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「#未来のためにできること」に応募してみました④本当に重要なのは「持続性ある開発目標」概念そのものというよりSAPとIBMとOracleが共同戦線を張った「Sustainability Solution」の方?

以下の投稿についてのプロダクション・ノート的まとめ。

人類の本当の(持続可能性のある)知性は「正二十面体のサイコロを振って二十以上の目がでた時」に試される?

物理学者ファインマン博士は、量子論的揺らぎの全範囲を、特定の素粒子が選び得る経路全てを網羅した計算によって抑える経路積分を考案しました。

捕捉された素粒子側はどんな気分になった事でしょう。究極の自由主義、すなわち「昨日何処に居たかって?そんな昔の事はもう覚えてないよ。明日何処に居るかって?そんな先の事はわからないよ」と、とぼけ抜く権利を奪われた訳です。

しかし実は、そもそも情報理論においては「最も自由である=特定の主体が内包する情報量が最大(つまり1)である」と示す行為そのものが、選び得る排他的選択肢全てを列記した上で、そのどれが選ばれるかについて何の偏りもない事を証明する事だったりするのです。

「物理的乱数発生装置」に思考方法を制約された、古典的確率論における発想の極限の一つ、今振っている任意の一個のサイコロが「オイラーの多面体定理に従ってこの世界に存在する事が許される六種類の正多面体」のどれか判定する最尤推定過程。

とはいえ「真のサスティナビリティ(成長可能性)を犠牲にする事なく、任意の企業におけるサスティナビリティ(制御可能性)の全貌をあらかじめ網羅しておく」なんて実践不可能なのでは? 今回はこの考え方から出発する事にしましょう。

本物の(持続可能性のある)「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」パラダイムシフトを強要してくるのはむしろ精神主義や修養論でなく科学実証主義の領域?

SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)とは総力戦の一種であり、従って「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬ工夫が足らぬ」系の標語で満ち溢れる展開自体は不可避といっていいでしょう。

「総力戦時代」に適応出来なかった多民族帝国と「ポスト多民族帝国」の登場

ただし英国人ならそれが自明の場合としてナポレオン戦争やロンドン大空襲の様に忍耐が報われたイメージに結びつく様に、日本だとどうしても「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだのに全部無駄になった」大日本帝国敗戦と結びつけて考える人が現れてしまいます。

日系人青年の平沢フランク(岡田眞澄)が留守を預かる湘南のヴィラ(別荘)に集う大学生くらいの若者達。全員暇を持て余しているようだった。
滝島春次(津川雅彦)「(カード賭博に興じてる連中に対して)他に何かすることないんですか?」
平沢フランク「お前達が単なるヤクザだって言ってるんだよ」
フランクの取り巻き「けっ、何言ってやがる。ヤンキー・ゴー・ホームさ」
春次「もっと他のことすりゃ良いじゃないか」
フランクの取り巻き「他にって何よ?」
滝島夏久(石原裕次郎)「考えてみると、その他ってのがねぇのよ。インテリどもは色々理屈を行ってみせるけど、言葉の紙屑みてぇなもんでさ。そんなのどんなに飾られて綺麗でもよ、結局あの熱帯魚(水槽の中のネオンテトラ)みてぇにもろいものさ。見ろよ、こうやって泳いでてもよ、ちょっと水が濁ったり冷えたりすりゃじき死んじまうじゃねえか(灰皿の吸い殻を水槽の中に落として春次を驚かせる)」
夏久「昔と違って、今の俺たちがそんな上品な思想に溺れてられるかってんだ。話すにしても、考えるにしても、もっとぴりっとした言葉が欲しいじゃないか」
フランクの取り巻き「学校の教授どもの話を聞いてみろよ。節気一陽(これからが新たなる季節の始まり)。昔はあれで通ったかもしれねえが、今じゃ時代錯誤の世迷い事じゃねえか」
フランクの取り巻き「ふざけるのもいい加減にしろよな。"諸君は今の時代のCaptain of industry(英国産業革命を牽引した新興産業階層)である"とか抜かしやがる。サイレント映画の時代じゃあるめぇしよ、ソ連と中共のいる今時によ、良くそんな見果てぬ夢を追ってられるもんだよな」
フランクの取り巻き「ああいう奴らが、日本を代表する学者や思想家で通っているんだ」
夏久「大人達が俺達にそっくり受け渡そうとする考え方や感じ方を見てみろよ。俺達にピンとくるものが一つでもあるかよ」
フランクの取り巻き「まったくお手上げだね。俺たちは俺たちに合ったやり方で生きてくよ」
春次「じゃあ、今のそれがそうだっていうのかい。ただ、だらだら生きているだけじゃないか」
夏久「だらだらだと? これでも精一杯なんだぞ」
春次「結局、兄貴達のやってる事はただの出鱈目だよ。結局兄貴達は、自分で自分のやろうとしていること、良く分かってないじゃないか。だから退屈なんて言うんだ。兄貴たちみたいなのを太陽族って言うんだ。僕はそんなのは嫌だ!」
夏久「それじゃ、他に何をすりゃ良いんだ?」
春次「何って」
夏久「俺たちが、思い切ったことをしたくても、正面切ってぶつかる何があるんだよ?」
フランクが人から奪った女で、春次を坊や扱いする道子(東谷暎子)「要するに退屈なのよ、現代ってのは」
夏久「そうだよ、そうなんだよ。その退屈が俺たちの思想ってもんで、その中から何かが生まれるかもしれない」
道子「そうよ、そうなのよ。ところでお腹空かない?飯にしよう!」
話はこの後「女といっても雑魚ばっかりだ。大物はいないかね。水族館で見たホウボウみたいな、まばゆいばかりで棘のある女がよ」という女談義に進展し、夏久と春次の兄弟は「魔性の少女」恵梨(北原三枝)に翻弄される形で破滅へと突き進んでいく。

映画「狂った果実(1956年)」冒頭の状況説明的場面

そう、まさに終戦直後の湘南に集まった「既成の秩序にとらわれず奔放に振る舞う行動派的ブルジョア子弟」すなわち「戦後派(après-guerre)」の類型の一つとしての太陽族の振る舞い…

