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【第三世代フェミニストの弾薬庫】「表現規制主義者」の観点から振り返る欧州史①「伝統主義」は本当に輝かしい勝利を飾り続けてきたのか?

ちょっとした契機があって、はてなブログ時代に構築した歴史観がX(旧Twitter)でいい感じに要約出来たので転載。その契機となったのは以下の一連のポスト。

既にこういう意見もぶら下がってましたが…

それでは、現実はどういう風に推移してきたのでしょう?

【第一幕】イタリア・ルネサンス期に端を発する「芸樹家のパトロンからのパトロネージュ以外の収入源を確保していく」歴史

ある意味「クリエーターと表現規制派の戦い」はイタリア・ルネサンス期(14世紀 - 16世紀)にまで遡るのです。

当時の 歴史的推移を図にまとめるとこんな感じ。

「」どころか「怒りに身を任せての大虐殺」を遂行するばかり。しかも跡地に恐ろしいトラウマを残していきます。

  • サヴォナローラの神権政治(1494年~1498年)に破壊され尽くした後のフィレンツェではフランス軍の手を借りてメディチ家がトスカーナ大公国(1569年~1860年)を建国。この国が残した最も著名な作品はペストの残禍や古代ギリシャ・ローマの神々の性病による全滅を蝋人形のジオラマで再現したズンボ(Gaetano Giulio Zumbo 、1656年~1701年)の「死の劇場」シリーズ。マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年~1814年)が絶賛した事でその筋の好事家達の間で有名に。

Not familiar with chiseling, he learned to model colored wax. This led to his patronage by the Grand Duke of Tuscany in Florence, for whom he created a series of five morbid models, almost a memento mori, depicting the progressive Corruption after death, beginning with a dying man, followed by a corpse, a corpse just starting to decompose, half corrupt, another completely corrupt, and finally eaten by worms.

彫刻に馴染めなかった彼は着彩蝋細工に注目。フィレンツェのトスカーナ大公のパトロネージュを受けて「死を忘れるな(memento mori)」を主題とする5個の病的な蝋人形ジオラマを制作した。瀕死の病人、様々な腐乱段階の遺体に虫が集る様子…

上掲Wikipedia「Gaetano Giulio Zumbo」
  • ローマ劫掠(1527年)後のイタリア芸術は「 レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロやミケランジェロら盛期ルネサンスの巨匠達が古典的様式を完成させた」としてその模倣に終始するマニエリスム(伊: Manierismo ; 仏: Maniérisme ; 英: Mannerism)時代に入り、時として不気味に映る遠近法の歪曲などでしか個性が発揮出来なくなって往事の快活さが完全に失われてしまう。その一方で、その「時として時として不気味に映るパースペクティブの歪曲」がシュールリアリズム運動などに影響を与えた。

上掲の様にそれぞれ後世に再評価を受けた部分もあるのですが、とにかく印象に残るのが「決して戻らなかった明るい笑顔」。少なくとも「自由でありながら他者を尊重し、同時に否定されても許容できる範囲に収まっていた創作行為」なんてそこにはまるっきり存在してなかった様なんです?

誰もが「退廃の始まり」と指摘するアヴィニョン教皇庁(フランス語: Palais des papes d'Avignon, ラテン語: Palatium paparum)時代(1309年~1377年)

代々の教皇は教会組織における行政、司法、財政の諸改革を進めてそれぞれの機関も整備拡充され、南仏の金融活動や商工業とも結びついて百年戦争であえぐフランス王国の窮乏を尻目に、それとはまったく対照的な隆盛と繁栄のときを迎えた。

さらに、貧しい学生の支援に力を入れ、各地に大学を創設した教皇ウルバヌス5世(在位1362年~1370年)や、同様に学芸の保護者として活動したグレゴリウス11世(在位1370年~1378年)の時代には、クレメンス6世以降導入された優美なパリ風の宮廷文化とヒューマニズムが花ひらき、当時のヨーロッパ文化の一大中心地となり栄えた。

一方、フランス革命が1789年に勃発した際には荒廃した状態で、革命勢力によって強奪・破壊された。1791年に反革命派の虐殺現場となり遺体は旧宮殿に投げ込まれた。ナポレオン政権下では兵舎や刑務所として使用され、フランス第三共和政などの軍事占拠で馬小屋等として利用された際にはフレスコ画など多くが破壊された。

1906年以降、国立博物館として管理修復され続けている。1995年、アヴィニョン歴史地区としてユネスコ世界遺産に登録された。

上掲Wikipedia「アヴィニョン教皇庁」

こちらもこちらで悲壮な終わり方をしてますね。なお、ここでいう「誰も」は主に「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch,1860年初版)」の著者ブルクハルト(Carl Jacob Christoph Burckhardt、1818年~1897年)と「恋愛と贅沢と資本主義( Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)の著者ゾンバルト(Werner Sombart、1863年~1941年)の事。

19世紀における市民社会の成熟が可能とした「(特定のパトロンに依存しない)プロ音楽家」の誕生。

作曲家が作品を書いて、演奏家がそれを演奏し、一般の人たちがそれを聴くという演奏会の形式が完全に確立するのは、20世紀に入ってからです。バロック時代のバッハや古典派時代のハイドンを例に引くまでもなく、音楽家は生活手段として、宮廷楽長や教会の合唱長、あるいはオーケストラの楽員とか一時的に雇用された音楽家として、定職を得ることが必要でした。しかし、時代が変って、ベートーヴェンのように、自作品の演奏会の開催(ほとんどは作曲者自身で演奏されたが)による収入、弟子の教育による月謝、出版印税、依頼作品の報酬などによって、定職を持たないでも生活していけるようになっていきます。それが、19世紀はじめの状態だったのです。

市民社会が成立して、音楽家の自立ができるようになると、演奏を主体とする音楽家も現れるようになり、しだいに職業として作曲家と演奏家が分離するようになりました。その最も代表的な人に、ヴァイオリンのパガニーニとピアノのリストがいます。

上掲「名演奏家の出現-19世紀の音楽」

そういえば「ピアノの魔術師」フランツ・リスト(Franz Liszt、1811年~1886年)のファンクラブが欧州中に設立され、キャラクター・グッズまで販売されたのもこの時代。江戸幕藩体制下で歌舞伎役者が大人気となりファッション・リーダーの役割も果たしていたのと重なりますね。

ちょっとイケメンな肖像画です。それもそのはず当時のヨーロッパではたくさんの女性ファンがいてファンクラブが結成されるほどのアイドルだったそうです。彼のコンサートで若い女性は感激のあまり「失神」したとか・・・

