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【白人ナショナリズムの諸相】「弥助」なる観測点から観測可能な分布意味論的広がりについて。

最近ネットで話題になってるこの問題…

こんな話まで。

それについてこんな新たな戦線が開かれました。

2016年、織田信長に仕えた弥助に関する論文「The Story of Yasuke: Nobunaga's African Retainer」を『桜文論叢(日大法学部紀要)』に発表し、2017年には、初めての著作となる『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』を発行した。2019年、Geoffrey Girardとの共著『African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan』をアメリカで刊行した。

上掲Wikipedia「トーマス・ロックリー」
ネットで出回っている「信長と弥助」問題ページ

こうした歴史的事象を検証するには慎重な準備が必要です。

  • どうしてイエズス会員はポルトガル奴隷商人と一緒に来日したのか?

  • 当時の「奴隷貿易」はどういう内容だったのか?

こういった細部を把握する為、私の過去のはてなブログの内容中心に振り返ってみたいと思います。


どうしてイエズス会員はポルトガル奴隷商人と一緒に来日したのか?

この話はなんと欧州における十字軍運動時代(11世紀末~13世紀)にまで遡ります。当時の宗教的熱狂と地中海貿易振興がもたらす経済的発展の同時到来は聖堂参事会(Capitulum)改革運動なる奇妙な妥協物を生み出したのです。

ローマ・カトリック教会の機関(英語でchapter,ドイツ語でKapitel,フランス語でchapitre)。個々の聖堂に属する聖職者canoniciによって構成される合議体的組織。中世中期以降はほぼ定員制をとる。この名称は,順守すべき会則の章〈capitulum〉を日々読みあげたことに由来し,転じて集会場所,構成員の全体を指すようになったといわれる。組織としては,教会の聖務執行および世俗的諸任務の遂行にあたり,司教ないし教院長praepositusを補佐すべき義務を負うほか,評議・同意権をもって司教等の行政権力を統御する。参事会員は聖堂内陣における典礼的聖務,参事会集会への参加,教会の諸役の執行を義務づけられ,内陣の固定席,参事会での議決権,聖職録と住居を取得することができる。

816年のいわゆる〈アーヘン会則〉は,在俗聖職者の私的財産所有を認めつつも,聖堂所属者全体が司教,教院長の指導下に共同生活を行うことに力点を置いていたが,時とともに参事会は司教財産と区別された固有の財産をもつようになり,それが個々の参事会員に聖職録としてふり当てられたため,参事会員の地位は貴族諸家により子弟を給養するためのポストとして事実上専有されるようになった。こうした在俗聖職者にも使徒的生活の理想を実現しようとした11世紀後半以来の聖堂参事会改革運動により,〈アウグスティヌス会則〉順守の誓いをたてて改革された律修参事会が少なからず出現したが,永続的な改革の実は上がらなかった。13世紀以来,参事会の権限はますます拡大され,司教座聖堂においては排他的司教選挙権を取得し,事実上,司教区行政の基本方針を決定する機関となった。

上掲コトバンク「聖堂参事会」

托鉢修道会と騎士修道会の起源

修道会運動自体はノルマン貴族を中心とする(西ゴート王国末裔たる)アストゥリアス貴族や(ランゴバルト王国末裔たる)ロンバルディア貴族や(ブルグント王国末裔たる)ブルゴーニュ貴族らの部族的紐帯が俗世を支配したロマネスク(Romanesque)時代(10世紀〜12世紀)から存在。(エルサレム、ローマ、イベリア半島のサンティアゴ・デ・コンポステーラなどを結ぶ)巡礼文化や(民間のアニミズム信仰を積極的に取り入れた)クリューニュー修道会運動、(日本でいうと修験道に近い僻地での修行に執着する)シトー修道会運動といった文化遺産を残しています。

  • 12世紀に入ると貨幣経済が浸透して部族的紐帯の形骸化が進行。クリューニュー修道会もシトー修道会も退廃(贅沢への耽溺や、妻帯などの破戒)の温床と成り果て、フランスやイングランドや十字軍国家の宮廷で王侯貴族や名族が勢力争いを繰り広げるゴシック時代前期(12世紀~13世紀)時代となる。後世に名前が伝わるのはフランス王妃を経て英国王妃となったとんでもない経歴を持つ(間に「十字軍離婚」なる前代未聞のイベントを挟む)アリエノール・ダキテーヌ(1122年~1204年)や「欧州初のルネサンス有識者」の異名を持つシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位1220年~1250年)フランス国王の弟シャルル・ダンジュー(Charles d'Anjou,1266年~1285年)、「お騒がせ一族」リュジニャン家、エルサレム王国で存在感を発揮したイブラン家など。アルビジョア十字軍(Croisade des Albigeois, 1209年~1229年)を契機に北フランス諸侯の勢力が南仏にまで及んだ時代でもあった。

