【第三世代フェミニストの弾薬庫】「表現規制主義者」の観点から振り返る欧州史①「伝統主義」は本当に輝かしい勝利を飾り続けてきたのか?
ちょっとした契機があって、はてなブログ時代に構築した歴史観がX(旧Twitter)でいい感じに要約出来たので転載。その契機となったのは以下の一連のポスト。
既にこういう意見もぶら下がってましたが…
それでは、現実はどういう風に推移してきたのでしょう?
【第一幕】イタリア・ルネサンス期に端を発する「芸樹家のパトロンからのパトロネージュ以外の収入源を確保していく」歴史
ある意味「クリエーターと表現規制派の戦い」はイタリア・ルネサンス期(14世紀 - 16世紀)にまで遡るのです。
当時の 歴史的推移を図にまとめるとこんな感じ。
「」どころか「怒りに身を任せての大虐殺」を遂行するばかり。しかも跡地に恐ろしいトラウマを残していきます。
サヴォナローラの神権政治(1494年~1498年)に破壊され尽くした後のフィレンツェではフランス軍の手を借りてメディチ家がトスカーナ大公国(1569年~1860年)を建国。この国が残した最も著名な作品はペストの残禍や古代ギリシャ・ローマの神々の性病による全滅を蝋人形のジオラマで再現したズンボ(Gaetano Giulio Zumbo 、1656年~1701年)の「死の劇場」シリーズ。マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年~1814年)が絶賛した事でその筋の好事家達の間で有名に。
ローマ劫掠(1527年)後のイタリア芸術は「 レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロやミケランジェロら盛期ルネサンスの巨匠達が古典的様式を完成させた」としてその模倣に終始するマニエリスム(伊: Manierismo ; 仏: Maniérisme ; 英: Mannerism)時代に入り、時として不気味に映る遠近法の歪曲などでしか個性が発揮出来なくなって往事の快活さが完全に失われてしまう。その一方で、その「時として時として不気味に映るパースペクティブの歪曲」がシュールリアリズム運動などに影響を与えた。
上掲の様にそれぞれ後世に再評価を受けた部分もあるのですが、とにかく印象に残るのが「決して戻らなかった明るい笑顔」。少なくとも「自由でありながら他者を尊重し、同時に否定されても許容できる範囲に収まっていた創作行為」なんてそこにはまるっきり存在してなかった様なんです?
誰もが「退廃の始まり」と指摘するアヴィニョン教皇庁(フランス語: Palais des papes d'Avignon, ラテン語: Palatium paparum)時代(1309年~1377年)
こちらもこちらで悲壮な終わり方をしてますね。なお、ここでいう「誰も」は主に「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch,1860年初版)」の著者ブルクハルト(Carl Jacob Christoph Burckhardt、1818年~1897年)と「恋愛と贅沢と資本主義( Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)の著者ゾンバルト(Werner Sombart、1863年~1941年)の事。
19世紀における市民社会の成熟が可能とした「(特定のパトロンに依存しない)プロ音楽家」の誕生。
そういえば「ピアノの魔術師」フランツ・リスト(Franz Liszt、1811年~1886年)のファンクラブが欧州中に設立され、キャラクター・グッズまで販売されたのもこの時代。江戸幕藩体制下で歌舞伎役者が大人気となりファッション・リーダーの役割も果たしていたのと重なりますね。
なお、著名歌舞伎役者の邸宅にはしばしば(時として複数の)「押しかけ女房」が一緒に暮らしていたとか。彼女達はまず三味線や唄や踊りなどの技芸をプロ級に高め(名家の町娘は武家屋敷に奉公し、宴席で技芸を披露するのが常だった為に腕を磨く機会がいくらでもあった)弟子達を味方につけて派閥を形成するので迂闊に追い返せず、しかも当時のメディア「役者評判記」がこのスキャンダルを面白おかしくレポートして売り上げを伸ばしていたとか。まさにこれぞ資本主義の世界…
【第二幕】産業革命到来によって消費の主体が王侯貴族や高位聖職者から新興ブルジョワ階層や庶民に推移
これも江戸幕藩体制下の日本で吉原などの顧客が「武家や僧侶」から「(元禄時代以降の)豪商」や「(文化化政時代以降の)大工の棟梁といった有力町人」に推移していった過程と重なりますね。その推移をスムーズに進める上で役立ったのが「連歌や俳句を詠む定例会」に由来し、都市部ではあらゆる身分に組織された「連=趣味の会」の存在。
