンドを商機とする店舗が乱立し、観光客でギュウギュウの商店街を歩いていても何一つ楽しいことがありません。
かつて、京大生が年々「京大らしさ」を失い「東大化」している現状を皮肉って、正門を手作りの赤門にコスプレさせ、さらに「京都大学」銘板の左に「東」を付けたし「東京都大学」に変えるというなかなかにパンチの効いた遊びをしました。
金儲けでギラついていく京都をみていると、まさに京都が東京化しているのではないかというのが実感です。フォロワーさんと一度この話題をした際に、「ジェネリック東京」というワードが出てきましたが、実にうまい言い回しだと感心したので本稿の表題にも使わせていただきました。
さて、前置きにしては長くなりすぎましたが本稿では個人的な主観によるところがほぼ100%、そもそもの京都の魅力とはなんだったのか、それがどのような過程で失われ、なぜ起こったのか。平たく言うと「なぜ京都はかくもおもろない街になったのか」をテーマに考えたいと思います。
なお、筆者は普段、聖地巡礼や地域活性化を論じる目的でこのnoteをやっていますが、聖地巡礼による「街おこし」を考える際にも参考とするべきところが多々あると考え、あえてこの場で散文を執筆したことを申し添えておきます。
「余白の美」が生み出す京都のセンス
筆者は2000年代初頭に大学進学のため、秋田から単身京都にやってきました。当時の京都は寺社仏閣と大学以外は何もない、と言っても過言ではないくらいの印象でした。まずヨドバシカメラがない。エディオンもない。東急ハンズもない。日用品の買い物には困らないものの、家電製品やパソコンなどを買うためにわざわざ大阪まで出かけていました。当時、百万都市なら標準装備されて当然だろう!という大型店がありませんでした。その割には古書店が「こんなにいらんやろ!(今となっては貴重な存在です)」というぐらいにそこかしこにあって、まぁなんというか「もっさい」街でした。あ、京都を「もっさい」なんて表現したら叱られますね。
そんな街なので学生もどこか「もっさい」感じで、就活で東京に行ったときには驚いたものです。やれ○○党の○○の選挙活動を手伝っているだの、某イケイケベンチャーのインターンをして既に内定をもらっているだの、国Ⅰ(現・国総)の採用担当が大学の先輩で酒おごってもらっただの…。SNSもない時代でしたので大学3回生になって会う東京の大学生がなんと大人びて見えたことか。でもなんとなくスカした感じが非常に苦手でした(筆者はオタサークルに浸りきったコミュ障学生だったのでなおさらでした)。
そんなわけで東京での就活に失敗するわけですが、全敗で打ちひしがれた私を優しく包んでくれたのも京都という街でした。確かに京都は情報や人脈、機会といった点では東京にはるかに劣ります。しかし、刺激がありすぎる学生時代を過ごして変に世慣れしてスレた大人になるより、少し飄々としたズレた大人になってみるのもいいんじゃないかと個人的には思いますね。
そんなわけで筆者は関西系の企業に就職して、配属の関係で一旦関西を離れるわけですが、縁もゆかりもない土地での生活に耐えきれず5年で辞めて京都に戻ってきます。ちょうど京都を離れていた時、「もっさい」京都に別のイメージを与えてくれた小説家が二人います。一人は万城目学、もう一人は森見登美彦。「学生時代に来る京都と社会人になってから来る京都は違う」という格言は住んでみても同じです。
二人の作家を通して京都のサブカルチックな魅力に気付いていったというのか、もう京都アニメーションの『たまこまーけっと』の聖地巡礼をする頃には「京都っておもしれぇ街だな!」に変わっていました。
著者にとっては秋葉原を歩くよりも、鴨川デルタを眺める方がオタクとしてインスピレーションに刺さるところがあります。ちょっと面白そうな祭事があったら自転車でぴゅーッと行けてしまう街のコンパクトさ。桜や紅葉のシーズンには地元民のフットワークを生かして、早朝から名所で好きなだけ写真を撮れる(かつてはどんな名所でも早朝は空いていたと記憶しています)。そのうち、学生の頃京都の「もっさい」魅力に気付けなかったのは自身の感度の低さゆえであり、「もっさい」ところがセンスの塊だったりすることに気付くわけです。
やや抽象的な言いまわしになりますが「もっさい」と感じていたのは都市としての「余白」だったのだろうと思います。著者は評論系同人誌づくりを趣味としておりデザインを独学で習得しましたが、紙面のデザインの良し悪しは、いかに美しい余白を作り出すかにかかっていると常々考えています。逆に文字と写真でギュウギュウな紙面はセンスに欠けているわけです。