  • その一方でイベリア半島においてはレコンキスタ(Reconquista=国土回復)運動, 711年~1492年)が佳境に。イタリアでは地中海貿易で儲けた富商達が(貧困層の嫉妬を恐れて)始めた聖堂参事会ごっこに端を発っするフランチェスコ修道会(1210年~)やドミニコ修道会が成立。当時はキリスト教文化の東欧伸長期だった事、クリューニュー修道会やシトー修道会の退廃への対抗意識などが重なり、少なくとも当初は聖書の使徒行伝における「清貧の誓いを守り托鉢しながらの伝教活動」の模倣を試みたのだった。

  • こうした時代が生んだ徒花が(所領を分与されなかった貴族の次男坊以降や政争に敗れて遍歴騎士、気まぐれな欧州諸侯などの参陣に代わって)次第にイベリア半島のレコンキスタ運動や東欧進出運動の主要常備軍として台頭してきた騎士修道会だったのである。しかしながら十字軍国家が全失陥し、黒死病流行が始まって欧州文化圏の伸長期が終わると、それぞれが為替事業などの副業を営んで国家に匹敵する巨大組織に膨れ上がった騎士修道会は次第にその存続意義を疑われる様になり、まずはテンプル騎士団が1307年にフランス王フィリップ4世(美男王, 在位1285年~1314年)の謀略によって取り潰され、1312年にパリ本部の全財産を接収された。

なんというかまぁ、いきなりハードモードからのスタートです、

ポルトガル王国の「アフリカ十字軍」

こうした時代に入ってやっと1249年にレコンキスタ運動を完了させたポルトガル王国の台頭が始まるのです。

  • 1248年にカスティーリャ王国がセビーリヤを征服してジブラルタルから大西洋への出口が確保された事から首都リスボンをはじめとするポルトガルの諸港が「北海と地中海を結ぶイベリア半島における安全な交易拠点」に変貌を遂げるとフランドルやイギリスとの交易が活発化。外国人商人(ことに内紛が酷く本国の発展が望めないジェノバ人)が押し寄せ都心部に冨が集中し始めたのである。これによってポルトガル最初のブルジョワ階層が形成される一方で発展から取り残されたフィダルゴ(血統を重んじるが貧乏な農村貴族)との間に緊張感が発生。しかしながら1348年秋に流行した黒死病によって全人口の約3分の1を失って大打撃を被ったのを契機に両勢力は団結し「騎士修道会」アヴィス騎士団やキリスト騎士団(元テンプル騎士団ポルトガル支部)を後押しする形で元宗主国カスティーリャ王国の干渉を廃し、アヴィス朝(1385年~1580年)が開闢された。そう、ドイツにおいてチュートン騎士団(1198年~1525年)が国家に変貌した様に、ポルトガルにおいてはアヴィス騎士団やキリスト騎士団が国家に変貌したという次第。

  • とはいえ黒死病流行以降なかなか人口が回復しない影響で農業立国は望めず、しかも地中海進出も難しいとあっては大西洋方面、それも「砂金と岩塩を交換するサハラ交易」の源、すなわちアフリカ方面を目指すしかない。かくしてポルトガルの王権と騎士修道会と都市ブルジョワジーとフィダルゴの熱意が次第に「アフリカ十字軍」へと結実していく展開に。そして少なくとも当初の段階では「(中世欧州に流布していた伝承に拠ればイスラーム教徒の彼方にいるという)伝説上のキリスト教王プレスター・ジョンと連合して、イスラーム教徒を打破する」なる十字軍運動独特の宗教的動機も備わっていたと推察されている。

ポルトガル王国は「キリスト教勢力の拡大」と「貿易と新資源発見による国の繁栄」という二つの目的を持ち、(兵士5万人を載せた200隻という大艦隊を送って) ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ北岸にある商業都市セウタを攻略。これをきっかけにアフリカ大陸の北西部から西海岸を南に向けて南下していきました。このセウタ攻略が1415年でした。当時のヨーロッパ人にとってもまたアフリカ大陸の南部は未知の領域でした。まさにポルトガル人にとって当時のアフリカ西海岸の南下は未開の土地への航海だったのです。

この「キリスト教勢力の拡大」と「貿易と新資源発見による国の繁栄」はポルトガルというヨーロッパの小国にとっては一大事業でした。そこでこの大事業の責任者として任命されたのがポルトガル王ジョアン1世の三男だったエンリケ王子 (Prince Henry)(1394‐1460)でした。1420年、当時26歳であったエンリケ王子はキリスト騎士団の総督(指導者)に任命され、ポルトガルの、つまりヨーロッパキリスト教のアフリカ大陸西部の南下の最前線を推し進めていきました。これが大航海時代の始まりだったのです。エンリケ王子はこれらの功績から19世紀以降は「航海者」(the Navigator)というあだ名で呼ばれ、「大航海時代の父」とも呼ばれています。

1460年のエンリケ王子の死後もポルトガルは国策としてのアフリカ西海岸の南下を進めていきました。1473年には後に黄金海岸とも呼ばれるギニア湾を通り、赤道を突破しました。そして1484年についにポルトガル艦隊は総督バーソロミュー・ディアスの指揮のもとアフリカ最南端の喜望峰に辿り着きました。