  • 日本文学史上初めて「活字メディアではなく映像メディアによって作家が有名になる先例」となったばかりか弟石原裕次郎を銀幕スタートしてデビューさせた芥川賞受賞作家石原慎太郎は、その後飯島清なる選挙フィクサーを得て政界入りを果たし表現規制史に思わぬ足跡を残す展開を迎える。

  • なお日本の太陽族映画は「撮影開始までに脚本は練り上げ終わっているのが普通で、いざ撮影が開始するとカメラは慎重に設計されたセットに張り巡らされたレールの上を計画通り移動するだけだった」戦後フランス映画界に一大ショックを与えた事で知られている。ブレブレの手取りカメラ…建前上は「誰もが何処かで見覚えのある様な」薄っぺらい引用のコラージュとして進行しつつ予想外のタイミングで予想外の形で爆発する「本音」部分…そして何より当時の国際レギュレーションだった「犯罪者は自業自得の結果として作中において破滅していくべきである」なる勧善懲悪観の破綻。「こんなに滅茶苦茶に撮っても、ちゃんと映画として成立するどころか、思わぬ臨場感が盛り込める!!」。特に最後の「勧善懲悪観の破綻」は、日本においてすらそれを見逃したのを理由として旧映倫に引導が渡されたほどのHot Potato。それでフランス映画界が知恵を絞ってアプローチした結果が「勝手にしやがれ(À bout de souffle=息切れ,1960年)」ラストの密告娘の観客の突き放す様な台詞「最低(dégueulasse デグラース)ってなに?」だったり「気狂いピエロ(Pierrot Le Fou,1965年)」ラストの「ちゅどーん!!」だったという次第。そりゃ現代人が何の予備知識もなく鑑賞したって「訳が分からない」で終わる訳である。
    【自宅で英語レッスン】"Hot potato" "Big cheese"ってどんな意味?

  • どうやらフランス人の精神と日本人の精神は絶妙な位相差を構成してるらしく、歴史的に幾度も同種のインプロビゼーション(即興)的影響が観測されている。

  • そしてかかるインパクトの震源地にあったのは「太陽族の象徴となった兄に非難の目を向ける様になった(と、兄が感じる様になった)弟が、映画版では兄の立場に配役され弟に殺されました。①作者の気持ちを答えなさい(15点)②この場合何が正義で何が悪と解釈されるか説明しなさい(30点)」なる石原慎太郎・石原裕次郎兄弟が仕掛けた空前絶後の鍵小説(フィクションの体裁で発表されるスキャンダル暴露本)版DDoS(Distributed Denial of Service)攻撃…しかも両者とも既に故人なので「正解」は永遠に失われてしまったという次第。

ところで皮肉にも実は大日本帝国臣民一同に終戦を告げた玉音放送「大東亜戦争終結ノ詔書(1945年8月15日正午)」の承句「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」は「間違った目標に向けられた努力は全て徒労に終わる」「新たな目標に向けての再出発にはさらなる努力が必要である」現実を認めた上で「時運ノ趨ク所(時の巡り合わせに従い)耐え難きを耐え、忍び難きを忍べ」と発破を掛ける内容だったのですね。

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ悲命ニ斃(タオ)レタル者及其ノ遺族ニ想(オモイ)ヲ致セハ五内(ゴナイ)為ニ裂ク且(カツ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(コウム)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(シンネン)スル所ナリ惟(オモ)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(オモム)ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。

玉音放送「大東亜戦争終結ノ詔書(1945年8月15日正午)」抜粋

これを錐の1点としてさらに追い打ちを掛けたのが「戦前の努力の方向が間違っていたのなら、戦前の我々の考え方そのものの中にこそ、我々を躓かせた間違いが忍び込んでいたのだ。むしろ戦前の我々が間違っていると切り捨ててきた有象無象の中にこそ玉石混合で正解が混じっていたのだ。なので戦後の我々は(戦前の基準における)間違いを犯す事から始めないといけない」とする坂口安吾「堕落論(1946年)」だったのです。

この単元までの状況俯瞰。もちろん戦後復興期に日本精神が、例えば「科学実証主義観点における統一」といった形でまとめ切れていたら「太陽族だのマンボ族だの」は現れてなかったりする。

割とこれかも?

コンピューター黎明期から地道に積み上げられてきた「欧米流サスティナビリティ戦略」と、同時期日本が積み上げてきた残骸の山。

こうして大日本帝国時代末期の敗戦によって「想像上の鬼畜米兵」と取っ組み合ってるうちは埒が開かない事を学んだ筈なのですが、実際のところその後の展開はどうなったのでしょうか? ここに調度良い具合の試金石が存在します。

「Time誌は2024年度、最も持続可能性を秘めた企業の一つとしてとして欧州最大のソフトウェア企業SAP(エスアーベー)を選びました」。そもそもSAPとは?

主にビジネス向けソフトウェアの開発を手掛ける大手ソフトウェア企業で1972年設立。売上高はマイクロソフト、オラクル、IBMに続いて世界第4位。特に大企業向けのエンタープライズソフトウェア市場で圧倒的なシェアを有し、企業の基幹システムであるERP分野における世界一。クラウドコンピューティングの分野にも注力し、SaaS分野の売上高で世界4位(2019年時点)、クラウド分野総合の売上高(SaaS及びPaaS/IaaSの合計)が世界5位に位置している(2020年現在)。

上掲Wikipedia「SAP」

1990年代にERPという頭字語を最初に使用したのは、コンサル会社ガートナーである。ERPは資材所要量計画 (MRP; Material Requirements Planning) から派生した言葉であった。ERPはMRPの機能と、後発の製造資源計画(MRP II)およびコンピューター統合生産の機能を統合した。その後、製造の範疇にとどまらない様々なアプリケーションおよび機能の拡張を続けたが、ERPという名称はその後そのまま使われ続け、当初よりも大きな概念を表すようになっていった。

ERPシステムは製造に関するパッケージから発展したが、各ベンダーが、財務、会計、保守、人事などに向けた機能を次々と追加していった結果、1990年代半ばまでに、非常に広範囲のコアエンタープライズ機能に対応することとなった。

この頃から、各国の行政機関や非営利団体でもERPシステムを使い始める例が増えた。

上掲Wikipedia「企業資源計画」

SaaSは「Software as a Service」の略。クラウドで提供されるソフトウェア。必要な機能を必要な分だけサービスとして利用できるようにしたアプリケーションソフトウェアもしくはその提供形態。