やっとフェミニズムに関わってくる流れに話題が到達しました。2010年代tumbrでは表現規制派がNora Gilbert「Better Left Unsaid: Victorian Novels, Hays Code Films, and the Benefits of Censorship(2013年)」なる強力な武器を携えていたので、結構拮抗した意見交換が為されたものです。
こうした本の内容に対して我ら第三世代フェミニズム側が提示したのは「読者に配慮しない作品は商業的成功を達成出来ないのは今も昔も変わらないが、現在その条件を満たすのは、むしろ(既存のTVドラマの無難な展開に飽きたらなくなった視聴者が選んだ)「Breaking Bad(2008年~2013年)」や「スパルタカス(Spartacus: Blood and Sand、2010年)」や「Game of Thrones(2011年~2019年)」といった作品である」という言い分。
それでは時代に沿って順番に見ていく事にしましょう。
「推理小説」の誕生(実話誌レベルからの脱却)
まずエドガー・アラン・ポー( Edgar Allan Poe, 1809年~1849年)作品に登場する「素人探偵C・オーギュスト・デュパン」、バルザック(Honoré de Balzac 、1799年~1850年)作品に登場する「悪党ヴォートラン」、)、ユーゴー(Victor-Marie Hugo、1802年~ 1885年)作品に登場する「逃亡者ジャン・バルジャン」と「ベジャール警部」、コナン・ドイル卿(Sir Arthur Ignatius Conan、1859年~1930年)作品に登場する「素人探偵シャーロック・ホームズ」、モーリス・ルブラン(Maurice Marie Émile Leblanc、1864年~1941年)作品に登場する「泥棒紳士アルセーヌ・ルパン」すべての原型とされる怪人物フランソワ・ヴィドック(Eugène François Vidocq、1775年~1857年)の存在そのものがバグっています。
こんな人物が実在するなんて…(実物と会ったことがあるのはバルザックのみ)。日本は無関係かというと岡本綺堂(1872年~1939年)作品に登場する「史上初の捕物帳主人公」半七がシャーロック・ホームズ、黒澤監督の手で1965年に映画化された山本周五郎「赤ひげ診療譚(1959年)」の「赤ひげ先生(演三船敏郎)」がヴォートランをモデルとしてるのでそうでもありません。いずれにせよ元話は「ニューゲート・カレンダー」同様、その内容は実話誌掲載記事レベルですから、そのまま引き移せば(新聞の三面記事にヒントを得たという)ドストエフスキー(Фёдор Миха́йлович Достое́вский、1821年~1881年)「罪と罰(Преступление и наказание, 1866年)」やアルバン・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885年~1935年)「ヴォツェック(Wozzeck、1914年~1922年)」の様に陰惨で救いのない展開となり、当時の読書階層に暇つぶしとして読まれる事もなかったでしょう。
さらには「そもそも殺人事件をエンターテイメントの主題に選ぶなんて!!」という保守的意見もあり、その普及には並々ならぬ苦労が存在したという次第。まぁここは「表現規制派の一勝」でいいと思います。
なお米国人ジャーナリストのエドガー・スノー( Edgar Snow、1905年~1972年)は「アジアの戦争(The Battle for Asia、1941年)」の中で上海に布陣した日本軍占領地を訪ね、日本兵の誰もがこの野村胡堂の「銭形平次」シリーズを聖書の様に大事に携帯して持ち歩き、隙あらば読み耽っているのを目撃し「銭形平次は、然るべき理由さえあれば犯罪者を見逃しにしてくれる人物という。きっと日本兵にとって不当な戦争行為を許してくれるイエス・キリストの様な存在に違いない」と勝手な推察を述べています。なおこの時、国民党側の陣地は日本軍の厭戦気分を煽る為に毎日大音量でブルージーなジャズを鳴らし続けていたとの事。銭形平次がジャズと結びついた契機は、案外そんなところにあったのかもしれません。
これだけ「銭形平次」が売れた作者でさえこの述懐ですから、当時の日本における推理小説への偏見は相当なものだったと思わざるを得ないのです。
「(「フランダースの犬」の主人公)ネロを殺した真犯人は(「アルプスの少女ハイジ」の主人公)ハイジ」とは?