上掲「ピアノの魔術師フランツ・リスト」

なお、著名歌舞伎役者の邸宅にはしばしば(時として複数の)「押しかけ女房」が一緒に暮らしていたとか。彼女達はまず三味線や唄や踊りなどの技芸をプロ級に高め(名家の町娘は武家屋敷に奉公し、宴席で技芸を披露するのが常だった為に腕を磨く機会がいくらでもあった)弟子達を味方につけて派閥を形成するので迂闊に追い返せず、しかも当時のメディア「役者評判記」がこのスキャンダルを面白おかしくレポートして売り上げを伸ばしていたとか。まさにこれぞ資本主義の世界…

【第二幕】産業革命到来によって消費の主体が王侯貴族や高位聖職者から新興ブルジョワ階層や庶民に推移

これも江戸幕藩体制下の日本で吉原などの顧客が「武家や僧侶」から「(元禄時代以降の)豪商」や「(文化化政時代以降の)大工の棟梁といった有力町人」に推移していった過程と重なりますね。その推移をスムーズに進める上で役立ったのが「連歌や俳句を詠む定例会」に由来し、都市部ではあらゆる身分に組織された「連=趣味の会」の存在。

やっとフェミニズムに関わってくる流れに話題が到達しました。2010年代tumbrでは表現規制派がNora Gilbert「Better Left Unsaid: Victorian Novels, Hays Code Films, and the Benefits of Censorship(2013年)」なる強力な武器を携えていたので、結構拮抗した意見交換が為されたものです。

①探偵小説に原材料を供給したのはフランソワ・ヴィドック(Eugène François Vidocq、1775年~1857年)回想録やニューゲート監獄囚人の伝記などであったが、そこに描かれる下層階級の痴話喧嘩と暴力の世界は到底、保守的な当時の読書階層に受容される内容ではなかったので所謂「シャーロック・ホームズとそのライヴァル達」は(産業革命の一環としての出版革命を背景とする)商業的成功と引き換えに自主的に過激な表現を抑制していったのである。

②ハリウッド映画黎明期も同種の問題を抱えていたがヘイズ・コード(Hays Code,1934年~1968年)が制定され、製作者側も原則としてそれを遵守した事が結果として映画の大衆化に貢献したのである。

上掲「「Better Left Unsaid」は何故和訳されなかったのか?」

こうした本の内容に対して我ら第三世代フェミニズム側が提示したのは「読者に配慮しない作品は商業的成功を達成出来ないのは今も昔も変わらないが、現在その条件を満たすのは、むしろ(既存のTVドラマの無難な展開に飽きたらなくなった視聴者が選んだ)「Breaking Bad(2008年~2013年)」や「スパルタカス(Spartacus: Blood and Sand、2010年)」や「Game of Thrones(2011年~2019年)」といった作品である」という言い分。

それでは時代に沿って順番に見ていく事にしましょう。

「推理小説」の誕生(実話誌レベルからの脱却)

まずエドガー・アラン・ポー( Edgar Allan Poe, 1809年~1849年)作品に登場する「素人探偵C・オーギュスト・デュパン」、バルザック(Honoré de Balzac 、1799年~1850年)作品に登場する「悪党ヴォートラン」、)、ユーゴー(Victor-Marie Hugo、1802年~ 1885年)作品に登場する「逃亡者ジャン・バルジャン」と「ベジャール警部」、コナン・ドイル卿(Sir Arthur Ignatius Conan、1859年~1930年)作品に登場する「素人探偵シャーロック・ホームズ」、モーリス・ルブラン(Maurice Marie Émile Leblanc、1864年~1941年)作品に登場する「泥棒紳士アルセーヌ・ルパン」すべての原型とされる怪人物フランソワ・ヴィドック(Eugène François Vidocq、1775年~1857年)の存在そのものがバグっています。

フランスの犯罪者で、パリ警察の密偵となり、国家警察パリ地区犯罪捜査局を創設し初代局長となる。後に世界初の探偵になる。

Wikipedia「フランソワ・ヴィドック」

こんな人物が実在するなんて…(実物と会ったことがあるのはバルザックのみ)。日本は無関係かというと岡本綺堂(1872年~1939年)作品に登場する「史上初の捕物帳主人公」半七がシャーロック・ホームズ、黒澤監督の手で1965年に映画化された山本周五郎「赤ひげ診療譚(1959年)」の「赤ひげ先生(演三船敏郎)」がヴォートランをモデルとしてるのでそうでもありません。いずれにせよ元話は「ニューゲート・カレンダー」同様、その内容は実話誌掲載記事レベルですから、そのまま引き移せば(新聞の三面記事にヒントを得たという)ドストエフスキー(Фёдор Миха́йлович Достое́вский、1821年~1881年)「罪と罰(Преступление и наказание, 1866年)」やアルバン・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885年~1935年)「ヴォツェック(Wozzeck、1914年~1922年)」の様に陰惨で救いのない展開となり、当時の読書階層に暇つぶしとして読まれる事もなかったでしょう。

さらには「そもそも殺人事件をエンターテイメントの主題に選ぶなんて!!」という保守的意見もあり、その普及には並々ならぬ苦労が存在したという次第。まぁここは「表現規制派の一勝」でいいと思います。

野村 どうも日本は探偵小説や捕物帖を目の仇にするね。小泉信三氏から聞いた話だが……イギリスのある有名な首相だよ。政局の動きが思わしくなくて、憂鬱になっていた。ある日とても愉快そうにニコニコしているので、夫人が政局がうまいぐあいに打開されたか、と喜び「どうなさったの? 予算が議会を通ったのでございますか」と聞いたら「いや、嬉しいじゃないか、コナン・ドイルがまた新しい小説を書きはじめたそうだ」といったという話。

江戸川 吉田首相も探偵小説の愛読者なんだそうじゃないですか。

野村 牧野伸顕氏も実に好きだったらしい。ある外交官が外国へいく前に、牧野さんを訪ねて「なにかご注文は?」と聞いたら「面白い探偵小説を二、三冊送ってくれ」といったそうだ。

江戸川 探偵小説は、外国では老人が読んでいる。日本では若いものが読む。まるで反対だ。ぼくは書きはじめてから二十五年になるが、このごろになって、代議士になっているくらいの年輩の人に、「読んでいますよ」といわれるようになった。嬉しくなるね。

野村 吉田首相がわたしの捕物帖を読んでいるというんで、新聞やラジオでずいぶん冷かされて、困ったよ。しかし、おかげで、だいぶ宣伝になってね。そのうちにお礼にいかないといかんな。

江戸川 この前アメリカへいった金森徳次郎氏に会った。アメリカで国会の図書館へ案内された。たいしたライブラリーでね。アメリカの議員さんは、ずいぶん勉強するでしょうねと彼がきくと、「なあに、読んでいるのはフィクション(小説)かデテクティヴ(探偵もの)ですよ」といっていたそうだ。