インターネット経由で必要な機能を利用する仕組みで、マルチテナント方式(1つのシステム環境を複数企業のシステムやアプリケーションを共同で利用する方式)になっている。

上掲Wikipedia「Software as a Service」抜粋

PaaS(Platform as a Service)とIaaS(Infrastructure as a Service)の違いは階層を見ると理解がしやすいです。図(PaaSの利用と提供例)で、「ミドルウェア」「OS」「データベース」などの部分がPaaSです。エンジニアやプログラマ以外の人には区別はつきにくい部分ですが、実際にアプリケーション開発の業務に携わっている人や関係している人であれば、API(Application Programming Interface)や、開発環境にインストールされているデータベース機能やオブジェクトストレージなどのミドルウェアはサービス提供側が用意しているため、利用側はインストールしたり、ゼロベースで機能開発をすること無く利用できます。従って自社サービスで利用するための、機能開発に注力できる点で開発工数削減のメリットがあり、利用している人たちが多いことが特徴です。

上掲「Platform as a Service」抜粋

PaaS(Platform as a Service)はアプリケーション開発に必要な機能を利用するサービスですが、IaaS(Infrastructure as a Service)はサーバやネットワーク機器などのコンピューティングリソースを利用するサービスです。ユーザはリソース構成を自由に選択して利用することができ、そのリソース上に任意のアプリケーションを構築することが可能です。クラウドサービスが普及する前は「オンプレミス環境」と呼ばれる自社のサーバルームでサーバやネットワーク機器を保管し運用をしていましたが、クラウドサービスのIaaSを利用すればクラウドサービス事業者が利用しているデータセンターにサーバやネットワーク機器が保管され運用をしているので、利用する企業は自社で保有する必要はありません。このようにクラウド環境を利用し自社でサーバを保有しないことを「サーバレス」と呼びます。アプリケーションエンジニアやインフラエンジニアはIaaSを利用しインフラ運用の業務負荷軽減に伴い、本業に専念できることができるメリットがあります。

上掲「Infrastructure as a Service」抜粋
  • まずはIBMが開拓したOA(Office Automation )市場に「公開株百銘柄企業を中心とする優良顧客向けの財務会計システム供給会社」として食い込み、業務単位のモジュール化によりカスタマイズ性を高める。

SAPのERPは「モジュール」別にプログラムを構成して業務領域を分けています。SAPモジュールとは、特定の業務に関わる機能をひとまとめにしたプログラムの集合体です。

大きく分けて4つにカテゴライズされ、ロジ系(販売、在庫管理、生産)、人事系(人事、給与)、会計系(財務、管理)、その他(開発、顧客体験)などがあります。

これらモジュールは互いに連携して、SAP ERPの目的である「情報の一元化による業務効率化」を達成します。合計20以上のモジュールが存在しており、企業は自社に合わせてモジュールを選び利用しています。

上掲「【2024年最新版 / 初心者向け】SAPモジュールとは?概要や種類を紹介!」抜粋
  • さらなる付加価値を追加する為にERP(Enterprise Resource Planning=企業資源計画)概念を導入して「持続可能な経営目標」管理技術リーダーの座を勝ち取る。

ERPとは「企業資源計画」を意味する英語の”Enterprise Resource Planning”の略称で、企業が経営上必要な情報を一元管理するためのシステム。企業の生産、販売、調達、在庫、会計、人事などの業務プロセスを統合的に管理し、情報の正確性や一貫性を高め、業務効率を向上させます。

そのの歴史を見るにSAPが開発を行う以前の1960年代から主に製造業においてFA(Factory Automation)の延長線上に現れていましたが、「ERP」という言葉が使われ出したのは1990年代に入ってから。

大規模な企業や多国籍企業の複雑な業務に応じて、機能やカスタマイズの程度を調整するのがメリットとされていましたが、現在は2010年代に登場したクラウド型のERPシステムが主流となっており、中小企業でも導入しやすくなっています

上掲「SAPとは?ERPとの意味の違いや歴史について解説!」抜粋
  • 21世紀に入ると「優良顧客の要望に応えつつ、優良顧客と共に市場を席巻する」IBMやオラクルの様なソリューション企業と同一グループに分類される様になり、一緒に「サスティナビリティ・ソリューション・ビジネス」を展開する運びに。クラウド化に伴う初期導入費用低減を受けて急増した導入可能企業を仲良く分け合っている模様。

それまで積極的に進出してきたサプライチェーン分野やLoT分野にもサステナビリティ概念を導入。

スマートグリット分野も当然視野内に。

さらには企業活動の社会的インパクトを金額換算する「インパクト加重会計」の概念まで登場。

なおIBMやオラクルのサスティナビリティ事業もまた同種の展開を遂げており、スローガンも「もしもデータで地球が救えるなら?」などと独自スローガンを掲げていたりするのです。

まさにここでした話の答え合わせとなった形。

ネットには「SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標,2015年~2030年)なんて言葉、欧米では誰も知らない」なんて意見も散見されますが、種明かしするとまず欧米企業の間でSustainable(持続可能)概念が流行し、目標を達成出来なかったMDGs(Millennium Development Goals=新世紀開発目標,2000年~2015年)がそうした各企業の自助努力を巻き込む形で新目標が設定されたという顛末。

上掲「「マルサスの法則」の絶望的ビジョンを覆したロジスティック方程式こそSDGs理念と人工知能概念の大源流という話」
  • そもそも欧米企業の会計は管理意識が日本と比較にならないくらい強いとも。まず出発点からして異なるという…

「ゴールドラッシュの時に一番儲けたのが工具屋だったか靴屋だったかジーンズ屋だったかは今日なお議論の的だが、少なくとも炭鉱夫がこの候補に挙がる事はない」という話を思い出しました。

ゴールドラッシュで巨万の富を得た採掘ワーカーはごく初期にはいましたが、金を目当てにきた人の殆ど(95%~99%以上)は、労賃はおろか初期投資費用も回収出来なかった様です。その多くは経済的に破綻したといわれています。

ゴールドラッシュで儲かったのは金を掘りにきたプレイヤー(需要者)ではなく、プレイヤーに様々な物資を供給したサプライヤーでした。金採鉱には直接手を出さずに周辺ビジネスを開発した人が富を獲得したのです。

上掲「【ゴールドラッシュ】本当に儲けたのは実はリーバイス」

その頃、我が国日本(1970年代~現在)

やっと全体像が浮かび上がってきました。様するに現在SAPやIBMやオラクルがタッグを組んで推進している「Sustainability Solution(持続可能な問題解決環境)」戦略の大源流は1990年代における「ERP(Enterprise Resource Planning=企業資源計画)」であり、その基底を終始貫いてきたコンセプトは「Successionable(相続可能)」だったのです。それでは、同時代の日本では何が展開していたのでしょうか?