「アルプスの少女ハイジ(Heidi、1880年~1881年)」の原題は「Heidis Lehr- und Wanderjahre(ハイジの修行時代と遍歴時代、1880年出版)」および「Heidi kann brauchen, was es gelernt hat(ハイジは習ったことを使うことができる、1881年出版)」。著者ヨハンナ・シュピリも認めている通り、明らかにドイツの文豪ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(Wilhelm Meisters Lehrjahre、1796年)」および続編「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代(Wilhelm Meisters Wanderjahre、1829年)」から着想を得ています。
主人公がさまざまな体験を通して内面的に成長していく過程を描くドイツ教養小説(Bildungsroman=成長小説)の基礎を固めたともいわれてますが…
このタイプの物語の大源流はどうやらスペインにおいて品行方正な騎士道物語をおちょくるべく生み出されたピカレスク小説にあるらしく、伝統的勧善懲悪観では悪として破滅していくタイプのキャラクターがそれなりにの成功を収めて大団円となるパターンが散見されるのもその一環。
しかし王侯貴族や聖職者などの伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層が中央集権化に成功したフランスの様な絶対王政体制化に生まれた叛逆文学ではあえて主人公の破滅で終わらせるケースも。その背景に新教と旧教の間での恩寵説や自由意志論をめぐる神学上の対決があり、ここから迂闊に弾圧を招かない様に「予定された救済にあえて背を向けて破滅していく自由を謳歌する英雄主義」なる考え方も登場。
ノヴァーリス「青い花(Heinrich von Ofterdingen、1802年)」の様に結末まで辿り着けず(著者の死により)未完で終わる作品も多かった。これは教養(成長)小説の宿命で近代日本においても尾崎紅葉「金色夜叉(1897年~1902年)」や中里介山「大菩薩峠(1913年~1941年)」も同様に著者死亡で未完に終わっている。
この様に悲劇にでの終焉を強要する社会的外圧が存在しなければハッピーエンドに終わるとは限らず、実際米国既存社会への反逆から生まれた「アメリカン・ニューシネマ(New Hollywood、1960年代後半~1970年代中旬)」は(全観客を納得させられる様な)旧体制打破後の明るい未来」を思い描く事が出来ず、悲劇的結末に逃げてお茶を濁す事が多かった。
しかしながら大量生産・対象消費スタイルが定着した19世紀後半の産業革命浸透期には消費の主体が王侯貴族や高位聖職者の様な地税生活者こそが富貴なる伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層を構成していた時代が終焉し「苦労が報われる明るい成功譚」を求める新興ブルジョワ階層や庶民階層が新興パトロン層として台頭してくるのです。
巨匠ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年~1832年)最晩年の大作「ファウスト(Faust、第一部1808年、第二部1833年)」もある種の教養(成長)小説として読めなくはないが、上掲の新興パトロン層にとってはいかんせん内容が思弁的かつ抽象的過ぎて本国では忘れ去られるのも早かった。むしろ正解に近かったのは修行時代を書いた第一作(1796年)が好評で多くの読者から続編を望まれ、実際に1822年に発表したら「内容が散漫過ぎる」と批判されて改めて1829年に改訂版を発表した「ヴィルヘルム・マイスター」シリーズであり、しかもこの作品が「教養(成長)小説のテンプレート」としての体裁を整えるにはこれだけの時間を要したのである。
新聞連載長編で財と名声を築いたアレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas、1802年~1870年)のプロデュースで1849年に処女戯曲を上演し、「(マルキ・ド・サドと並んで)史上初のマーケッター」と称される事もあるエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe, 1809年~1849年)の「作品に科学的知識を盛り込む作劇法」に影響されて執筆した化学冒険小説「気球に乗って五週間(1Cinq semaines en ballon、863年)」の大ヒットで流行作家の仲間入りを果たしたジュール・ヴェルヌ(Jules Gabriel Verne、1828年~1905年)もその直前に暗い未来を描いたデストピア小説「二十世紀のパリ(Paris au XXe siècle,1861年)」出版社に持ち込み「時代の空気に合わない」と出版を断られている。