ポルトガルがアフリカ北岸にあるセウタを攻略した1415年から、このアフリカ最南端に辿り着いた1484年までが大航海時代の第一章とされています。

上掲「大航海時代の幕開けと、冒険者たちのイベリア船 (1420年頃~1600年頃)」

エンリケは航海と探検の事業に必要な莫大な経費に、1420年から彼が団長になっていた膨大な資産を持つキリスト騎士団(元テンプル騎士団)の収入を当て、それに小貴族や商人層が協力した。その事業の目的が中小貴族の次男、三男にも所領を取得させ、商人が陥っている通貨不足を解消することにあったからである。

エンリケは海賊行為に精を出す一方でサイドビジネスとして探検を展開。1418年マデイラ諸島、1427年アゾーレス諸島が再発見され、前者が1433年エンリケに譲渡されると植民が進められる。

1419年、ポルトガル船がマディラ諸島のポルト・サントに漂着。翌年からポルトガルよりの植民が始まる。一時期黒人奴隷を移入して砂糖黍栽培が行われた。

上掲「十字軍国家としてのポルトガル王朝」

15世紀ポルトガルのエンリケ王子からジョアン2世 の時期にいたるアフリカ沿岸の探検は、アフリカの内陸にプレスタージョンの王国があり、その地は豊かな黄金の産地であるという思い込みが背景にあり、その地に到達するというのが動機の一つであった。とくにジョアン2世が派遣したコヴィリャンは陸路でインドに到達した後、アラビア半島からエチオピアに入り、エチオピア皇帝に面会し、そのまま現地にとどまって生涯を終えるという大旅行をしている。このエンリケ王子やジョアン2世のアフリカ探検熱は、大航海時代の到来をもたらした。

上掲「プレスター=ジョンの伝説」
  • 当時レパント貿易はオスマン帝国とベネツィアの独占状態にあり、こうした動きは次第に(内紛が酷く本国の発展が望めない)ジェノバ人船員やイタリア諸都市の融資を引きつける様になっていく。

本当の意味で騎士修道会が「探検」の主役だったのはセウタ制圧が完了した1415年から、キャラベル船の登場で比較的手軽に探検に参加出来る様になった1440年代までの四半世紀程度に過ぎなかったとされる。その一方で1434年に「不帰の岬」として恐れられてきた西サハラのボジャドール岬を越え、1488年には喜望峰をも越えた「聖戦」は、最初からジェノヴァ人の航海術と(奴隷交易や海賊行為で生き延びる事さえ辞さない)冒険心、さらには融資力と商機を商売に結びつける才覚なしに成立するものではなかった。

実際「不帰の岬」越えには当時最先端だった「(三角帆を取り付けることによって、逆風でも間切りという航法で前進できる)カラヴェラ船」、喜望峰より先の航路では荒波に負けない外洋走破力を有するナウ船、船が陸地を離れても自らの位置を確認出来る天文航法の投入が不可欠だった。こうした努力の結果、1471年から黄金海岸(現ガーナ)でスーダン金の継続的取引が開始。奴隷や象牙、マラゲッタ胡椒の輸入も次第に持続的で安定したものになり十分に採算の合うビジネスへと変貌したこの事業は、勧誘するまでもなく参加者が集まる様になっていく。

例えばインドに到達したヴァスコ・ダ・ガマの航海(1497年)の主要金主はフィレンツェだったし、ジェノヴァ人に至ってはポルトガルを中継点として北欧・地中海間の交易に介入し、次第にポルトガル商人を締め出すほどの影響力を及ぼすまでになっていく。

上掲「十字軍国家としてのポルトガル王朝」
  • その過程で「アフリカ十字軍」も貨幣経済浸透によりすっかり形骸化してしまい、騎士修道会の面々も妻帯や私有財産の所有を望む様になったので、ポルトガル国王はそれに変わる伝教と精神的指導の支柱として「反宗教革命運動の新星」イエズス会を呼び込んだのだった。

ポルトガルによる大航海時代の第二章の幕開けとなったのがヴァスコ・ダ・ガマによる航海でした。1487年のディアスの功績により、ポルトガルは地中海を通らずとも海路によってアジアに辿り着けることを知りました。これによりポルトガルの目的は東方へ向かい、莫大な利益を生むヨーロッパ – アジア間の直通貿易を開拓することになりました。そして1497年、ガマが喜望峰をまわりインド洋を縦断し、インドのカルカッタに辿り着きました。この航海でガマはアジアの豊潤な胡椒をはじめとするスパイス、黄金や貴金属、絹製品などをポルトガルに持ち帰ることに成功しました。このアジアとの交易はポルトガルに30倍もの純利益を生み出しました(ヨーロッパからの輸出品に対してアジアからの輸入品は30倍の価値になりました)

そしてこのヨーロッパ – アジア間の貿易の可能性を体験したポルトガルは「武力」をもって1510年にインドのゴアを、1511年にマラッカ(海峡)を征服しました。続いて1513年に中国に辿り着き、その後もインド洋と東南アジア諸国に貿易と航海の拠点をつくり、ついに1543年にマルコポーロが書き示した中国東方の伝説の国「ジパング」(日本)につきました。