野村 わたしはね、こう思うんだ。探偵小説は盲目的本能の安全弁だと。探偵小説を読んでいる人は兇悪な犯罪はやらない。先生に毒入りウイスキーを贈って殺した東大小石川分院の蓮見。あんな犯罪は一見探偵小説をまねたようで、しかし決してあの犯人は探偵小説を読んでいないね。探偵小説は想像力を養うのに役立つよ。想像力をもっていないということは恐ろしいことで、ああすれば、こうなるということを知らない。だからどんな兇悪な犯罪でもやれる。少年犯罪の多いのも、少年たちが精神的失緊状態になっているためで、オシッコをたれ流すのとなんら違いがない。本能のおもむくままにやってしまうという状態なんだ。想像力を盛んにすれば行為の結果について考えるから犯罪予防になると思うね。

江戸川 むかしはちょっとした手のこんだ犯罪があると、犯人は探偵小説の愛読者にしてしまったりしたものだね。

上掲「探偵小説このごろ(江戸川乱歩x野村胡堂対談、1950年)」

なお米国人ジャーナリストのエドガー・スノー( Edgar Snow、1905年~1972年)は「アジアの戦争(The Battle for Asia、1941年)」の中で上海に布陣した日本軍占領地を訪ね、日本兵の誰もがこの野村胡堂の「銭形平次」シリーズを聖書の様に大事に携帯して持ち歩き、隙あらば読み耽っているのを目撃し「銭形平次は、然るべき理由さえあれば犯罪者を見逃しにしてくれる人物という。きっと日本兵にとって不当な戦争行為を許してくれるイエス・キリストの様な存在に違いない」と勝手な推察を述べています。なおこの時、国民党側の陣地は日本軍の厭戦気分を煽る為に毎日大音量でブルージーなジャズを鳴らし続けていたとの事。銭形平次がジャズと結びついた契機は、案外そんなところにあったのかもしれません。

これだけ「銭形平次」が売れた作者でさえこの述懐ですから、当時の日本における推理小説への偏見は相当なものだったと思わざるを得ないのです。

「(「フランダースの犬」の主人公)ネロを殺した真犯人は(「アルプスの少女ハイジ」の主人公)ハイジ」とは?

「アルプスの少女ハイジ(Heidi、1880年~1881年)」の原題は「Heidis Lehr- und Wanderjahre(ハイジの修行時代と遍歴時代、1880年出版)」および「Heidi kann brauchen, was es gelernt hat(ハイジは習ったことを使うことができる、1881年出版)」。著者ヨハンナ・シュピリも認めている通り、明らかにドイツの文豪ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(Wilhelm Meisters Lehrjahre、1796年)」および続編「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代(Wilhelm Meisters Wanderjahre、1829年)」から着想を得ています。

主人公がさまざまな体験を通して内面的に成長していく過程を描くドイツ教養小説(Bildungsroman=成長小説)の基礎を固めたともいわれてますが…

  • このタイプの物語の大源流はどうやらスペインにおいて品行方正な騎士道物語をおちょくるべく生み出されたピカレスク小説にあるらしく、伝統的勧善懲悪観では悪として破滅していくタイプのキャラクターがそれなりにの成功を収めて大団円となるパターンが散見されるのもその一環。

  • しかし王侯貴族や聖職者などの伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層が中央集権化に成功したフランスの様な絶対王政体制化に生まれた叛逆文学ではあえて主人公の破滅で終わらせるケースも。その背景に新教と旧教の間での恩寵説や自由意志論をめぐる神学上の対決があり、ここから迂闊に弾圧を招かない様に「予定された救済にあえて背を向けて破滅していく自由を謳歌する英雄主義」なる考え方も登場。

キリスト教における恩寵説と自由意志論は、神の恵み(恩寵)と人間の意志の関係をめぐる神学的な議論です。この対立は、特に罪からの救いにおいて神の力と人間の役割がどう分かれるかという点で焦点が当てられています。

恩寵説
恩寵説は、神の恩寵(恵み)が人間の救いに不可欠であると強調します。人間は原罪により堕落しており、自分の力だけでは救いに至ることができないとする考えです。神の恩寵によってのみ人間は善を行い、救われる道が開かれるとされます。この立場を強く支持したのがアウグスティヌスで、彼は神の恩寵が救いにおいて絶対的な役割を果たすと主張しました。

自由意志論
一方、自由意志論は、人間の自由意志も救いにおいて重要であると考えます。人間は自らの意志で善を選び、神に応答する能力を持っているという立場です。この考え方は、ペラギウスによって強調され、彼は人間は自らの意志で罪を避け、善行を行うことができると主張しました。

両者の関係
恩寵説は人間の無力さと神の主導的な役割を強調し、自由意志論は人間の責任と自律を強調します。この議論は中世や宗教改革の時代にも続き、例えばカトリックは神の恩寵と人間の自由意志の協力を主張する一方、プロテスタント(特にカルヴァン主義)は神の恩寵の絶対性を強調します。

ChatGPTに質問「キリスト教における恩寵説と自由意志論の関係について簡潔にまとめてください。」
  • ノヴァーリス「青い花(Heinrich von Ofterdingen、1802年)」の様に結末まで辿り着けず(著者の死により)未完で終わる作品も多かった。これは教養(成長)小説の宿命で近代日本においても尾崎紅葉「金色夜叉(1897年~1902年)」や中里介山「大菩薩峠(1913年~1941年)」も同様に著者死亡で未完に終わっている。

  • この様に悲劇にでの終焉を強要する社会的外圧が存在しなければハッピーエンドに終わるとは限らず、実際米国既存社会への反逆から生まれた「アメリカン・ニューシネマ(New Hollywood、1960年代後半~1970年代中旬)」は(全観客を納得させられる様な)旧体制打破後の明るい未来」を思い描く事が出来ず、悲劇的結末に逃げてお茶を濁す事が多かった。

しかしながら大量生産・対象消費スタイルが定着した19世紀後半の産業革命浸透期には消費の主体が王侯貴族や高位聖職者の様な地税生活者こそが富貴なる伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層を構成していた時代が終焉し「苦労が報われる明るい成功譚」を求める新興ブルジョワ階層や庶民階層が新興パトロン層として台頭してくるのです。

