【第三世代フェミニストの弾薬庫】「皮膚で連続する人体領域の三重性」について
以下で始めた「皮膚で連続する人体領域の三重性」に関する議論。
さらに深めるには、他の二つ、すなわち同様に全身を被覆する「運動系」と「感覚系」についても同様の対蹠性を見出して同相性を確率しないといけません。「位相幾何学(Topology)だよ、ワトソン君!!」
実はこちらは回路方程式における「定常状態」には存在せず、ただ「過度現象」においてのみ(落雷の様に)偶発的に様々な経路で一時的に現れるだけなのです。
過渡現象と回路方程式(Transient Phenomena and Circuit Equations)
電気回路が 一定条件下に十分長時間置かれた場合,回路内部の電圧・電流は一定の状態となる ⇒ 「定常状態」
電気回路内の スイッチの開閉時や回路素子の値が変化する場合、
定常状態から別の状態への移行(エネルギーの増減・変換・消散)が発生する⇒ 「過渡現象」
全体の鍵を握るのは走性の話。
ある刺激を受けた時、その方向に向かうのが「正の走性」、反対の方角に向かうのが「負の走性」。
なお、同時に「正の走性=(例えば餌の捕食や、逆に捕食に対する抵抗といった)攻撃系」も「負の走性=(捕食者から逃げるといった)逃走系」も助けるアドレナリンが分泌され、興奮状態が高まる。
それでは「運動系」と「感覚系」それぞれについて、こうした「極性」がどういう形で現れるのについて具体的に見ていきましょう。
「運動系」に顕現する「極性」
筋肉の動作は理論上、すべからずそれぞれ「動作開始時間」と「動作終了時間」を備えている筈です。しかしながら実際のそれは連綿と続く連続過程の一部に過ぎない事が多く、そもそも時間的場所的な意味合いにおける「始まり」と「終わり」を検出する事自体が難しい場合すら存在するのです。
人間の脳は筋肉の一本一本に直接命令を出している訳ではない。例えばある対象に対する「正の走性」と「負の走性」の表現として「顔を向ける」動作と「顔を背ける」動作の対が存在する訳ですが、実際に動作してるのが首筋回りの筋肉であるにも関わらず、当事者の身体感覚においては顔の角度の変化があるのみ。下手したら自分自身の身体反応を当事者が意識していないケースすら…
こうした次元の諸問題について最初の地固めを行ったのは宗教界でした。
①仏教における「縁起」「因縁」概念。龍樹(3世紀)「中論(根本中頌)」の章句「不生亦不滅、不常亦不斷、不一亦不異、不來亦不出(生ずることなく、滅することなく、常住でもなく、断滅でもなく、同一でもなく、異なることなく、来ることなく、去ることもない=鳩摩羅什漢訳版)」などが著名。そして、ある意味「そこからどう解脱するか」こそがが仏教の主題という次第。
なお、最近ネットで話題となったのが鳩摩羅什のこの逸話…
②キリスト教学、特にスコラ学は「第一原因=神の影響力だけが、時間と空間を超越して存在するあらゆる連続動作の大源流」と考えた。
この考え方はマテオ・リッチ(1552年~1610年)「天主実義(1603年)」という形で漢文化され、近世中国・朝鮮・日本の儒学者の猛烈な反発を引き起こしたが、その一方で「平田国学の祖」平田篤胤(1776年~1843年)だけはその考え方を古事記や日本書紀の冒頭に登場する「ムスビの神」と結びつけようとした。
③イスラム文化圏からは以下の考え方がキリスト教圏に流出。
「神の英知そのものは確かに無謬だが、理念の世界は現実世界へと流出していく過程で数多くの誤謬を累積させ、やがては矛盾や対立、さらに究極的には悪をもこの地上に誕生させてしまう」と考える「中世スンニ派思想の完成車」ガザーリー(1058年 - 1111年)の流出論。
「文化的に洗練されて柔弱化した都心部が、部族的紐帯を武器に攻め上がってくる辺境に敗北し続ける」イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)の王朝交代説。古代メソポタミア文化における「文化の恵みメー」概念の伝統を継承する。
④儒教文化圏の理気論からは「(物理学の計算が距離を微分して速度ベクトル、さらにその速度ベクトルを微分して重力加速度$${\left[ 1 \right]_0^1}$$の概念に辿り着く様に)正気概念の結晶を時代と地域を超越して収集する」漢文「正気歌」のディスクールが登場。なお清初の儒学者は気一元論に到達し、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「理」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「気」の優位を主張して人間の欲望をも肯定するに至った。その後戴震が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するに至る。
スラッシュ(海外の腐女子)のスローガン「我々は裸が見たい訳じゃない。筋肉を照覧(Look Up)」の「照覧(Look Up)」はある意味宗教概念由来なので、こうした展開も当然視野に入れとかないといけないのですね。
かかる照覧文化は、ミュージカル映画「グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman,2017年)」のこの映像を鑑賞して「あのバーテンダーになりたい」と溜息を吐く心理に通じるものがある模様。
交点はおそらくこの辺り?