これを都市空間に例えると、看板やネオン、高層ビルが隙間なく並ぶ東京は情報過多で余白というべきものが感じられず、逆に景観規制をかけた京都は黄金比のような余白をもった「引き算の美」ともいうべきセンスを感じるわけです。京都という街は感性を研ぎ澄ませる最適な環境といえ、そういった理由があるからこそ京都には多数のクリエイターが住んでいるのだと思います。
確かに日本経済の中心地でチャンスを掴んだり、娯楽の限りを尽くそうとするなら東京にかなうはずがありません。しかしそんなものが薄っぺらいベニヤ板のように思えるほどの魅力が京都にはありました。
インバウンドとコロナ
訪日外国人観光客は2013年に1,000万人突破、2018年には3,000万人突破と右肩上がりで日本は「観光立国」街道を爆走するわけですが、京都で「異変」を感じるようになったのは2015~16年頃からだったと記憶しています。まず春秋のシーズンに観光客が多すぎて全く写真が撮れない、さらには外国の業者がそこかしこでウェディングフォトの撮影をしてとにかく邪魔(そこを占拠すると30分は動かないんですよね…)。それが以前なら早朝人払いもできたのに、日の昇る頃に出かけても先を越されているわけです。
真っ先に「変わった」と感じたのは錦市場です。京都に戻ってきた頃は錦商店街で撮影のため長時間立ち止まろうものなら、商店街の方から「商売の邪魔や!」と怒られたものです。昔から「師走の錦市場に入ったら出てこれない」と言われたものでしたが、そんな状態が年がら年中続くようになっていきました。実は錦市場の観光地化はインバウンド時代到来の前から始まっていましたが、いよいよ観光客に狙いを定めた店舗がポコポコと出現するようになります。
そして2020年コロナ禍がやってくるわけですが、3月末の桜が咲く時期には前年まで溢れかえっていた観光客が文字通り「消滅」しました。筆者は近所の祇園白川の巽橋の桜を撮影に行きましたが、無人に等しい超人気スポットを写真にできたのはこれが最初で最後だろうと思います。4月に入ると「三密」を避けるために本格的に自粛ムードになり、多数の寺社仏閣が拝観停止となりました。
話を錦市場に戻しましょう。当然ですがお得意様ともいうべき観光客が消滅した錦商店街は、多少の地元民が買い物に出ている寺町や新京極商店街とは比べ物にならないほどの惨状でした。そこだけが地方都市にあるシャッター商店街の様相を呈していました。
とどのつまり、インバウンド向けに特化しすぎた錦市場は知らず知らずのうちに地元民を排除していたわけです。京都人は魂を売って自分らを裏切った人間には容赦がありません。「錦市場が困ってはる?ほなら助けたろ」なんぞ誰も思うはずもなく、心の底からイケずな地元民なら「いい気味やわぁ」と思ったのではないでしょうか。
観光関係者には気の毒なことですが、コロナ禍の間、京都は束の間本来の姿を取り戻したとさえいえるかもしれません。
そして京都は「おもろない街」になった
コロナ禍によりオーバーツーリズム問題は一時的に雲散霧消しましたが、観光で成り立っていた京都中心部の商業区画に大きな爪痕を残しました。まず観光客向けの飲食店、お土産店が撤退し、そうでない地元民から愛された店も空き店舗になりました。毎週新京極商店街を通るたびに「今日はここが店を畳んだか」「今日はここか」となんとも胸が苦しくなったものです。実はここで一気に増加した空き店舗が、その後京都という街を様変わりさせてしまう原因になったと思われます。
2023年5月にコロナが「5類感染症」に移行する少し前からまずは日本人が、そして2023年半ば以降は外国人観光客が戻ってきました。2024年に入ると歴史的な円安も後押しして、コロナ前をはるかに上回る勢いで外国人が京都に押し寄せました。それと同時に空き店舗となっていたテナントに次々とインバウンド向けの商店が開店し、その噂をSNSで聞きつけた海外観光客がさらに押し寄せ、空前の商機を逃すまいと土産、雑貨、衣類、よくわからない飲食店が乱立しました。
かくして「田の字」全体が外国人溢れる西日本有数のテーマパークとなりました。その中心地・錦市場は「京都の台所」とは程遠い「京都のフードコート」として再び息を吹き返したわけです。著者は経験から、中心市街地にカラオケボックスが増殖するのは衰退に向けた危険信号だと考えていますが、新京極蛸薬師東入の歩道と河原町には街をジャックするかのごとく大量出店するカラオケボックスが次々とオープンしてやたらカラフルな景観を演出しています。
「欲」にまみれた街からかつての「余白」がなくなりました。街を歩いてセンスを感じることも非常に少なくなりました。地元民として京都を歩いてもただただ疲れるだけ、京都は「田の字」からなんとも「おもろない街」になりつつあります。