  • 巨匠ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年~1832年)最晩年の大作「ファウスト(Faust、第一部1808年、第二部1833年)」もある種の教養(成長)小説として読めなくはないが、上掲の新興パトロン層にとってはいかんせん内容が思弁的かつ抽象的過ぎて本国では忘れ去られるのも早かった。むしろ正解に近かったのは修行時代を書いた第一作(1796年)が好評で多くの読者から続編を望まれ、実際に1822年に発表したら「内容が散漫過ぎる」と批判されて改めて1829年に改訂版を発表した「ヴィルヘルム・マイスター」シリーズであり、しかもこの作品が「教養(成長)小説のテンプレート」としての体裁を整えるにはこれだけの時間を要したのである。

  • 新聞連載長編で財と名声を築いたアレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas、1802年~1870年)のプロデュースで1849年に処女戯曲を上演し、「(マルキ・ド・サドと並んで)史上初のマーケッター」と称される事もあるエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe, 1809年~1849年)の「作品に科学的知識を盛り込む作劇法」に影響されて執筆した化学冒険小説「気球に乗って五週間(1Cinq semaines en ballon、863年)」の大ヒットで流行作家の仲間入りを果たしたジュール・ヴェルヌ(Jules Gabriel Verne、1828年~1905年)もその直前に暗い未来を描いたデストピア小説「二十世紀のパリ(Paris au XXe siècle,1861年)」出版社に持ち込み「時代の空気に合わない」と出版を断られている。

  • イタリアの作家・カルロ・コッローディの児童文学「ピノッキオの冒険( Le avventure di Pinocchio、週刊誌連載1881年~1882年、1883年刊行)」も、週刊誌連載時の最初の結末は「悪い子だったピノキオが自業自得で悪者に騙されて非業の最後を遂げる勧善懲悪譚だったのだが、読者から苦情が殺到してハッピーエンドへの改変を余儀なくされている。

実は原作の初回連載の結末は、ピノッキオがきつねとねこに騙されて殺されてしまうというものでした。「大人のいうことを聞かないと危険な目に遭う」という教訓を示す意図があったのかもしれませんが、ディズニーの『ピノキオ』に慣れ親しんだ現在からは到底考えられない展開ですよね。

当時の読者からも苦情が寄せられたため、再連載の際にピノッキオを生き返らせて、ハッピーエンドへと向かうお話に改変したと言われています。

上掲「「ピノキオ」ってどんなお話? 原作『ピノッキオの冒険』はディズニー映画と比べて怖い? あらすじ・登場人物をチェック」
  • コナン・ドイル卿はシャーロック・ホームズを、モーリス・ルブランはアルセーヌ・ルパンをそれぞれ作中で殺して物語の幕を引こうとしたが、読者からの苦情が殺到して甦らさざるを得なくなった。

こうした時代に教養(成長)小説作家達がどう対応したかというと、なんと存命作家の多くが「容赦というものを知らない新興パトロン層の顔色を窺って」悲劇的結末をハッピーエンドに書き換えたのでした。

ただ「フランダースの犬(A Dog of Flanders, 1872年)」の作者ウィーダ(Ouida)こと、マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー(Marie Louise de la Ramée、1839年~1908年)は、自らも後先考えず強引に英国からフィレンツェに移住して犬を大量に飼い、その飼育費に生活を圧迫されて最後は餓死同然の最後を遂げた様な人物なので、このすっかり時代遅れとなった「資本主義的発展に追い立てられて地上に居場所をなくした若き天才と荷駄引き犬が悲壮の最後を遂げる悲劇」の改変を拒み続け、真逆にゲーテ「ヴィルヘルム・マイスター」シリーズをさらに産業革命時代に合致する内容に書き換えた「ハイジ」シリーズで商業的成功を収め晩年まで旺盛に執筆活動と慈善活動を続けたヨハンナ・シュピリ(Johanna Spyri、1827年~1901年)とその後の人生と同時代における作品評価に大差がついてしまったのでした。

なお「フランダースの犬」原作を読むとまた別の「ネロを殺した真犯人」の姿が浮かび上がってきます。その正体は大した努力もせず「自分は天才だ」と自惚れ、間違った判断ばかり繰り返す原作版ネロを諌めるどころか、その姿にすっかり心酔して取り返しがつかなくなるまで甘やかし続けたアロアちゃん。本当に彼が最初だったのでしょうか?これで最後という事があり得ましょうか?パパなら何か知ってた筈ですが、結局作中でヒントとなる様な時発言がなされる事はなかったのです。あるいは彼女こそが「夢見る少女」としての作者の分身だったのかも。

さてこの様に「残酷な進行パトロン層の裁定」は下った訳ですが、これを「表現規制派の勝利」と呼ぶのにはあまりに無理があり過ぎるので「引き分け」と考える事に致しましょう。

「ポルノグラフィ(売春婦芸術)弾圧運動」運動顛末記

詳細は以下のリンクを見てください。「ボヴァリー夫人(Madame Bovary、1854年)」作者にして写実主義文学の確立者フローベール(Gustave Flaubert 、1821年~1880年)」は実際に訴訟を起こされ、「悪の華(Les Fleurs du mal、1857年初版)」作者にして象徴主義文学の先駆者ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821年~1867年)は罰金刑を課され、「草上の昼食(Le Déjeuner sur l'herbe、1862年~1863年)」や「オランピア( Olympia、1863年)」の作者エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年~1883年)は徹底して罵詈雑言を浴びせられたのです。自然主義文学の定義者エミール・ゾラ(Émile Zola、1840年~1902年)や印象派絵画の時代に入ってなお反対派は末端を狙って執拗に訴訟を続け、自殺者を出す事にまで成功しています。

1856年10月から12月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載され、姦通を賛美するような記述などから、翌1857年1月に風紀紊乱・宗教冒涜の罪(「公衆道徳および宗教に対する侮辱」)で起訴されるも、2月に無罪判決を勝ち取り、刊行本が同年4月にレヴィ書房より出版されるや、裁判沙汰の効果もあって飛ぶように売れ、たちまちベストセラーとなった。

上掲Wikipedia「ボヴァリー夫人」

生前発表した唯一の詩集『悪の華』が摘発され、そのうちの6編が公序良俗に反するとして罰金刑を受ける。後に第2版を増補版として出版し、詩人としての地位を確立した。その卑猥的、耽美的、背教的な内容は、後の世代に絶大な影響を与えることとなる。特に現実と理想の溝から生じる、作品に溢れる絶望感と倦怠は、一種の退廃的な時代の病を表徴している。

上掲Wikipedia「シャルル・ボードレール」

理想化された主題や造形を追求するアカデミズム絵画とは一線を画し、近代パリの都市生活を、はっきりした輪郭や平面的な色面を用いながら描く作品は、サロンでは非難にさらされることが多かったが、詩人シャルル・ボードレールのように支持する論者もいた。