イタリアの作家・カルロ・コッローディの児童文学「ピノッキオの冒険( Le avventure di Pinocchio、週刊誌連載1881年~1882年、1883年刊行)」も、週刊誌連載時の最初の結末は「悪い子だったピノキオが自業自得で悪者に騙されて非業の最後を遂げる勧善懲悪譚だったのだが、読者から苦情が殺到してハッピーエンドへの改変を余儀なくされている。
コナン・ドイル卿はシャーロック・ホームズを、モーリス・ルブランはアルセーヌ・ルパンをそれぞれ作中で殺して物語の幕を引こうとしたが、読者からの苦情が殺到して甦らさざるを得なくなった。
こうした時代に教養(成長)小説作家達がどう対応したかというと、なんと存命作家の多くが「容赦というものを知らない新興パトロン層の顔色を窺って」悲劇的結末をハッピーエンドに書き換えたのでした。
ただ「フランダースの犬(A Dog of Flanders, 1872年)」の作者ウィーダ(Ouida)こと、マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー(Marie Louise de la Ramée、1839年~1908年)は、自らも後先考えず強引に英国からフィレンツェに移住して犬を大量に飼い、その飼育費に生活を圧迫されて最後は餓死同然の最後を遂げた様な人物なので、このすっかり時代遅れとなった「資本主義的発展に追い立てられて地上に居場所をなくした若き天才と荷駄引き犬が悲壮の最後を遂げる悲劇」の改変を拒み続け、真逆にゲーテ「ヴィルヘルム・マイスター」シリーズをさらに産業革命時代に合致する内容に書き換えた「ハイジ」シリーズで商業的成功を収め晩年まで旺盛に執筆活動と慈善活動を続けたヨハンナ・シュピリ(Johanna Spyri、1827年~1901年)とその後の人生と同時代における作品評価に大差がついてしまったのでした。
なお「フランダースの犬」原作を読むとまた別の「ネロを殺した真犯人」の姿が浮かび上がってきます。その正体は大した努力もせず「自分は天才だ」と自惚れ、間違った判断ばかり繰り返す原作版ネロを諌めるどころか、その姿にすっかり心酔して取り返しがつかなくなるまで甘やかし続けたアロアちゃん。本当に彼が最初だったのでしょうか?これで最後という事があり得ましょうか?パパなら何か知ってた筈ですが、結局作中でヒントとなる様な時発言がなされる事はなかったのです。あるいは彼女こそが「夢見る少女」としての作者の分身だったのかも。
さてこの様に「残酷な進行パトロン層の裁定」は下った訳ですが、これを「表現規制派の勝利」と呼ぶのにはあまりに無理があり過ぎるので「引き分け」と考える事に致しましょう。
「ポルノグラフィ(売春婦芸術)弾圧運動」運動顛末記
詳細は以下のリンクを見てください。「ボヴァリー夫人(Madame Bovary、1854年)」作者にして写実主義文学の確立者フローベール(Gustave Flaubert 、1821年~1880年)」は実際に訴訟を起こされ、「悪の華(Les Fleurs du mal、1857年初版)」作者にして象徴主義文学の先駆者ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821年~1867年)は罰金刑を課され、「草上の昼食(Le Déjeuner sur l'herbe、1862年~1863年)」や「オランピア( Olympia、1863年)」の作者エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年~1883年)は徹底して罵詈雑言を浴びせられたのです。自然主義文学の定義者エミール・ゾラ(Émile Zola、1840年~1902年)や印象派絵画の時代に入ってなお反対派は末端を狙って執拗に訴訟を続け、自殺者を出す事にまで成功しています。
そういえばワーグナー(Wilhelm Richard Wagner、1813年- 1883年)の「タンホイザー上演妨害事件(1861年)」があったのもこの時代。
ああ、こういう傲慢な態度には見覚えが…
それでは当時「弾圧側」には一体誰がいたのでしょうか?