そして、さらには…
まだま全然掘り下げが足らない…ここはとりあえず、旧投稿で既に取り上げた「(物理学の計算が距離を微分して速度ベクトル、さらにその速度ベクトルを微分して重力加速度$${\left[ 1 \right]_0^1}$$の概念に辿り着く様に)関心概念の結晶を時代と地域を超越して収集する」方法論を採択し「観察対象」と「観察者」の二極を抽出して先に進むものとします。この構造自体「外形観察」にこっそりと埋設された「窃接願望」と掃除関係にありそう?
「感覚系」に顕現する「極性」
感覚系における極性は元来上掲の「正の走性(獲物を捕捉して襲いかかる準備を整える/天敵を捕捉して反撃の準備を整える)や」「負の走性(天敵を捕捉して逃避の準備を整える)」そのもので、そうした一連の脊髄反射的反応の中に運動器の動作も組み込まれている訳です。まるでコンピューター・ゲームの1ジャンルたるFPS( First-Person Shooter)みたいな世界観ですね。従ってここでも「観察対象」と「観察者」の二極抽出が可能となる訳ですが…
皮膚感覚との相関性が薄いのでここでは掘り下げないが、この話は2010年代前半より急激に「スマフォをFirst Screenとする人口」が急増し始めた話とも絡んでくる。
困った事にエロティズムと密接な関係を有する「くすぐったさを感じるメカニズム」は、このシステムのバグとして存在している訳です。
はっきりいってこの分野の研究は随分と遅れている様です。個人的には日本の科学専門誌Newtonが、20世紀には売り上げUPの為に時々掲載していたセックス特集で様々な研究例を次々と紹介していた事を思い出します。
20世紀は今では考えられないくらい鷹揚な時代で、私も大学生時代に流行ののファッションに身を固めた美人大学院生に「全身に電極をつけてポルノビデオを視聴させられる実験」の被験者になった事があります。ポルノ画像の選定が雑だったり、ポルノ画像の合間に脱馴化刺激(?)として流される映像が「乳母車を押してる年配ママ」である点に妥当性が感じられなかったりする事を指摘したら「うるさい!! 男にそんな事考える頭があるか!!」と、怒鳴り返されたのを今でも覚えています。今から思えば、いわゆる似非フェミニストの嚆矢の様な存在だったのかもしれません。私があえて「本格派フェミニスト」を名乗り出した契機の一つ…
皮膚で連続する人体領域の三重性(暫定改訂版)
上掲の検討結果を反映したのが以下の「新人体MAP」となります。最大の変更点は「窃接系(窃視系+接触系)」「感覚系」「運動系」をある種の深層レイヤーと捉え直し、その結果がある種の機械学習的過程を経て全身を被覆する身体部位集合の分布意味論的あり方に影響を与えるとした点。
単なる単極球状体(Monopolar Sphere)ではない安心感…ただし群条件を満たす為には「連続性」だけでなく「単位元を中心として任意の元に逆元が存在する」必要があるのです。
だいぶこの「皮膚感覚モデル」にも目鼻がついてきました。あとし少しで「赤道線の最尤推定」みたいな応用編に話に持ち込めそうです。そんな感じで以下続報…