日本人にとってはポルトガル人が初めてみる白人(ヨーロッパ人)であり、「鉄砲」や「キリスト教」など、日本の歴史に多大な影響を与える技術や文化が紹介されることになりました。私たちが知る「鉄砲伝来」や「キリシタンやイエズス会」などはまさに大航海時代によってもたらされた出来事だったのです。

上掲「大航海時代の幕開けと、冒険者たちのイベリア船 (1420年頃~1600年頃)」

アフリカ十字軍は何時の間にかその目的を領土拡大でなく交易ネットワーク構築に移して単なる商業組織へと変貌。教会の支持は金銭調達のための建前に利用されるばかりとなり、1551年までに騎士団の全権限が国王に掌握される様になっていた。騎士団の収入は国王の手に渡り、陸軍、海軍の費用に利用される様になる。騎士団の宗教精神は消え、修道生活を送る者も少なくなり、1502年には教皇アレクサンデル6世が騎士達に妻帯を許し、1551年にはユリウス3世が財産所有を認める事となった。

こうした流れを受けてポルトガル王は当時対抗改革(カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止めようとした運動)の目玉となっていたイエズス会を新たな目付役に選任。例えばフランシスコ・ザビエルは「西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしい」というポルトガル王の要請を受けて1541年にインドのゴアへ赴いた(その後、ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事する(その後、日本人へ精神的影響を与えるには中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去)。日本でのイエズス会事業は以降ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師達に引き継がれた。またイエズス会は1559年になるとポルトガル国内にエヴォラ大学を創設。イエズス会の影響下、エヴォラは対抗改革の中心となり、ここで教育を受けた多くの宣教師たちが布教のために世界へ渡って行く。

上掲「十字軍国家としてのポルトガル王朝」

「海上帝国」ポルトガルの黄昏

日本人の中には、来日したイエズス会士について「最終的には日本侵略を考えていた物騒な輩」なるイメージを抱いてる人もいるかもしれません。いわゆる「最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまう西欧列強お得意の植民地化計画」の先兵というイメージ。実際、以下の様な書簡も残ってる訳ですし…

ヴァリニャーノのフィリピン総督宛ての書簡に、「日本国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服は困難だ」とある。

日本を、軍事力で征服することは不可能であるが、キリシタン大名を味方にすれば、キリシタン大名の兵力数千人の動員は容易で、スペイン本国派遣軍と合わせて1万人程度で、明の討伐可能と提案している。

彼らは、明が基本的に文人の国で戦争を厭(いと)うところが強く、国の中枢の人間が、贅沢を旨として戦いを好まないので、1万の軍で制圧可能と考えていたのである。

上掲「スペインに日本征服を断念させた武力と知性(上)大航海時代になぜ植民地にならなかった? 宣教師が伝えた「日本人に勝てる民族はいない」」

これについてはポルトガル併合(1580年)によって国王の座が「1492年にレコンキスタ運動を終えたばかりで「アフリカ十字軍形骸化」の様な経験も積んでおらず、十字軍時代の宗教的熱意と領土拡大欲の混交でしか考えられない」スペイン国王フェリペ2世(Felipe II, 1527年~1598年)に移り、報告書のディスクールも、そちら側の人間に通じる内容にせざるを得なくなった事も勘案しなければなりません。そう「プロテスタントなど一捻り」なる思い込みで八十年戦争(Tachtigjarige Oorlog、1568年~1609年、1621年~1648年)を始めてしまい「日の沈まぬ」スペイン帝国没落の原因をつくった張本人。とはいえかかる変化、急激に起こった訳ではなさそうという話も。

ポルトガル王国自らが利権独占を画策し始めると、肝心のイタリア商人達を敵に回してしまう。特に「ジェノヴァ略奪(Sacco di Genova、1522年)」以降のジェノヴァ本国のスペインへの鞍替えが痛かった。

ポルトガル王室の交易独占はインドのゴアから遠くなればなるほど緩和、開放され、それがインディア州の勤務者に対する特権としてばかりでなく、インディア州に居留する民間人にも譲渡されるようになり、しかもそれが競売に付される様になっていく。

「ポルトガル海洋帝国の版図においては交易権は国王が下賜するものである」という文書上の建前自体は16世紀ばかりか17世紀まで維持されたが、次第に実体を伴わなくなりポルトガル王室に入る交易関連収益は激減。小国ゆえに充分な規模の海軍が運営出来ず、軍事的庇護を口実とする徴税もままならない状況が続く。そうした没落過程にあっても奴隷貿易だけはニーズが高まる一方で実入りの目減りがほとんどなく、ポルトガル王室は次第にそれへの依存度を高めていく。

上掲「十字軍国家としてのポルトガル王朝」

ここで思い出すのが「社会民主主義の父」フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle, 1825年~1864年)の歴史段階説。