①オフコン・ブーム(1950年代~1990年代)

アメリカではトランジスタを使用したミニコンピュータからオフィスコンピュータにあたる Small Business Computer (SBC)が誕生したのに対して、日本では逆にオフィス向け小型コンピュータの方が先に進化した。このため、英語圏ではミニコンピュータにSBCが含まれるのに対して日本ではミニコンピュータとオフィスコンピュータが別のものとして存在することになった。

1959年、会計用機械を輸入販売していた日本事務器が電子会計機の国産化をNECに依頼した。NECは既に実績のあるパラメトロンを使用したNEAC 1201を開発し、1961年にリリースした。当時、日本事務機が唯一の販売代理店であった。これは好評をもって迎えられ、NECは1964年に後継機のNEAC 1210をリリースすることとなる。

NECの独擅場であったオフィス用小型コンピュータの市場だが、1965年、富士通がFACOM 230/10を投入。これは日本語COBOLを利用できるトランジスタ式コンピュータであった。また同年、日立製作所は独自OSのHITAC-8100を発売した。対するNECは1967年、ICを全面採用したNEAC 1240を発表。1968年には東芝 (TOSBAC-1500)、三菱電機 (MELCOM-81)、内田洋行 (USAC-300) などが製品を投入し、オフィスコンピュータ市場は一気に活況を呈することとなった。

1970年代には、販売管理、財務管理、人事給与など本格的な事務処理機能を備えたオフィスコンピュータが登場するようになった。特に1974年のNEAC システム100がオフコンの名を定着させた。

1980年代初頭はNEC、三菱電機、東芝の三強であったが、80年代後半にはNECと富士通の二強時代となった。さらに、1988年に日本IBMがAS/400の販売を開始し、三強の一角を形成するようになった。

1990年代前半にオフコン市場は全盛期を迎えたが、Windowsサーバの登場によりオープンシステムが事務用コンピュータ市場の主力となった。

独自OSやCPUよりもWindowsや汎用CPUに移行するオープン化の波によって、オフコン市場は縮小し、採算の取れなくなったメーカーの撤退が相次いだ。日立製作所は1993年に、東芝は1996年に新規モデルの製造を中止した。2000年の出荷台数は10170台が2015年にはその一割の1022台に落ち込んだ[3]。2015年には、オフコン市場で富士通とトップシェアを争っていたNECが新規モデルの製造を中止した。2018年には、富士通がハードの製造から撤退し、クラウドでのオフコンサービスの提供に切り替えた。

2010年代でも、クラウド・システムやオープン系サーバ(WindowsやUnixサーバなど)とともに、クローズドなメインフレームやオフコンはその信頼性・安定性の高さから企業の基幹業務などに使用され続けている。

上掲Wikipedia「オフィス・コンピューター」

②PC9800シリーズおよび互換機(1981年~1997年)

1982年10月13日。ついに発表されたPC-9800シリーズには、298,000円という価格が設定されました。当時としては破格です。この日から国民機と呼ばれる名機の歴史が始まるのです。

この日発表されたのはPC-9801。のちに無印98と呼ばれることになるパソコンです。インテルの8086互換16ビットプロセッサーとしてNECオリジナルのμPD8086を搭載した製品で、日本語を処理するというビジネス用途には欠かせないさまざまな工夫がちりばめられていました。もっとも日本語の字体を収録した漢字ROMは別売りでしたが、高速なグラフィックスによるスムーズな日本語表示ができるように設計されていました。この時点で、IBM PCと比べても技術的な先進性を持ったパソコンとして知られることになるのです。でも、その先進性が、のちに日本独自の仕様となる、いわゆるガラパゴス現象を引き起こすことにつながっていくとは、このときには誰も想像していませんでした。

PC-9801が発売された翌1984年、IBMはPC/ATを発売します。IBM PC同様に、内部仕様の詳細が公開され、コンパックやデルといった各社がPC/AT互換機を発売し、まっしぐらに世界標準の道を歩み始めていました。

この当時、パソコンがマニアのおもちゃではなく本格的なビジネスに使える事務機であるという認識は、キラーソフトの表計算ソフト「Lotus 1-2-3」の存在によるものでした。ただ、PC-98用の同ソフトがリリースされるのは1986年になってからです。日本での市場開拓は、たとえベストセラーとされた98シリーズであっても、まだまだ小さなものであったことが分かります。

高山由氏(当時販売促進部長)は、PC-9801を売るために全国を行脚します。高山氏は東京・台東区下谷の生まれ。根っからの下町っ子でした。電気に関わるものなら秋葉原で売らなければならないと思ったそうです。高山氏はPC-9801のことを「キュッパチ」と呼びます。「キューハチ」ではありません。電化製品のメッカとしての秋葉原で売れれば日本全国で売れるはず。それが高山氏の戦略でした。

「ハードウェアだけではなくソフトウェアが大事だと言うことを知ってもらいたかったんですね。今と違ってパソコンが何なのかを誰も知らない時代ですから、まずはショールームを秋葉原に作って体験してもらいました。ショップについては小さい店の方が売ってくれましたね。カメラ量販大手は相手にしてくれませんでした」(高山氏)

そんな高山氏が全国のソフトハウスをまわるうちに出会ったのがジャストシステム(徳島県)の一太郎です。同社は既にNECパソコン用にJS-WORDというワープロソフトを開発済みでしたが、高山氏が見たのはそれとは別のソフトでした。1985年に発売された「jX-WORD太郎」は、のちの「一太郎」となり、PC-9800シリーズが圧倒的なベストセラーの位置に君臨することに貢献します。