芸術アカデミーとそれに与するメディア
かつてワーグナーにバレエの挿入を要求し断られた事を恨んでいたジョッキークラブの若い貴族たち。ワーグナーに食いついた様に、そもそもオーストリアに良い感情を持ってなかった雰囲気が察せられる。
これらの権威筋に媚を売る事で自らの立場の安堵と引き上げを狙った新興ブルジョワ階層。第三共和制(1870年~1940年)体制下において新興芸術家を訴えた裁判に陪審員として招聘され、芸術の事は何も知らないまま「このフランスにお前らはいらない」と突きつける役割を担わされていたとされる。
ここまで雑多な集団に共通する関心事といえば「それまで巧みに不可視の形で社会に埋設されてきた売春組織の秘匿維持」くらいしか思い当たりません。何しろマネの「草上の昼食」や「オランピア」に描かれていたのは、紛れもなく売春婦(と黒人女の付き人)、そしてボードレールの「悪の華」が叩かれた理由の一つも「そこに黒人娼婦が登場するから」というものだったのです。これらの作品が、その筋の人達からまとめて「ポルノグラフィ(売春婦芸術)」と罵倒された理由もまさにこれでした。
その因果関係についての証言が一切残ってない事からこれ以上踏み込む事は出来ませんが、そういえばモンパルナスに設置されたグラン・ギニョール劇場(1897年~1962年)も最初期には「浮浪者、街頭の孤児、娼婦、ギャングといった「一般人には不可視の人々」にスポット・ライトを当てた真摯な社会派リアリズム演劇」を志向したが、官警の摘発を受けてしまい荒唐無稽な残酷劇への転身を余儀なくされています。
なお、この戦いは当時対等した新興芸術家達の側からは「エロティズムは非日常、すなわち聖書や神話の場面やエスニックな外国の風景と結びつけられた時だけ許される」なる当時までの神学的伝統を打破する過程とも認識されていました。逆にそのレギュレーションさえ飲めばいくらでもエロい作品を描いてもよく、そういう時代が生んだ鬼子がアカデミック美術(academic art)と呼ばれる作品群という次第。
自らの歴史も知らない後世の似非フェミニストや表現規制派の「ポルノグラフィ弾圧運動」は、自らの大源流がここまで必死で守ろうとしたこういう作品も容赦無く焼く様に。結局のところ彼らにはその瞬間瞬間の怒りに任せた脊髄反射的破壊衝動があるばかりで、それを統合し得るいかなる知性も備えていないという事になりましょう。かくして表現規制派はこ局面では敗北…
Hays Code(制定1930年、履行1934年~1960年)の時代
まず忘れてはならない事。それは「1890年から1958年にかけて新しい機械が発明され生産速度が向上したアメリカでは労働時間当たりの製造業における生産高が約5倍になった」という事実。
そして1920年代末頃から次第にトーキー映画が登場。 サイレント映画時代までアメリカ国民は階層ごとに異なる劇場に通い、それぞれが自らの水準に合わせた芝居や技芸を楽しんできましたが、これからは変わってくると考え新たな倫理規定が制定されたのです。それがThe Motion Picture Production Code of 1930、いわゆるHays Code(制定1930年、履行1934年~1960年)となります。1929年、大手業界紙 en:Motion Picture Heraldの編集者でカトリックの信徒であるマーティン・クィッグリーと、イエズス会士であるダニエル・A・ロード神父は、映画向けの倫理規定を作成し 、映画スタジオに送った草稿が叩き台となりました。
そもそもカソリックは「人間は五感を通じて神の国を感得する」という前提から教育効果と芸術と儀礼を統合してきた伝統を有しており、特に反宗教革命の使命を帯びて世界中に伝教の旅に出たイエズス会はこの方面のノウハウを徹底して研鑽してきた。そうした経験の延長線上で「映画の登場が人類に与える影響」について考えている興味深い文章。
そしてその内容はまさしくガブリエル・タルドの模倣犯罪学そのもの。というより、むしろ逆にこうした思考様式こそが「模倣犯罪学」なる発想の起源だったとも。
時はまさに禁酒法(Prohibition、1920年~1933年)の最中。
そう、密造酒利権を巡る争いでギャング間闘争が激化し、法への信頼感が著しく損なわれた時期でもあったのです。
当時独特の緊張感が伝わってくる様ですね。
そしていよいよ性描写についての規制となります。
猥褻性については、また別の規定が。
衣装についても。
また、以下の様な長文の注釈が付帯してました。