  • まず古代メソポタミア文明圏の都市国家群に典型的な形で現れた様な「神が領土と領民を全人格的に代表する政教一致体制」が現れ、これが解体する過程で「信仰の自由」なる概念が芽生えた。

  • 次いで「いわゆる封建制=領主や領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」や「特定の生産体制や商圏をある種の財産と見做し、特定の組織がそれを全人格的に代表する組合(ギルド)体制」が現れ、これが解体する過程で「私有財産権」なる概念が芽生えた。

  • 最後に誰も代表者がいない市場経済の領域で「資本家と労働者」や「生産者と消費者」といった枠組みが流動的に動く新しい時代が始まった。

こうした変遷の過程で「ポルトガル奴隷商人」なる鬼子が浮上してきてしまったという構図な訳ですね。

1556年に即位したポルトガル王ドン・セバスティアン(在位1557年〜1578年)は強まるスペインの圧力をひしひしと感じつつ1578年に無謀なモロッコ再征服をこころみて大敗、本人も戦死し、国の財政を大きく傾けてしまった。その後継として、ジョアン3世の孫に当たるスペイン王のフェリペ2世(在位1556年〜1598年)が、1580年ポルトガル国王(在位1580-98)を兼任。

かくして1580年から1640年にかけて「スペインによるポルトガル併合」あるいは「同君連合時代」が続く事となる。

上掲「十字軍国家としてのポルトガル王朝」

こうなるともはやスペイン寄りで大言壮語が過ぎるフランチェスコ修道会士やドミニコ修道会士やイエズス会日本準管区長ガスパール・コエリョ(Gaspar Coelho, 任期1581年~1590年)の天下。たちまち、それまで積み上げてきた日本人との信頼関係がガタガタに…

ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている。

上掲「ガスパール・コエリョ」

これもおそらく、当時の日本に主に期待されていた役割が「生糸や絹織物を惜しみなく金銀を積んで買ってくれる上客」を続けてくれる事で、その阻害要因になるから条件を飲んだと考えると複雑な気分に…なお、欧州人が普遍的人権について語ったのはスペインのドミニコ会法学者フランチェスコ・デ・ヴィトリア(Francisco de Vitoria、1485年〜1546年)のサラマンカ大学におけるDe Indis講義(1532年)が最初で、ここでインディアンたちの権利擁護と奴隷制反対が雄弁に訴えられた結果、インディアン達は以降スペイン王家の庇護のもとに置かれるようになったといいます。国際法の概念と原理が初めて述べられたのもこの講義での事。要するに最初にその健闘に着手したのは、実はカソリック圏だったという次第…

当時の「奴隷貿易」はどういう内容だったのか?

地中海沿岸地域における奴隷貿易の歴史は古く、上掲の時代範囲に限っても①ヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征。800年~1050年)、②イタリア商人の奴隷売買(特にslaveの語源ともされるジェノヴァ人奴隷商のスラブ民族売買は14世紀欧州を席巻した黒死病感染の発端になったとも)、③ムスリム海賊と聖ヨハネ騎士団の海賊合戦、と枚挙に暇がない。

「北欧ヴァイキングの一派であるルーシ人は9世紀ころにバルト海を渡り、農耕民族で戦争を好まない先住民のスラブ人を容易に征服しながら、ノブゴロドにルーシの国を建てる。これがのちの18世紀ロマノフ朝ロシア帝国につながる。『ロシア』は『船のオールを漕ぐ人』が原義のルーシ人に由来する。彼らはノブゴロドを水路伝いに南下してドニエプル川の中流にキエフ・ルーシ公国を建国し、スラブ人と同化していった。その後13世紀ころにモンゴル帝国に滅ぼされ、約240年にわたってモンゴル人に間接統治される時代が続くが、ここが現在のウクライナ・ロシア・ベラルーシの原点となる。『スラブ人(the Slavs)』たちは奴隷として、東ローマ帝国などに売り飛ばされることになり、これが現代英語のslave(奴隷)やslavery(奴隷制度)の語源となる。ただ、もともと『スラブ( Slav)』の語源はスラブ祖語で『言語』や『人種』の意味で、現在のチェコ・ポーランド・クロアチア・スロベニア・ロシア・ウクライナブルガリアなどがスラブ人の子孫の国だ。」

上掲「スラブは自らを奴隷と呼んでる訳ではない」

(第4次十字軍(1202-03)」による東ローマ帝国滅亡以降実現した)黒海沿岸との直接の交易は、当時の商人にとっては、大変に魅力のあるものであった。まず、小麦粉に塩、それに塩漬けの魚、毛皮、奴隷が豊富であった。これらの商品、その中でも奴隷は、香味料の集散地であるエジプトやシリアの人々が欲しがる品である。これらを売って香味料や高価な布地を求め、それを西欧へ運んで売りさばく以上、ギリシア商人を介さなくてもよくなったのである。それだけ安く購入できることを意味する。イタリア商人たちが勢いづいたのも、無理からぬ話であった。