「ハードではなくて使い方が売れたんだと思いますね」高山氏は当時をそう述懐します。「キュッパチを海外で売るつもりはありませんでした。グローバルな考え方はありませんでした。とにかく日本人のためのパソコンでありたかった。でも、それがいけなかったんでしょうね。本当はグローバルでなければならなかったんです」(高山氏)

高山氏は「ノートパソコン」という呼称を作った人物としても有名です。1989年に東芝がダイナブックとしてノートパソコンJ-3100を発売したことを知り、大きなショックを受けた高山氏は、開発陣に対して激怒、彼らを東芝に連れて行き、教えを請うという暴挙に出ます。どんな真似をしてもいいからすぐに作れといったそうです。叱咤された開発陣はわずか4か月でノートパソコンの発売にこぎつけます。それが89年11月に発売された98NOTEです。圧倒的な98のソフトウェア資産を全て使える98NOTEはアッという間にダイナブックをキャッチアップします。

「東芝のアイデアには感服しました。技術もすごい。半導体技術も優れていました。だから連れて行ったんです。当時は仲間内みたいなものですからね。でも、うちのみんなも短期間でよくやってくれました。たいしたもんですよ。呼び方についてはウルトラブックとかスーパーブックとか、いろいろ考えたのですが、ブックは内容があるけど、何も中に書いてないのがノートじゃないですか。パソコンはあとから何かを書くんです。ブックじゃ負けてしまう。それで98NOTEです」(高山氏)

(中略)

パソコン用OSは、MS-DOSの時代からWindowsの時代に移ります。

1995年に発売されたWindows 95は、夢のような世界を人々にもたらすと話題になりました。販売店には、パソコンを持っていない人までがそのCDをほしいと詰めかけて店員を困らせたそうです。どうやら、音楽プレーヤーにそのCDをかければ幸せになれると信じているお客さんが後を絶たなかったようなのです。午前零時に開始される量販店頭での深夜販売が定着するようになったのもこの頃からです。

DOS/VとWindowsによって、アプリケーションソフトウェアの互換性という点では、ほとんど本体の設計を気にしなくてもよくなりました。NECは1992年の時点でPC-9821シリーズをリリースし、DOS/Vに対するハードウェアの優位性をアピールしていましたが、苦戦の時代が始まります。そして、1997年、15年間続いたPC-9800シリーズはPC/AT互換機としてのPC98-NXシリーズとして生まれ変わります。皮肉なことではありますが、当時、マイクロソフトやインテルがハードウェアデザインのガイドラインとして提唱していたPC97/98に最も準拠したシステムとしてのデビューでした。

上掲「国民機パソコン、その誕生から引退まで」

久しぶりに「一太郎」の名前を聞いて思い出したのが「Microsoft Wordに敗れた業界標準機」Word Perfectの興亡…

WordPerfectを最初に開発したのは、ブリガムヤング大学の学生ブルース・バスティアン(Bruce Bastian)とアラン・アシュトン(Alan Ashton)教授であった。サテライト・ソフトウェア・インターナショナル社(Satellite Software International, Inc.)をユタ州で創設し、後に社名をワードパーフェクト社(WordPerfect Corporation)に改称した。最初のバージョンはデータゼネラルのミニコンピュータ向けで、それを1982年にIBM PCに移植したWordPerfect 2.20が登場した。バージョン番号はデータゼネラル版と連続している。

人気を得るようになったのは、1986年のWordPerfect 4.2からであった。このバージョンでは、段落のナンバリング機能や脚注の自動挿入(多い場合に次のページに一部を割り付けるなど)といった機能を持っていた。WordPerfect 4.2は当時最も人気のあったWordStarからトップの座を奪い取った。

1989年、WordPerfect 5.1 for DOSがリリースされた。このバージョンではMacintosh風のプルダウンメニューを採用し、表計算ソフトのような作表機能も備えていた。WordPerfect 6.0 for DOSでは、従来型のテキストモードとグラフィックスを使ったWYSIWYGモードを備え、太字、下線、斜体といったテキスト効果が表示可能であった。

1980年代末から1990年代初めにかけて、一時デファクトスタンダードとなったが、その後Microsoft Wordの台頭によって圧倒的に占有率を失った。

1994年にWordPerfectはノベルに売却され、1996年にはコーレルに売却(コーレルはその後アルドに改称)し、現在はQuattro ProやプレゼンテーションソフトとバンドルしたWordPerfect Officeの一部として、Windows版のみ販売されている。

上掲Wikipedia「Word Perfect」

③ワードプロセッサー(1977年~2003年)

日本語ワープロ専用機の誕生

1977年(昭和52年)、シャープが試作機を開発、5月のビジネスシヨウに出品した。なお、後に商品化したモデル(WD-3000)ではかな漢字変換は実装されていなかった。

1978年(昭和53年)、東芝が初の日本語ワードプロセッサJW-10を発表した。これはワープロ専用機で、発売価格は630万円であった。この発明は電気・電子技術における歴史的な業績として、2008年にIEEEマイルストーンに認定された。

日本語版の実現には、かな文字を入力し、その読みから候補となる漢字を選択する、コンピュータによるかな漢字変換の仕組みが開発されたことがあった。当初から構文解析を行い、文節単位、熟語単位の変換が可能となっており、同音語の学習機能も備えていた。かな漢字変換機構は、単に日本語ワードプロセッサ専用機の実用化だけではなく、汎用コンピュータに限らず電子手帳や携帯電話等の電子機器も含めた、広い意味でのコンピュータによる日本語利用を普及させるための核心となる技術であった。

1979年(昭和54年)3月、沖電気が OKI WORD EDITOR-200 を発表。キーボード入力を採用し、漢字入力は1字ごとに変換する方式であった。音読みでかな入力すると同じ読みの漢字がリスト表示され、その中から入力したい文字を選択するかたちである。

同年9月、シャープが書院WD-3000を発表。キーボード入力・かな漢字変換ではなく、タッチペン方式であった。キーボードの方が能率がいいのはわかっていたが、「キーボードアレルギー」対策だとのことである。

