世間の”普通”と自分の”普通”
夜遅くに、パソコンに向き合うのはあまり好きになれない自分がいますが、火曜日の「午前0時の森」で発表された、「だが、情熱はある」に、言葉に表せないもやもやがあった。その感情と向き合ったら、こうなってしまった。
「だが、情熱はある」という作品は、南海キャンディーズの山里亮太さんと、オードリーの若林正恭さんの半生を描くドラマです。まだ、キャストなども発表されていないが、なぜ言葉に表せないか、一人で黙々と考えていました。
今回、発表されたこの作品は”たりないふたり”というユニットを組んでいた2人の物語でもあると思います。
私は、”たりないふたり”に感銘を受けた社会の歯車の1人です。
約10年前に”たりないふたり”を知った私は、その当時、周りの普通と、自分の普通と思っていることの違いに、非常に悩んでいました。
今は多様性が大事と叫ばれている世の中ですが、約10年前はそんなことない時代でした。当時の2人はテレビでお笑い芸人が好きそうな「飲み会」というものに対し、否定をしていたのです。それは、世間のお笑い芸人に対しての”パブリックイメージ”と真反対の行為です。きっと、リアルタイムで見ていた、所謂、世間の”普通”と呼ばれる人たちは、”変人”とみていたことでしょう。ただ、私にはそれが新鮮で、すべてを肯定してくれるものでした。
所謂、”普通”というものが、”普通”ではない人達もいる。”普通”というものは多数が支持しているだけの、戯言のようなものだと思っていた。
日本という社会は”普通”が好きだ。すべて同じようにし、乱れることを好まない。乱れてる人からしたら、同じようにすることを”異常”だと思い、個性があることが”普通”と思える。
だからこそ、”普通”というのは非常に難しい。
こんなことを十数年前に思っていた私は、今でこそ、パブリック的に”普通の人”になったかもしれない。でも、パブリック的に”普通”ということ自体も、”普通”ではないかもしれない。
話を戻すと、お笑い芸人のパブリックイメージの”普通”とは異なる2人と出会えたことで、自分の物差しの”普通”で生きることに自信と勇気をもらえた事を思い出した。
おそらく、こういう気持ちがあったから、言葉に表せない感情がこみ上げたんだと思う。
芯がある・芯がない。なんてことはどうでもよくて、自分の物差しで測ることと、”普通”ではないこと(嫉妬や妬みなど)を、バネにしてきて、成功している姿を見れていることも、また心に来るものがあったのだと、自分の中で着地した。
日本テレビ系列で2023年4月から放送予定の新ドラマ「だが、情熱はある」を楽しみに、また、モチベーションにして生活をしていこうと思った。