とくに、ターナをはじめとする黒海沿岸地方の諸都市に集められてくる奴隷は、黄色人種では中央アジアのタタール人、白人種ではロシアやコーカサス人たちであった。コーカサスの女はその美貌で有名で、回教徒のハレムでは、ことのほか珍重された。帆船に乗せられてボスフォロス海峡を南下し、東地中海に売られる奴隷たちは、キプロスやクレタでは農奴として、エジプトでは兵士として、また他の回教国では、兵士のほかに家事労働や妾として、需要は底がなかった。

ヴェネチアやフィレンツェでは、金持の飾りか家事労働に少し使われる程度であったので、エキゾチックな黒人奴隷がもてはやされたが、回教国では、白人の方に高い値がついたのである。ヨーロッパ地方に供給源がなくなってしまったこともあって、黒海を新たに市場に加えられることになったのは、この面でも、西欧の商人にとっては大きな収穫であった。

上掲「大四時十字軍と黒海貿易」

そして、いよいよ大航海時代の幕開け…

1441年、ジェノヴァ人のアントニオ・デ・ノリ(1415年?〜1497年)ら3人は、エンリケからギニア湾に入って、香辛料や金、奴隷を探索する権利をえている。その成功により、アフリカから最初の奴隷が入ってくる。そして、インドの胡椒の代替品となるマラゲッタ胡椒(唐辛子)の輸入がはじまる。これがアフリカ航路における最初の交易の成果とされる。アントニオ・デ・ノリはカーポベルデ諸島の「発見者」でもあった。エンリケは、1445年自ら奴隷輸送船を仕立てまた奴隷商の総監となり、ポルトガルを世界に冠たる奴隷交易国になさしめる。

まさしくポルトガルは大西洋における奴隷交易の先駆けであった。西アフリカ探検が進められたエンリケ王子の時代、その積極的な成果として奴隷交易がはじまるが、その初期も奴隷狩りの比重が大きい。1441年、アンタン・ゴンサルヴェスを船長とする船がモーリタニア北部のリオ・デ・オロに上陸して、黒人でないアゼネゲ人を12人捕らえ、ラゴスに連れ帰った。1444年には、ランサローテ・デ・フレイタスが奴隷の最初の輸送船団となる6隻を率いて、さらに南のアルギン礁に赴き235人の捕虜を拉致してくる。

1466年には、ベルデ岬諸島サンティアゴ島に砦が建設され、セネガル川からパルマス岬までの、上ギニア地域の交易拠点になる。また、1482年には黄金海岸にサン・ジョルジュ・ダ・ミナ砦(通称エル・ミナ)が建設され、金交易の拠点となる。1488年、バルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の希望峰に到達すると1493年には下ギニアのベニンやギニア湾のサントメ島が平定された。それ以後、サントメ島は奴隷の収容所、かつ砂糖生産地となる。

ポルトガル人は、マディラ諸島やカナリア諸島に加えてサントメ島においても、砂糖業を発達させるが、それに黒人奴隷が送り込まれることとなる。ポルトガル王室は、奴隷交易を自らの管理下におくため、1486年にリスボンに奴隷局を創設する。布留川正博氏によれば「この組織の役割は、まずアフリカからリスボンに運び込まれてきた奴隷を受け取り、検査し、標準価格をつけ、オークションで売却することであった。また、奴隷商人に交易許可証を発行し、特許料を受領した。この許可証によって貿易を営む商人は、さらに売上高の4分の1を税として奴隷局に納めなければならなかった。これは現金でよりも奴隷そのもので支払われる場合の方が多かった」という(池本幸二他著『近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で』、p.97、人文書院、1995)。

ポルトガル商人が獲得した奴隷の数は、15世紀後半においては年間数百人から2千人程度、16世紀前半には順調にいった場合、年間5500人程度であったという。このうち3500人がモーリタニアから上ギニアで獲得され、残り2000人が下ギニアならびにコンゴで獲得された。それら奴隷のうち約2000人がリスボンに運ばれ、その半数がヨーロッパ諸国に転売された。その残りは、西アフリカの砂糖プランテーションに送られ、またミナ砦において金と交換された。

1455年カボ・ヴェルデ諸島を発見したアルヴィーゼ・カダモトも、ジェノヴァ人であった。同年には教皇ニコラス5世(在位1447-55)がポジャドール岬以南のアフリカ大西洋岸の征服と貿易独占権をポルトガルに認めている。この教書は1452年の教書とともに、ヨーロッパ人による植民地主義と大西洋の奴隷交易を正当化するために利用された。同年ポルトガルは現モーリタニアのアルギン島に、サハラ以南のアフリカで、最初の商館を設立。エンリケが1460年に死ぬまでにポルトガルはセネガルからガンビアまで進み、アフリカの最西端をまわって、シェラレオネ近辺にまで進出した。

上掲「十字軍国家としてのポルトガル王国」

大西洋三角貿易の一角を担った「砂糖農園における黒人奴隷の使役」はこの時代にまで遡るのですね。ただし規模が全然違います。

1500年 ポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。北東部(ノルデステ)で砂糖黍栽培が盛んに行われる様になるのはブラジルへの植民が進めれた1530年代以降。1532年にブラジル南東部のサン・ヴィセンテ、翌年には北東部のペルナンブコに、砂糖業が導入される。