「ワープロ」の普及

翌1980年(昭和55年)より電機メーカー、事務機メーカーなどが次々と日本語ワープロ市場に参入し、競争により価格も下がり、大手企業への導入が進んだ。同年に平均単価200万円だったワープロの価格は、1985年(昭和60年)には16.4万円と劇的に下がった。なお古瀬幸広によれば「ワープロ」の略称が一般に普及したのは、1982年に関取の高見山を起用した富士通のワープロ「マイオアシス」のコマーシャルとしている[13]。同年5月6日(NEC文豪NWP-11N発表の4日前)に富士通が発表したマイオアシスの価格は75万円であった。

パーソナルワープロブーム

1985年(昭和60年)のビジネスシヨウでカシオが59,800円のカシオワードHW-100を披露し衝撃を与え、それに対してキヤノンが49,800円のPW-10Eを出して追随するなどワープロは一気に低価格化し、マスコミには「電卓戦争の再現」として取り上げられるようになった。ソニー、セイコーエプソンなどの企業も参入し、パーソナルワープロブームとなった。

1980年代後半には、ワープロ専用機は、持ち運びが可能な大きさまで小型化されたパーソナルワープロとして、中小企業や個人への導入が始まった。

この頃の個人向けパーソナルワープロは、本体にキーボードに一体化されたプリンタと数行程度の液晶表示パネルを備える専用機であり、文章の作成、校正、編集、印刷などの機能を持つだけであった。機械の性能が向上するに連れて、液晶表示パネルの表示行数が増加し文書全体のレイアウトを把握しやすくなり、また印字機能の発達により明朝体のみだった印刷フォントもゴシック体や毛筆体など種類が増え、写植に匹敵するような高精細な印字が可能となった。さらには図形の描画・絵文字・はがき印刷(表面・裏面)や、カード型データベース・住所録・表計算・パソコン通信などの付加機能も搭載されているものが増え、テキストの処理に関しては当時のパーソナルコンピュータ(パソコン)と同等以上の高機能となった。

また、1980年代にはこれら個人向け製品の流れとは別に、ビジネス用途としてワークステーションに漢字処理機能が搭載されパーソナルワープロ同様の機能に加え様々な組版機能が盛り込まれた物が登場する。これらの多くは企業内での文書作成の写植システムとして活用され、パーソナルワープロとは別の道を歩むこととなった。

その一方でパーソナルコンピュータには漢字ROMが搭載され、BASIC(当時はオペレーティングシステム (OS) も兼ねていた)でも漢字を使用することができるようになり、安価なワープロソフトやプリンタが登場するに至った。この後、パソコンの代表機種であるPC/AT互換機で漢字ROM無しに漢字処理ができるようになり、パソコンの普及は加速するに至る。1988年にDIMEが紙面企画としてメーカー各社(NEC、canon、シャープ、東芝、富士通、松下電器)にワープロ専用機とパソコンの関係について質問状を送ったが、全社が併存する残るという回答をしている。なおパソコンも生産していたNECは、ハードウェアなどの共通性から片方が消えても名称が変わっただけ、という趣旨の回答もしている。

ワープロ専用機の生産終了

1990年代に入ると画面が白黒からカラー液晶へと進化を見せる部分があるものの、パソコンやワープロソフトの低価格化、安価なパソコン用高性能プリンターの登場などによりシェアを奪われ、普及し始めたインターネットへのアクセスも悪かったため、その売れ行きは落ちた。出荷台数は1989年(平成元年)、出荷金額は1991年(平成3年)をピークに漸減し、ワープロ専用機の世帯普及率も1998年(平成10年)をピークに急低下、1999年(平成11年)にはついにパソコンの売上がワープロ専用機の売上を逆転した。

2000年(平成12年)2月にシャープが「書院」シリーズの「WD-CP2」を発表したのを最後に新機種は出なくなり、2003年(平成15年)9月末に同機種と「WD-VP3」「WD-MF01」の3機種が生産中止となったことにより、ワープロ専用機は全社で製造を終了した。企業内での文書作成も、一般のビジネスソフトと市販プリンタで代替されていき姿を消した。

上掲Wikipedia「ワード・プロセッサー」

黎明期

1982年、在日米軍のための「CORTON-NET」が東京の山王ホテル内で開設され、またスティーブ・ベラミがアメリカ大使館内にBBSを開設した。同時期に林伸夫もApple IIをホストにしたサービス(後の「Mac Event」)を開設した。

1983年8月末にはデータブレーン社が大阪に「Com Com」を開設。これはホストにPC-9801を使用し、メール、電子掲示板、チャットなどのサービスを3回線で提供していた。

1985年、日本電信電話公社が日本電信電話(以下NTT)に移行するに伴い電気通信事業法などの法律が制定・改正された(通信自由化)。その結果、モジュラージャックなどの技術基準を満たしていれば、NTTなど第1種電気通信事業者が敷設する一般加入回線への端末設備の接続が、個人でも法律的に認められるようになった。これにより、従来は電話の受話器に音響カプラを乗せてダイヤルも手動で行い速度も300bps程度だったパソコン通信が、モデムによって手軽かつより高速に楽しめるようになった。これを受けて、数社から技術基準を満たす非同期式300/1200bpsのモデムが発売され、パソコン通信普及のきっかけとなった。これらのモデムは旧来のモデムとは違い、網制御装置(NCU)を内蔵したものである。

全盛期

1980年代半ばにアスキーネット、PC-VANなどの大手業者が商用サービスに参入、通信ソフトの普及と共に安価な2400bpsモデムが発売されるなど、1990年代にかけて大手、草の根BBSとも加入者が増加していき、『電脳辞典 1990's』によれば、1989年末頃には商用大手9社の加入者数が20万人台、草の根ネットは24時間運営局だけでも300局以上、といった規模となる。

基本的には個々のサービスはそれぞれ独立しており、ニフティとCompuServe、朝日ネットとPeopleなど提携関係にある一部の場合を除いては、他サービスとのつながりはほとんどなかった。電子メールのやりとりも同一サービス加入者でないと不可能であったが、1992年にPC-VANとニフティのメールが接続され、さらに各サービスでインターネットメールとの接続が開始されたため、大手商用サービスのメールに限っては障壁がなくなった。