1863年にナポレオン3世の号令により開催された落選展で、『草上の昼食』を出展すると、パリの裸の女性が着衣の男性と談笑しているという主題が風紀に反すると非難を浴び、スキャンダルとなった。

さらに1865年のサロンに『オランピア』を出品すると、パリの娼婦を描いたものであることが明らかであったことから、『草上の昼食』を上回る非難を浴びた。意気消沈したマネは、パリを離れてスペインに旅行し、ベラスケスの作品に接して影響を受けた。

ベラスケス研究の成果といえる『笛を吹く少年』を1866年のサロンに提出したが、落選した。この時、作家エミール・ゾラの援護を受けた。マネは、パリのバティニョール地区にアトリエと住居を置き、カフェ・ゲルボワに足繁く通っていたが、マネの周りには、ゾラを含む文筆家や芸術家が集まっていた。1860年代後半には、モネ、ルノワールなどの若手画家もマネを慕って集まりに加わるようになり、バティニョール派と呼ばれるようになった。

1870年に普仏戦争が勃発しプロイセン軍がパリに迫ると、マネは国民軍に入隊し、首都防衛戦に加わった。普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息して第三共和政の時代になると、バティニョール派の若手画家たちはサロンから独立したグループ展を立ち上げ、印象派と呼ばれるようになった。

上掲Wikipedia「エドゥアール・マネ」

そういえばワーグナー(Wilhelm Richard Wagner、1813年- 1883年)の「タンホイザー上演妨害事件(1861年)」があったのもこの時代。

1861年にナポレオン3世の招きによって実現したパリでの初演はオペラ興行史上最も大きな失敗を引き起こしたものとして知られる。

ワーグナーは2年前の1859年9月にパリに引っ越したが、これは『トリスタンとイゾルデ』の主役を歌える歌手を探すためだった。1860年1月から2月にかけて、パリのイタリア座で行われた自作の演奏会を開催し、『さまよえるオランダ人』の序曲や『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲などを披露した。この演奏会で多くの芸術家たちから支持を集めたが、マスコミからは敵視され、同地で自作のオペラを上演することを切望していたワーグナーは、この批判によって望みが失われたことにひどく落胆したといわれる。

その最中、ナポレオン3世から『タンホイザー』をオペラ座で上演するように勅命が下り、この思いもしない事態にワーグナーはそれに応えるべく矢継ぎ早にオペラの添削とフランス語訳に着手した。この勅命はパリ駐在のオーストリア大使の妻パウリーネ・フォン・メッテルニヒ侯爵夫人によるものとされている。夫人はワーグナーの崇拝者であり、パリ上演のための口添えをしたとされる。ただしそれは「外交戦略」の一つとしてであった。

「パリ版」の改訂を終えたのは1861年1月のことで、197回もの上演リハーサルを重ねたと伝えられる。これは「春の祭典」の120回、「ヴォツェック」の150回を上回る。3月13日にナポレオン3世の臨席のもとに初演を迎えたが、オペラ座の会員でボックス席を予約していたジョッキークラブの若い貴族たちは、かつてバレエの挿入を要求した際に拒否されたことに対するワーグナーの態度を根に持って、公演を妨害しようと大声で嘲笑や怒号を放った。これにより初日の公演は収拾がつかない状態に至った。 ブーイングは2回目(3月15日)3回目(3月25日)と徐々にエスカレートしていき、ジョッキークラブの貴族たちは仲間を呼び寄せ、ラッパや狩笛、鞭などを持ち出して妨害工作を行い、喧騒をきわめた末、公演が続行できない事態にまで発展した。

この事態を知ったワーグナーは支配人に書簡で、自らの取った態度と慣習に従わなかったことの非を認め、『タンホイザー』の公演を撤回するに至った。

上掲「タンホイザー」

ああ、こういう傲慢な態度には見覚えが…

それでは当時「弾圧側」には一体誰がいたのでしょうか?

  • 芸術アカデミーとそれに与するメディア

フランス王立絵画・彫刻アカデミーは、1667年にパレ・ロワイヤル(パリ)で作品展を行い、これが美術展の始まりとされる。ルーヴル宮サロン・カレ(方形の間)で開催される展覧会(官展)をサロンと呼んだ。

フランス革命後、絵画・彫刻アカデミーは廃止されるが、王政復古のもとで芸術アカデミーに統合される。革命後、サロンはアカデミー会員による審査のもと、アカデミーに属しない一般の画家にも開かれた(公募展の始まり)。サロンへの出展が決まることが若手美術家の目標でありサロンは登竜門になった。アカデミーの審査員は、新古典主義的な美学を持っており、また旧来の貴族や新興のブルジョワたちの趣味に迎合する傾向があったため、保守化の傾向にあった(アカデミズム)。サロンでは新しい傾向の作品は受け入れられず、次第に若い作家たちの間に不満が高まっていった。これら新しい傾向は、欧州を覆う自由主義を求める政治運動や科学の急速な発展とも密接につながっていた。

第二帝政期、皇帝ナポレオン3世は独自の芸術政策を進めてアカデミーと対立する。1863年には例年になく厳しい審査に、落選させられた作家たちの不満が高まると、皇帝は美術愛好者や大衆に判断を任せるため、落選作品を集めた展覧会を開くことをアカデミーに命じた。この「落選展」で、マネの「草上の昼食」が日常生活の裸を描いたことでスキャンダルを起こし話題になった。1881年にフランス芸術家協会が設立され、サロンの運営を行うことになった(民営化)。

1874年にはのちに印象派と呼ばれるグループが独自の展覧会(第1回印象派展)を開いた。1884年には無審査・出品無制限のアンデパンダン展(Salon des Indépendants)、また、1890年には別に国民美術協会(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)主催のサロンも開催されるようになった。1903年のサロン・ドートンヌ展開催以降も多くのサロンが誕生している。

印象派など、後に近代美術の祖となった芸術家たちはそれぞれの美学に立って、アカデミーの美術学校(エコール・デ・ボザール)が教えるような技巧優先の保守的な美術を「アカデミー的(アカデミック)」と呼んで攻撃した。アカデミーに属さずサロンにも出さない美術家が増え、彼らは独自のグループや結社を組み、個展や独自のグループ展を行うようになった。20世紀に入り第一次世界大戦以後、これら19世紀半ばの近代美術の画家達が評価されるようになると、逆に彼らを攻撃した芸術アカデミーのアカデミックな作風の大家たちは忘れられるようになった。

上掲「芸術アカデミー」
  • かつてワーグナーにバレエの挿入を要求し断られた事を恨んでいたジョッキークラブの若い貴族たち。ワーグナーに食いついた様に、そもそもオーストリアに良い感情を持ってなかった雰囲気が察せられる。