さて、この様な規制からどの様な作品が生まれてきたのでしょうか? まずは絡め手「暗黒街の顔役(Scarface、1932年)」。「主人公たる悪党も、それを囲む環境も一切美化せず描き、最後には破滅させる」実録者っぽいアプローチですね。
一方、イタリア移民出身のフランク・キャプラ監督(Frank Russell Capra、1897年~1991年)は上掲の規制の本質を「幸福な結婚を奨励せよ」と読み取り、ドラマを盛り上げる為に「ロミオとジュリエットのバルコニー式」に面白おかしく障害を積み立てるスクリューコメディ形式を開発「或る夜の出来事(It Happened One Night、1934年)」や「オペラハット( Mr. Deeds Goes to Town,、1936年)」が当時大ヒットした代表作。
「ロミオとジュリエットのバルコニー式」…詳しくは以下を参照の事。
そして、同じくこの規制を「幸福な結婚を奨励せよ」と解釈したウォルト・ディズニー(Walt Disney、1901年~1966年)が制作したのが「史上初の劇場版長編アニメーション」「白雪姫( Snow White And The Seven Dwarfs、1937年)」だったのです。
アニメーション映画略史についてはこちら。
このブロックはまぁ「表現規制派の勝利」で構わないでしょう。というより、逆をいえば「表現規制派の勝利」とは、こういう綺麗な形でなければなりません。
【第三幕】1960年代以降の動乱
とりあえず、ここまでの表現規制派のスコアを確かめてみましょう。
アヴィニョン教皇庁時代(1309年~1377年)…色々あったが、とにかく最終的には贅沢の限りを尽くした退廃的生活を完全粉砕に成功。よって勝利。
イタリア・ルネサンス期(14世紀~16世紀)…フィレンツェでメディチ家が贅沢三昧の退廃的生活を送った前期ルネサンス(14世紀~15世紀)と、ローマでルネサンス教皇が贅沢三昧の退廃的生活を送った盛期ルネサンス(15盛期~16世紀)は完全粉砕に成功。ヴェネツィアの商業活動が中心となった晩期ルネサンス(16世紀)こそ仕留められなかったsが、大航海時代(16世紀~17世紀)到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移すると勝手に没落。よって勝利。
欧州絶対王政期(17世紀~18世紀)…それまで王侯貴族や高位聖職者といった(もっぱら地税生活者で構成される)伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層のパトロネージュに頼るしかなかった芸術家の生活手段が広がる。表現規制関係ない。よって敗北。
推理小説の成立…それまで一般人にとって不可視だった犯罪の世界を可視化する過程では適切な表現規制が重要だった。よって勝利。
教養(成長)小説の成立…国家による中央集権化が急速に進む中、伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層(=旧パトロン層)の間で危機感が高まり、そこから出た叛逆者達が「神が用意した救済にあえて背を向けて滅びの道を歩むダンディズム(退廃主義)」に到達。しかし産業革命時代以降消費の主体となった新興ブルジョワ階層や庶民(=新パトロン層)は「全ての努力が報われるとは限らない」「誰もが試練を乗り越えて生き延びるとは限らない」成長譚を望む様になった。表現規制絡みの話。よって勝利。
19世紀後半のフランスで始まった「ポルノグラフィ(売春婦文学)弾圧運動」…結局のところ王侯貴族や高位生活者といった伝統的地税生活者はその上澄が新パトロン層のうち新興ブルジョワ階層に、引き上げ切れない末端が庶民層に吸収された訳だが、両者ともに守りたい伝統的既得共通権益(不可視化された売春制度)の防衛には失敗した。よって敗北。
Hays Code(制定1930年、履行1934年~1960年)の時代…トーキー映画が登場し「ブルジョワ階層と庶民階層の関心空間の分離」がこれ以上不可能となった段階で伝統的パトロン階層が提示した倫理規定。1950年代まではそれなりに有効だった。よって勝利。
それでは1960年代以降、欧米社会(特にアメリカ)では一体何が起こったのでしょうか?
新左翼・ヒッピー運動
詳しくは以下。
黒人公民権運動
フェミニズム運動再建
こうして人類は「富裕層-貧民層」「白人-非白人」「男性-女性」なる三次元直交座標系評価軸に到達したという次第。もちろんそれぞれの評価軸は単なる二項対立ではありませrん。
とりあえず、そんな感じで以下続報…