ニフティとPC-VANがそれぞれの運営母体である富士通のFENICSとNECのC&Cという自前のVANを活用し、全国各地にアクセスポイントを続々と設置していったのに対して、他社は遅れを取ってアクセスポイント数も少なく、日本の商用パソコン通信サービスはニフティとPC-VANの寡占状態となり、1996年にはそれぞれ会員数200万人を数えた。

インターネットへの移行

1994年頃から、世界規模の通信網であるインターネットへの一般個人からの接続環境が整備され始めた。

1995年、Windows 95が発売され、パソコンの普及が加速した。ただしマイクロソフトCEO(当時)であったビル・ゲイツはインターネットの普及はまだ先であるとして、パソコン通信を前提としたネットワークを考えていた。それがMSNの元となる The Microsoft Networkである。ゆえに、Windows 95の初期バージョンにはインターネット関連の機能は初期状態で搭載されておらず、別売りの「Microsoft Plus!」に拡張機能としてのInternet Explorerが含まれていたのみであった。

Windows 95発売後、ビル・ゲイツは自分の判断の誤りに気づき、OSR2以降ではインターネット関連機能が標準搭載されるようになった。すなわち、OSR2ではTCP/IPが初期状態で選択されており、「Windows 95を使えばインターネットに接続できる」というイメージ戦略に成功した。

日本ではNTTがINS1500などダイアルアップ回線として安価に多数の回線を収容できるサービスを始めるなど、設備投資が安価になるなどの環境整備もあり、相次ぐISP企業の参入と、ダイヤルアップ接続用アクセスポイントの設置地域が拡充され、多くの地域で安価(市内通話料金あるいはテレホーダイ + プロバイダ料金)にインターネットへ接続できる環境が整っていった。この状況の変化により、基本的に一つの閉じたシステムであるパソコン通信については、事業の将来性や存在意義が薄れてしまったり、2000年問題で更新を迫られたホストも少なくなかったことから、アスキーネットや日経MIX、Peopleなど、殆どの商用サービスでは事業を中止したり、ニフティやPC-VAN、ASAHIネットのように、ISPに事業の中心を移したりしていった。

2000年代には大手、草の根とも、従来のパソコン通信上にあったコンテンツは、インターネットWeb上の電子掲示板等に移行しているか、廃業したところが多く、Telnet接続で文字通信手段を残しているホストもあるが、無手順による接続ホストは消滅に近く実態は殆どつかめないにまで減少した。

全盛期当時の過去ログなどは、利用者によって個人的に保存されたもの以外は、ホストのハードディスク故障、古い記録媒体の劣化やアクセス手段の喪失のほか、運営者によって破棄されるなどして散逸していることが多い。また、保存されているデータも、著作権者が所在不明などの理由により、再利用されることはほとんどない。

上掲Wikipedia「パソコン通信」

この対比はちょっとしんどい…日本人としてとてもしんどい…

上掲の状況の俯瞰図
旧投稿の図面への反映

SAP HANA登場の衝撃

SAPの業績が好調です。

プラットナー:SAPが立ち止まることなく、成長に向けて再び前に進みだしたことに、今は心から安堵している。すべては、2010年に発売したHANA(編集部注:同社が開発した新型データベースソフト)のおかげだよ。

SAPは今後、すべてのERPアプリケーションをHANAという基盤の上に乗せていく。当初は、HANAの性能に対して疑心暗鬼だったユーザーも、次々とそのポテンシャルに気づき始めている。HANAは製品として完全に離陸した。

SAPはERPソフトで今も圧倒的なシェアを持っています。その強さが逆にクラウドサービスの拡大を阻害してきたと言われてきました。ERPの次が見えないと批判され、いつまでも変われない「恐竜」とも揶揄されていました。

プラットナー:そうした評価はじきに当てはまらなくなるだろう。

確かに、SAPはHANA投入まで、2000年代後半は苦しんでいた。ERPソフトが強すぎた。だから、クラウドサービスが登場しても、SAPのビジネスとは関係ないと思っている人間が多かった。

危機意識を持っていた社員もいただろう。しかし、残念なことだが、たとえそんな人間がいたとしても、巨大組織を変えることは難しい。既存のビジネスを前提としてあらゆる組織や仕組みがデザインされているからね。

それは創業者であっても難しいのでしょうか。

プラットナー:簡単なことではないな。組織がここまで大きくなっていては。

プラットナーさん自身は、危機意識は持っていたのですか。

プラットナー:もちろんだ。ただ、私のそれはクラウドサービス自体に対してではなかった。次世代のERPを生み出せないことに対する焦りからだ。危機意識を抱き始めたのは、1998年ころ。当時、ERPソフトのR/3(注:SAPのERPソフトの名前)のリリースから数年がたち、SAPのビジネスがピークを迎えていた。

今起きたことが、リアルタイムに把握できない

SAPのERPソフトは確かに売れていた。多くのグローバル企業が導入した。しかし、個人的にはまだ製品の出来に満足できていなかった。なぜなら、SAPのERPはまだ、経営者の本当のニーズに応えられていなかったからだ。

それは何かと言うと、会社の状況をリアルタイムに把握することだ。

例えば、「最新の売り上げデータ」を知りたい場合。「最新」と言いながら、実際に入手できるのは、直近の締め日まで遡った古い情報だ。たった今受注した製品の売り上げを含めた最新の状況を知ることはできない。

確かにERPソフトによって、基幹業務のデータを統一的に管理できるように はなった。しかし、画面に表示されるデータと、現実の経営状況を示す数字にはまだ乖離があった。

今起きたことが、リアルタイムに把握できないものか。ここに、次世代のERPがあると考えた。

それが、SAPの次の成長を牽引するビジネスであると。

プラットナー:ところが、それを実現するのは簡単ではなかったんだ。当時、社内でも次世代ERPの開発プロジェクトを進めていた。現在のクラウドサービスの先駆けのような製品だった。

しかし、完成した製品は満足のいくものではなかった。

原因ははっきりしていた。既存のソフトと収益を食い合うのではないか、という懸念が社内から起きたんだ。もちろん、直接的にそうは言わない。「信頼性は大丈夫か」「本当に顧客のニーズはあるのか」など、色々な疑念を社内の人間がぶつけてくる。開発には色々な制約があったよ。