フランスにおけるダンディズムはフランス革命と政治的に結びついている。ダンディズムの最初期段階にあたる jeunesse dorée (「金持ちの道楽息子たち」の意。ミュスカダン(Muscadin)とも)は旧体制支持という政治的表明のため貴族風の服装をまとい、サン・キュロット(革命派の支持母体である貧困層)とみずからを区別した。

(英国ダンディズムの中心的人物)ボー・ブランメルの全盛期にはファッションと作法に対するその強権は絶対的なものであった。ブランメルの服装やスタイルはしきりに模倣され、ことにフランスでは盛んだったが、フランスでの成り行きは英国とは多少異なっており、ブランメルの模倣は上位中産階級だけでなくモンマルトルやモンパルナスに集う作家や芸術家連にも行われた。彼らにとってダンディは、意識的に自己を作りあげ、伝統とはっきり断絶したとして、革命的価値観からの祝福の対象でもあった。服装の入念さとデカダン的生活様式をもってすれば、ブルジョワ社会に対して軽蔑と優位を示せることがこうしたフランスのダンディたちには理解されていた。19世紀後半にはフランスのダンディズムは文学における象徴主義にも大きな影響を与えることとなった。

ボードレールはダンディズムにいたく関心があり、記念碑的な文章を物している。すなわち、ダンディを志す者は「エレガントであること以外に職業を持つ」べきでなく、また「めいめいにおける美の観念の追求以外のいかなる状態」もふさわしくなく、「ダンディは絶えず卓越を切望しなければならない。ダンディは鏡の前に生き、死なねばならない」。ほかにもフランスの知識人はパリの通りをうろつくダンディに関心を寄せており、バルベー・ドールヴィイは『ダンディズムとジョージ・ブランメルに関して』という伝記的考察で、ボー・ブランメルの行き方を詳細に吟味している。

上掲「ダンディ」
  • これらの権威筋に媚を売る事で自らの立場の安堵と引き上げを狙った新興ブルジョワ階層。第三共和制(1870年~1940年)体制下において新興芸術家を訴えた裁判に陪審員として招聘され、芸術の事は何も知らないまま「このフランスにお前らはいらない」と突きつける役割を担わされていたとされる。

ここまで雑多な集団に共通する関心事といえば「それまで巧みに不可視の形で社会に埋設されてきた売春組織の秘匿維持」くらいしか思い当たりません。何しろマネの「草上の昼食」や「オランピア」に描かれていたのは、紛れもなく売春婦(と黒人女の付き人)、そしてボードレールの「悪の華」が叩かれた理由の一つも「そこに黒人娼婦が登場するから」というものだったのです。これらの作品が、その筋の人達からまとめて「ポルノグラフィ(売春婦芸術)」と罵倒された理由もまさにこれでした。

その因果関係についての証言が一切残ってない事からこれ以上踏み込む事は出来ませんが、そういえばモンパルナスに設置されたグラン・ギニョール劇場(1897年~1962年)も最初期には「浮浪者、街頭の孤児、娼婦、ギャングといった「一般人には不可視の人々」にスポット・ライトを当てた真摯な社会派リアリズム演劇」を志向したが、官警の摘発を受けてしまい荒唐無稽な残酷劇への転身を余儀なくされています。

なお、この戦いは当時対等した新興芸術家達の側からは「エロティズムは非日常、すなわち聖書や神話の場面やエスニックな外国の風景と結びつけられた時だけ許される」なる当時までの神学的伝統を打破する過程とも認識されていました。逆にそのレギュレーションさえ飲めばいくらでもエロい作品を描いてもよく、そういう時代が生んだ鬼子がアカデミック美術(academic art)と呼ばれる作品群という次第。

自らの歴史も知らない後世の似非フェミニストや表現規制派の「ポルノグラフィ弾圧運動」は、自らの大源流がここまで必死で守ろうとしたこういう作品も容赦無く焼く様に。結局のところ彼らにはその瞬間瞬間の怒りに任せた脊髄反射的破壊衝動があるばかりで、それを統合し得るいかなる知性も備えていないという事になりましょう。かくして表現規制派はこ局面では敗北…

Hays Code(制定1930年、履行1934年~1960年)の時代

まず忘れてはならない事。それは「1890年から1958年にかけて新しい機械が発明され生産速度が向上したアメリカでは労働時間当たりの製造業における生産高が約5倍になった」という事実。

そして1920年代末頃から次第にトーキー映画が登場。 サイレント映画時代までアメリカ国民は階層ごとに異なる劇場に通い、それぞれが自らの水準に合わせた芝居や技芸を楽しんできましたが、これからは変わってくると考え新たな倫理規定が制定されたのです。それがThe Motion Picture Production Code of 1930、いわゆるHays Code(制定1930年、履行1934年~1960年)となります。1929年、大手業界紙 en:Motion Picture Heraldの編集者でカトリックの信徒であるマーティン・クィッグリーと、イエズス会士であるダニエル・A・ロード神父は、映画向けの倫理規定を作成し 、映画スタジオに送った草稿が叩き台となりました。

正しいエンターテイメントは国民全体の水準を引き上げ、間違ったエンターテイメントは国民の道徳的理想を引き下げ日々の生活を過酷なものにする。そして(劇場ごとに客層の異なる演奏会や芝居と異なり)フィルムに焼き付けられた映画の上映会は観客を選ばないので(子供もギャングも見に来る為)特に内容を慎重に吟味する必要がある。

①書物は冷ややかに説明するが、フィルムは鮮やかに提示する。

②書物は言葉を通じて心に到達するが、フィルムは撮影内容の再生結果を眼と耳に同時に届ける。

③書物が読者から引き出す反応は当人の想像力と熱意に比例するが、映画が観客から引き出す反応は提示の手際の良さに比例する。

とどのつまり良い意味でも悪い意味でもその影響力は書籍や音楽や芝居より顕著で一方的なのであり、だからその影響の範囲と方向性を「映画を通じて悪行は悪いもので、善行は正しいことであると観客が確信する」形に限定せねばならない。特に悪党に犯罪のヒントを与えたり、人々の心に粗暴な振る舞いや犯罪や麻薬や不実な愛といった悪徳への憧憬を惹起する様な振る舞いだけは絶対に避けねばならぬ。

Hays Code序文
  • そもそもカソリックは「人間は五感を通じて神の国を感得する」という前提から教育効果と芸術と儀礼を統合してきた伝統を有しており、特に反宗教革命の使命を帯びて世界中に伝教の旅に出たイエズス会はこの方面のノウハウを徹底して研鑽してきた。そうした経験の延長線上で「映画の登場が人類に与える影響」について考えている興味深い文章。