初期のブラジルにおいてはスペインの異端審問を逃れた新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジル(蘇芳、染料や楽器の材料となる材木)の輸出が主な産業となり、このために当初ヴェラ・クルス島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。

砂糖栽培には最初インディオが使用されたが、彼らは労働意欲を持ちえず、労働生産性は著しく低かった。そうした彼らを駆り立てたため、彼らはポルトガル人に反抗し、砂糖プランテーションの焼き払うなどするようになる。それに対して、ポルトガル人たちは内陸に向けて無差別な奴隷狩りを行って、16世紀末までインディオ奴隷制を採用する。

それでも労働力が不足するため、1570年代からアフリカ黒人奴隷の輸入が本格的に行われるようになる。

上掲「江戸時代の鎖国とは一体何だったのか?」

フィリップ・D・カーティン氏によれば、アフリカ黒人奴隷の輸出量は1451年〜1600年27万人、17世紀134万人、1701年〜1810年605万人、そして1811年〜70年189万人、合計955万人であったという。それぞれの期間において、ブラジル向け輸出量が占める比率は18.2、41.8、31.3、60.3パーセント、合計38.1パーセント(364万人)となっている(『大西洋奴隷貿易―その統計的研究』、p.268、1969)。

大西洋奴隷交易においてはポルトガルのブラジル領への輸出量が圧倒的で、それに次ぐのがカリブ海諸島である。ブラジルの輸出量の多さについては、ブラジル内において奴隷の再生産が行われなかったことが指摘されている。

上掲「太平洋三角貿易について思う事」

ここまで登場した奴隷商が「原則として」自らの手で奴隷集めはしない点に注意してください。それは奴隷市場からそれなりに離れた異民族間や異種族間や異教徒間の衝突の絶えない係争地、あるいは山賊や海賊の類が跋扈する無法地帯で調達される訳です。まさしくコエリョが秀吉に対して開き直った様に「売り手がいるから買うのだ」の世界…

奴隷は白人ではなく西アフリカ諸国の住民自らが狩り集めていた。その背景としては大航海時代が始まって(陸路、岩塩と砂金を交換する)サハラ交易が崩壊して従来の形での交易立国が不可能となった事、その結果小国に分裂して内戦が果てしなく繰り返される様になった状況が奴隷狩り立国に最適だった事などが挙げられる。

西廻り航路を開拓して1500年代から1530年代にかけて黄金期を迎えたポルトガルだったが、次第に儲かる香辛料ビジネスが持ち逃げされていき、気づくと奴隷交易ビジネスが主要財源となっていた。1452年にはローマ教皇ニコラウス5世がポルトガル人に「異教徒を永遠の奴隷にする許可」を与えている。これを用いてマディラやブラジルに奴隷制砂糖農場が建築された(15世紀〜16世紀)。

実際、ポルトガルの奴隷交易は、16世紀前半のポルトガル王室にとって重要な収入源であった。1550年代末の奴隷交易による王室収入は約3000万レイスに達している。他方、16世紀初頭のミナの金交易による王室収入は約4800万レイスであったが、50年代にはそれが半分以下に低下したので、王室はますます奴隷交易への依存を余儀なくされていったのだった。

一方、西アフリカの奴隷供給国化は既に1450年代から始まっている。最初に手を挙げたのはカシェウ(ポルトガル領ギニア、現ギニアビサウ)、ゴレ島(セネガル)、クンタ・キンテ島(ガンビア)、ウィダー(現在のベニンのギニア湾に面する奴隷海岸)、サントメ(コンゴ)などの地元勢力で、1480年代にエルミナ城(黄金海岸)が建設され、ギニア会社(ポルトガルとスペインと独占契約を結んだ奴隷貿易会社)が設立されるとウィダー王国(古くから大西洋に面する貿易港として栄えてきたベナン南部の都市国家。1727年以降ダホメ王国に併合される)やダホメ王国(17世紀以降ペガンを本拠地として栄えた奴隷貿易を主要財源とする軍事専制国家)やナイジェリア(ラゴス)やセネガンビア(セネガル川流域とヴェルデ岬を拠点とするフランスとガンビア川流域を拠点とするイギリスの狭間で16世紀以降育まれた文明圏)などが次々と台頭。ヨーロッパ人に売却する奴隷を狩り集める為に盛んにコンゴ遠征が行われる様になった。

上掲「太平洋三角貿易について思う事」
  • 皮肉にも欧米における奴隷貿易の廃絶は、これら「奴隷供給国家」をまとめて崩壊させ、現地は未曾有の混乱状態に陥ってしまう。その一方で欧米文化圏では衛生学が発達し疫病への恐怖が低減。こうして、これまでアフリカ内陸部への進出を阻んでいた要因が全て取っ払われたので「アフリカ分割(1880年代~1912年)」が始まってしまうのである。