社内では既存の事業を脅かすような大胆な製品はつくれない。

それで、どうしたか。私は社内の影響が何もおよばない、自由な環境で研究に取り組むことにしたんだ。ここからの話は、「イノベーションのジレンマ」を克服する方法に関わってくるかもしれない。

それが、ポツダム大学に創設した「ハッソ・プラットナー・インスティテュート」ですね。

プラットナー:そうだ。個人資産を使って、情報技術の研究を目的とした大学と大学院を作ったんだ。ここで、企業の論理に流されることなく、新技術の研究をじっくりと腰を据えてやることに決めた。

大学は商業的な成功をすぐには求められない。取り組むテーマもニッチなもので構わない。しかも、会社の考え方に凝り固まっていない、自由な発想と意欲を持った学生が数多くいる。

そこで、これからの技術について語り合ったよ。学生たちとの研究がなければ、HANAのコンセプトは生まれなかった。

米インテル創業者のアンディ・グローブが「パラノイア(偏執症)のみが生き残る」と言っていたが、これは正しい。新しいイノベーションを生むためには、パラノイアになるのは必要なことだ。もちろん、自分自身がパラノイアでいるのが理想だが、誰もがそうなれるわけではない。その場合は、パラノイアに任せるわけだ。

大学には、そうした研究熱心な学生がたくさんいたんですか?

プラットナー:従来の発想にとらわれない、若くて情熱的な学生にあふれていた。彼らには、プレッシャーとなりそうなものを極力取り除いてあげた。「何か新しい発見をしろ」「採算が合うか」といった言葉は一切かけない。大学の近くに、気兼ねなく議論できるように家も借り上げた。

そんな中から、HANAの根幹をなす技術のアイデアが生まれた。SAP社内で開発していたら、間違いなくこの構想は途中で潰されていただろう。前例のない技術、採算が合うか不透明、おまけに開発者の実績はなし。絶対に話が進まなかったはずだ。

HANAはプロトタイプができるまで、できるだけSAPから遠ざけ、伏せておいた。結果的に製品として完成したのはSAP社内だが、その芽と情熱は社外から注入したものだ。インプラント型の改革と呼んでもいいかもしれない。

HANAは結果的に、停滞していたSAPを再生する製品になりました。

製品の切り替えをいつ決断するか
プラットナー:これは結果論だが、SAPは良いタイミングでHANAを投入できた。

社外で開発することに加えて、イノベーションのジレンマを克服するもう一つのポイントは、製品の切り替えをいつ決断するかだと思う。

例えば、自動車業界を見ればそれがよく分かる。彼らが直面している課題は、ガソリン車の時代から電気自動車にどう移行するかだ。

BMWなどガソリン車で築き上げた成功企業は、簡単には移行できないだろう。

もちろん、BMWだって電気自動車は開発済みだ。米テスラ・モーターズと同じ性能のクルマを作ることなど難しいことではない。問題は、新しい技術にいつ全面移行するかを決めるかだ。顧客にいつ、「5シリーズはもうガソリン車ではなくなります」と宣言するのか。BMWの消費者はあのガソリンエンジンの音を聞くためにBMWを買っている。それを変えるのは、とても大変な作業だ。

大切なのは、既存のマーケットで収益を稼ぎつつ、一方で新ビジネスに力を入れる必要があるということだ。イノベーションは決して博打にしては駄目で、常に継続的な収益のある中で考えなくてはならない。

遅れれば、命とりになる。ソニーのウォークマンが米アップルのiPodに、ノキアの携帯電話がiPhoneにとって代わられように、タイミングがずれれば会社自体の存亡に影響しかねない。自動車業界も、テスラが急成長している。

じゃあ、決断のタイミングはいつなのか? 正直言って、それは私にも分からない。アートのようなものだ。

しかし、だからと言って、諦めることはできない。会社を永続させたいと考えるならば、常に準備をしておく必要がある。次の自分の競合は誰なのか、アンテナを張っておくべきだ。

デザイン思考で意識を解放

SAPは「デザイン思考」を積極的に取り入れている企業としても知られています。組織を変える上でデザイン思考はどう役立ちましたか?

プラットナー:デザイン思考に使うテクニックは、組織の力を刺激し、解放するにとても役に立つものだ。

特に共感するのが、「顧客の課題は何か」という視点から常にスタートすることだ。本当のニーズは何かを一生懸命に探すということだな。

米スタンフォード大学のデザインスクールの学生は、そのトレーニングのために、幼稚園児にインタビューをする。園児を楽しませるために、新しい玩具を与えるのがいいのか、あるいは違う園庭を作るのがいいのか。

ここで学生たちが認識するのは、コミュニケーションが非常に大切だということだ。園児の本音を聞き出すためには、信頼を獲得しなくければならない。イノベーションに不可欠なコミュニケーション力を養うことにつながる。

デザイン思考は、無意識のうちに課している制約からも解放してくれる。人は知らぬ間に、「自分にはできない」とキャップをはめてしまうことが多い。

デザイン思考のテクニックは、グループで取り組むのも特徴だ。製品やプロトタイプを、チームを作って互いに知恵を出しあいながら、難題に挑戦する。こうした手法はSAPを変える際に役だった。

これからのSAPはどう変わっていきますか。

プラットナー:個人的には、ヘルスケアの分野に関心がある。難病の治療は、世界的な課題だ。この分野に、HANAの技術が貢献できると信じている。

それ以外にもHANAは様々なビジネスや社会的課題に生かせるだろう。HANAがこれから世界をどのように変えていけるかを考えると、私は興奮して眠れない。信じられないだろうが、まるで、クリスマスツリーの前にいる子供のような気分だよ。

今では、競合のマイクロソフトもIBMもHANAの脅威には気づき始めた。しかし、我々に追いつくためには、難しい決断が待っている。彼らの主力製品であるデータベースソフトから、HANAのようなインメモリーデータベースへの移行をいつ決断するかだ。それがジレンマ克服の一歩となるわけだが、なかなか難度は高い。

当初、彼らが我々に追いつくのに2年はかかると思っていたが、今はあと3年は必要なのではないかと思い始めている。それほど、イノベーションのジレンマを克服する決断は難しい。

上掲「SAP創業者イノベーションのジレンマを語る」

そんな感じで以下続報…

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