  • そしてその内容はまさしくガブリエル・タルドの模倣犯罪学そのもの。というより、むしろ逆にこうした思考様式こそが「模倣犯罪学」なる発想の起源だったとも。

ガブリエル・タルド(Gabriel Tarde)は、19世紀末のフランスの社会学者で、模倣を社会的現象の中心に据えたことで知られています。彼の「模倣犯罪額」の理論は、犯罪行動が個別の孤立した現象ではなく、社会的な模倣の連鎖によって広がるという考えに基づいています。タルドは、犯罪が他者の行動を模倣することで増加することを説明し、この模倣によって犯罪の伝播が促進されると考えました。

ガブリエル・タルドの模倣犯罪額の特徴

犯罪の社会的伝播: タルドは、犯罪が個別の行動ではなく、他者から模倣されることによって社会全体に広がる現象と捉えました。彼によれば、人々は近隣の犯罪やメディアで報じられた犯罪を模倣しやすく、それが犯罪行動の拡散につながるということです。

時間と空間における犯罪の模倣: タルドは、模倣の伝播が時間と空間の影響を受けるとしました。時間的には、新しい犯罪が発生した直後に模倣が起こりやすい。空間的には、犯罪行動は近隣のコミュニティに波及しやすく、近接する社会集団間で模倣が促進されると考えられました。

模倣と独創性の相互作用: タルドは、社会における模倣と独創性の関係を重視しました。彼は、社会の中では独創的な行動や新しいアイデアが発生し、それが模倣されて広がると指摘しました。これにより、犯罪の模倣も同様に、初めて行われた犯罪行為が他者によって模倣されることで広がるとしました。

模倣の法則: タルドは模倣に関する3つの法則を提唱しました。

下から上への法則: 社会の下層から上層へと模倣が進む傾向があります。つまり、貧しい人々や労働者階級が、上流階級や有名人を模倣するという考えです。

内部から外部への法則: 個人の内的要因や思想が、最初に模倣され、次に行動や外部の習慣が模倣されます。

近接の法則: 空間的に近いところで模倣が起こりやすいことを示します。犯罪が特定の地域やコミュニティで集中して発生することも、この理論で説明されます。

模倣犯罪額の限界

犯罪の個別性を軽視: タルドの模倣理論は、犯罪が個々の意識的な選択や心理的な動機を持つ行動としての側面を軽視する傾向があります。犯罪行動には、模倣だけでなく、経済的、精神的、環境的な多様な要因が関与しており、すべてを模倣で説明することは難しいです。

因果関係の不明確さ: 模倣犯罪の理論では、なぜ特定の人々が模倣を選び、他の人々が選ばないのかについての説明が十分ではありません。犯罪の模倣が発生する過程を説明する際に、因果関係の具体性に欠ける部分があるため、実際の犯罪動機や原因を把握しにくいです。

現代の犯罪行動に対する適用の困難: タルドの理論は、19世紀の社会状況に基づいているため、現代の複雑な犯罪現象に対しては、そのまま適用するのが難しい点もあります。現代の犯罪は、国際的な組織犯罪やサイバー犯罪など、広範で複雑な要因が絡んでおり、単純な模倣行動では説明しきれないケースが多くなっています。

他の犯罪理論との関係: 模倣犯罪理論は、他の犯罪理論、例えばラベリング理論や社会的学習理論などと対比されることが多いですが、模倣に焦点を当てすぎることで、他の社会的・環境的要因の影響を無視する傾向があると批判されています。

まとめ
ガブリエル・タルドの模倣犯罪額は、犯罪が社会的模倣の一環として伝播するという重要な視点を提供しましたが、犯罪行動の多様な側面を十分に説明できない限界もあります。犯罪が模倣によって広がる現象を理解する上で有用な理論ではあるものの、他の要因と併せた包括的なアプローチが必要とされています。

ChatGPTに質問「ガブリエル・タルドの模倣犯罪額の特徴と限界について教えてください。」

時はまさに禁酒法(Prohibition、1920年~1933年)の最中。

そう、密造酒利権を巡る争いでギャング間闘争が激化し、法への信頼感が著しく損なわれた時期でもあったのです。

①鑑賞者の道徳的基準を恣意的に引き下げてはいけない。したがって観客を犯罪や不正行為や悪や罪の側に誘導する内容は許されない。

②ドラマやエンターテイメントは人生の正しく標準的なあり方を提示する内容でなければならない。

③自然法か人定法かに関わらず、法律を笑いものにしたり、その違反を奨励してはいけない。

「Hays Code」一般原則(General Principles)

当時独特の緊張感が伝わってくる様ですね。

①法律や正義に反する犯罪に対する共感を引き出したり、模倣の欲求を鼓舞してはいけない。

◎殺人の手口の描写は、模倣を鼓舞しない方法で提示されねばならない。
◎残酷な殺害を詳細に描写してはならない。
◎現代社会における復讐を正当化してはならない。

②あまり描写が細かいと鑑賞者を模倣に誘う恐れがある為、犯罪方法を明示的に提示すべきではない。

◎窃盗、強盗、金庫破り、鉱山・列車および建造物の爆破を詳細に描いてはならない。
◎放火についても同様の配慮が必要である。
◎銃器の使用は必要最小限に留められねばならない。
◎密輸の具他的方法が模倣可能な形で提示されてはならない。

③薬物の違法取引が明示されてはならない。

④アメリカ人の生活における飲酒は、筋書き上においてその描写が不可避な場合のみ許される。

「Hays Code」個別事例(Particular Applications)01.違法犯罪(Crimes Against the Law)

そしていよいよ性描写についての規制となります。

結婚と家庭と教育機関の尊厳に敬意を払わねばならない。また適法的な性関係が望ましく、自然でない事を匂わせる内容であってもならない。

①姦通の描写は筋書き上その描写が不可避な場合においてのみ許され、かつそれが正当なものであったり、または魅力的なものとして描写されてはならない。

②情欲の描写

◎筋書き上その描写が不可避な場合においてのみ許される。
◎過度なキス、好色的過ぎる抱擁、挑発的過ぎるポーズ、貪欲過ぎるジェスチャーなどはこれを許さない。
◎逆に一般的愛情表現を過度に熱情的で卑猥で劣情を催すものとして描いてもいけない。

③誘惑および強姦(未遂を含む)

◎筋書き上その描写が不可避な場合においてのみ許され、かつ直接描写される事はない。
◎それがコメディ・タッチで描写されるのは適切ではない。

④性倒錯およびそれを仄めかす描写はこれを禁じる。
⑤白人奴隷を扱ってはならない。
⑥異人種間混交(特に白人と黒人が性的関係を結ぶこと)を扱ってはならない。
⑦性衛生学や性病に関する話題を扱ってはならない。
⑧出産場面は、たとえシルエットでも直接的に提示してはならない。
⑨子供の性器を露出させてはならない。