インバウンドに便乗して街を壊す人々
京都がなぜ「おもろない街」になりつつあるのか、その原因を考えるヒントとなるのが京都府北部の丹後半島の付け根に位置する伊根町です。伊根町は人口2,000人ほどの小さな町ですが、舟屋が立ち並ぶ特異な景観は「日本のベネチア」と称賛されるほどです(ちなみに湯浅監督作品『夜明け告げるルーのうた』の舞台だったりします)。
京都府はコロナ前から京都府北部の「海の京都」DMO、南の「お茶の京都」DMOを立ち上げ、観光分散化による京都市内のオーバーツーリズム解消に乗り出しました。狙い通りに天橋立と伊根町に外国人観光客が殺到しましたが、なんとも無策なことに今度は伊根町がオーバーツーリズムで悩む羽目になりました。特に繁華街でもなんでもなく、普通に住民が生活する舟屋が観光資源化してしまった伊根町では、「観光客が無断で家に入ってくる」など日常生活が脅かされる事態だと報道されました。
筆者は現状を見るために今年9月、2年ぶりに伊根町を訪問しましたが、感想は「なんじゃこりゃ」でした。「なんじゃこりゃ」と感じたのは外国人観光客の多さではなく、既に伊根町が「自発的」にテーマパーク化していたからです。古民家を改装した宿やカフェ、果てには入場料をとって自宅の舟屋を見学させているところまでありました。そんな商業目的の古民家と普通の住宅が外見では見分けがつかない状態で混在しているわけで、そりゃ間違って普通の家に入ってしまうわ、というカオスっぷりでした。
伊根町を再訪する以前は「伊根町の地元の方々は押し寄せる外国人観光客に困惑しているのだろうな」というイメージもっていましたが、そんな同情心はどこか行ってしまいました。伊根町は「たくましく」稼げる街へと適応し、それがさらなるインバウンドを生む構造になっていたのです。
おそらく古民家改装カフェなどを経営しているのはヨソからやってきた人たちでしょう。元からの住民にとっては、ひと稼ぎしようと思っている人以外にはとんでもない迷惑だと思います。問題は、なぜこんな事態になるまで野放図な古民家利用を許したのか、という点にあります。
これと対照的なのが白川郷です。1995年に世界文化遺産に登録されましたが、そのはるか以前の1971年から合掌造り家屋を「売らない」「貸さない」「こわさない」の三原則を定めて集落を守り続けてきました。近年になって「貸さない」の原則を緩和する措置に踏み切っていますが、それでも受入れ対象は第一に地区出身者のUターン、第二に集落に近い村民、第三に村外の優先順位を設けたり、その他にも様々な条件を課すなど厳しい自主規制を課しています。つまり外部資本が古民家を改装して商業化することを未然に防いでいるわけです。
まとめ
そろそろ書くのも疲れてきたのでまとめに入ります。まず京都はかつて「もっさい」街でしたが、そこには「余白の美」ともいうべきセンス溢れる「おもろい街」でした。しかし、日本の観光立国化とともに街の形態は「インバウンド仕様」に変わっていき、ギラギラして「余白」のない「おもろない街」になりつつあります。コロナによるインバウンド消滅とその後の急反動はそれを一層強めました。
そして伊根町の事例を引き合いに出しましたが、京都を「おもろない街」にしているのはインバウンドという外からの圧力ではなく、その圧力にいともたやすく適合しようとする経済的営為にあります。つまり街はインバウンドに押しつぶされるのではなく、内から崩壊する可能性があるという一般論を引き出すことができると思います。
最後に、アニメ聖地になったにもかかわらず、あえて過剰に適応しない、つまり「変えない」ことを選んだ『たまこまーけっと』の舞台・京都市桝形商店街の事例をちょろっと紹介したいと思います。桝形商店街も「アニメ作品の舞台になる」ということでロケハンを受け入れたときは、アニメポスターを貼りまくろうだの、アニメのぼりを作ろうだの、アーケードにアニソン流そうだのという話になったそうです。しかし、アニメに出てくるありのままの商店街を聖地巡礼でやってくるファンに見てもらおうじゃないか、という方針に固まり、あえて「何もしない」ことにしました。したことといえば『たまこまーけっと』のポスター1枚アーケードの中心につるしたこと、ファン交流ノートを置いたこと、それだけです。
結果として、大洗や沼津のような「バズリ」方こそしませんでしたが、アニメ放映10年以上経っても国内外から「ありのままのうさぎ山商店街」を求めてファンがやってきます。住民の生活と街のあり方、観光の折り合いのつけ方として一つのモデルケースになるのではないでしょうか。