「Hays Code」個別事例(Particular Applications)02.性描写(Sex)

猥褻性については、また別の規定が。

猥褻な言葉、ジェスチャー、論及、歌詞、冗談、または仄めかし(例えその真意がどんなに一部の観客にしか通じないとしても)の使用を禁じる。

「Hays Code」個別事例(Particular Applications)04.猥褻性(Obscenity)

衣装についても。

①全裸はシルエットのみも含めて完全許容範囲外とする。状況や言葉による仄めかしも、画面内の他の登場人物による好色な示唆も許されない。

②脱衣場面はシーンは筋書き上その描写が不可避な場合においてのみ許される。

③下品または過度な露出はこれを禁止する。

④ダンス時に過度の露出や下品な動きを可能とする事を意図した衣装は禁止される。

「Hays Code」個別事例(Particular Applications)06.衣装(Costume)

また、以下の様な長文の注釈が付帯してました。

①神が禁じられ、社会的にも明らかに間違っていると認識されている不純な愛(夫婦関係から外れた性的関係)については、それを魅力的もしくは美しいものとして描いてはいけない。情熱を呼び起こすもの、もしくは許されるものとして話を進めてはいけない。コメディや茶番の対象、または笑いの素材として扱ってはならない。一部観客の心に間違った情熱や病的好奇心を喚起してしまうかもしれないからである。

②全ての犯罪行為は罰せられるべきとされ、犯罪者及びその罪状に対して観客の共感を引き出すような描写は許されず、観客が"補正された道徳的価値観"と照らし合わせて「そのような行為は悪である」と判断できるような描写にしなくてはならない。

③権威あるものは敬意をもって描写せねばならず、聖職者を悪党もしくは道化役として描くことは許されない。ただし例外として特定の状況において政治家・警察官・判事を悪党として描くことは許される。

④野球やゴルフといった健康的なスポーツに対しては健康的な反応を、闘鶏、闘牛、熊虐めといった遊戯には不健康な反応を。古代国家における剣闘士同士の死闘、猥褻なスポーツや芸能に対する扱いもこれに準じる。

「Hays Code」個別事例(Particular Applications)

さて、この様な規制からどの様な作品が生まれてきたのでしょうか? まずは絡め手「暗黒街の顔役(Scarface、1932年)」。「主人公たる悪党も、それを囲む環境も一切美化せず描き、最後には破滅させる」実録者っぽいアプローチですね。

一方、イタリア移民出身のフランク・キャプラ監督(Frank Russell Capra、1897年~1991年)は上掲の規制の本質を「幸福な結婚を奨励せよ」と読み取り、ドラマを盛り上げる為に「ロミオとジュリエットのバルコニー式」に面白おかしく障害を積み立てるスクリューコメディ形式を開発「或る夜の出来事(It Happened One Night、1934年)」や「オペラハット( Mr. Deeds Goes to Town,、1936年)」が当時大ヒットした代表作。

  • 「ロミオとジュリエットのバルコニー式」…詳しくは以下を参照の事。

そして、同じくこの規制を「幸福な結婚を奨励せよ」と解釈したウォルト・ディズニー(Walt Disney、1901年~1966年)が制作したのが「史上初の劇場版長編アニメーション」「白雪姫( Snow White And The Seven Dwarfs、1937年)」だったのです。

  • アニメーション映画略史についてはこちら。

このブロックはまぁ「表現規制派の勝利」で構わないでしょう。というより、逆をいえば「表現規制派の勝利」とは、こういう綺麗な形でなければなりません。

【第三幕】1960年代以降の動乱

とりあえず、ここまでの表現規制派のスコアを確かめてみましょう。

  • アヴィニョン教皇庁時代(1309年~1377年)…色々あったが、とにかく最終的には贅沢の限りを尽くした退廃的生活を完全粉砕に成功。よって勝利。

  • イタリア・ルネサンス期(14世紀~16世紀)…フィレンツェでメディチ家が贅沢三昧の退廃的生活を送った前期ルネサンス(14世紀~15世紀)と、ローマでルネサンス教皇が贅沢三昧の退廃的生活を送った盛期ルネサンス(15盛期~16世紀)は完全粉砕に成功。ヴェネツィアの商業活動が中心となった晩期ルネサンス(16世紀)こそ仕留められなかったsが、大航海時代(16世紀~17世紀)到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移すると勝手に没落。よって勝利。

  • 欧州絶対王政期(17世紀~18世紀)…それまで王侯貴族や高位聖職者といった(もっぱら地税生活者で構成される)伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層のパトロネージュに頼るしかなかった芸術家の生活手段が広がる。表現規制関係ない。よって敗北。

  • 推理小説の成立…それまで一般人にとって不可視だった犯罪の世界を可視化する過程では適切な表現規制が重要だった。よって勝利。

  • 教養(成長)小説の成立…国家による中央集権化が急速に進む中、伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層(=旧パトロン層)の間で危機感が高まり、そこから出た叛逆者達が「神が用意した救済にあえて背を向けて滅びの道を歩むダンディズム(退廃主義)」に到達。しかし産業革命時代以降消費の主体となった新興ブルジョワ階層や庶民(=新パトロン層)は「全ての努力が報われるとは限らない」「誰もが試練を乗り越えて生き延びるとは限らない」成長譚を望む様になった。表現規制絡みの話。よって勝利。

  • 19世紀後半のフランスで始まった「ポルノグラフィ(売春婦文学)弾圧運動」…結局のところ王侯貴族や高位生活者といった伝統的地税生活者はその上澄が新パトロン層のうち新興ブルジョワ階層に、引き上げ切れない末端が庶民層に吸収された訳だが、両者ともに守りたい伝統的既得共通権益(不可視化された売春制度)の防衛には失敗した。よって敗北。

  • Hays Code(制定1930年、履行1934年~1960年)の時代…トーキー映画が登場し「ブルジョワ階層と庶民階層の関心空間の分離」がこれ以上不可能となった段階で伝統的パトロン階層が提示した倫理規定。1950年代まではそれなりに有効だった。よって勝利。

それでは1960年代以降、欧米社会(特にアメリカ)では一体何が起こったのでしょうか?

新左翼・ヒッピー運動

詳しくは以下。

黒人公民権運動

フェミニズム運動再建

こうして人類は「富裕層-貧民層」「白人-非白人」「男性-女性」なる三次元直交座標系評価軸に到達したという次第。もちろんそれぞれの評価軸は単なる二項対立ではありませrん。

とりあえず、そんな感じで以下続報…

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