そして、たまたま日本が「奴隷供給地」として絶好の条件を満たしてしまったのが戦国時代(1467~1568年)それも特に「修羅の国」九州地方だったという次第…

「奴隷供給地」としての日本

こういう投稿もありましたが、早速コミュニティノートがバシバシつけられてました。確かに公式には禁止されていたし、新たな占領地を得た領主にとっても百害あって一利なしだったのですが「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候(朝倉宗滴)」とある様に「十分な給金が与えられてない(さらには無報酬で参陣してきた)」足軽や雑兵の「人取り」をむやみやたらと取り締まって士気を落としたり、反逆の種を蒔く訳にはいかない状況もあったという事です。さらには甲斐の武田家や薩摩の島津家の様な(中央の承認なしには所領が動かなかった時代にまで遡る)古い家系だと「いわゆる封建体制=領主が領土を領民と全人格的に代表する農本主義的権威体制」時代の常識から「敵領で農地を荒廃させたり、農民を虐殺するのも立派な攻撃手段の一つ」と考える傾向が強かったとも。

  • 別に日本だけの問題でなく欧州にもあった伝統で、これが三十年戦争(1618年~1648年)を一般市民の虐殺合戦に発展させたといわれている。

戦場での奴隷売買の事例は、『妙法寺記』という史料でも確認できる。そこには、武田方の兵たちが城を攻め落とした際、男女を生け捕り、甲州で売買したと書かれている。

当時、兵たちは戦場でモノを略奪し、それを自分たちの取り分としていた。略奪したのは金銭やモノだけでなく、戦場の周辺にいた人間も対象だった。戦場では奴隷商人が活動しており、捕らえられた人々がすぐに売買された例は、ほかにも見られる。

天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原城に籠る北条氏を攻撃した際、上杉軍に対して女・子供を売却してはならないと命じている。女・子供の売却を禁止するということは、それまで行われていたことの裏返しである。捕らえた人々は、将兵の戦利品であり、そこにうごめく奴隷商人の姿を認めることができよう。

上掲「【戦国こぼれ話】室町・戦国時代の日本でも横行した、人身売買の実態に迫る」

当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。人身売買目的での誘拐は「人取り」と呼ばれた。

兵農分離を行い、足軽に俸禄をもって経済的報酬を与えていた織田信長、豊臣秀吉などは「乱暴取り」を取り締まり、「一銭切り(占領地の民衆に対する軽微な罪でも黙認しないということ)」といった厳罰によって徹底させることが可能であった。

上掲Wikipedia「乱妨取り」

それでは奴隷売買を根絶やしにするにはどうしたら良いか? 当時の統治者が辿り着いた答えが「天下統一して全ての戦争を終わらせる」だったという次第。それで江戸幕藩体制はまず内戦を完全に終結させて再戦を禁じ、次いで傭兵輸出も禁じた事で奴隷貿易との腐れ縁を完全に断ち切ったという次第。

ポルトガル奴隷商人最後の暗躍

まさにそうした形での静謐が訪れる直前、最悪の展開を迎えたのが文禄・慶長の役(1592年~1593年、1597年〜1598年)だったといわれています。

  • 文禄の役において小西行長と宗義智の一番隊に従軍した人物の陣中日記「西征日記」によれば、ポルトガル奴隷商人は戦国武将達の陣屋から少し離れた河面に船で陣取り「昼は日本軍と、夜はそれ以外と」銃や火薬を虜囚と物々交換するのに邁進していたらしい。

  • 「夜はそれ以外と」…当時の朝鮮王朝側は正規軍と義兵の関係が一枚板でなく、なおかつ現地ではどさくさに紛れて離村した農民達が流民の大群と化して徘徊していた。明軍も朝鮮王朝正規軍も義兵も喉から手が出るほど火薬を必要としていたし、支払うべき対価なら無防備に目の前を山ほど歩いていたという次第で容疑者には事欠かない。
    文禄・慶長の役(壬辰倭乱)

朝鮮王朝各地で神出鬼没のゲリラ戦を繰り広げ、日本軍の兵站線を滅茶苦茶にした義兵については①日本軍の侵略を契機に、朝鮮各地で朝鮮王朝政府に対する闘争・叛乱が起きて混乱状態に陥ったこと。②義兵を束ねる諸将が総じて両班層.(士族階級)出身であるのに対して、配下にいた兵士の大部分が身分解放の要求をもつ良人農民や奴婢であったこと。③ここに、純粋な民族的闘争へ昇華できなかった義兵運動の限界があったと指摘されている。

上掲「文禄・慶長の役(壬辰倭乱)」
  • 「どさくさに紛れて離村した流民の大群」…実は高麗時代以来ずっと河の中流域で時代遅れの古い耕法を強要されていたのにブチ切れ、下流域に移住して大規模な水田を共同で牛耕する様になったという。そうして構築された新興村全てが士大夫階層の統制下に戻るのにおよそ百年を要したという。そう時はまさに(中央両班を換局政治よって弱体化させつつ、国内の在地有力者の糾合に成功し、朝鮮王朝実録に宮廷内の党派争いの記載しかない時代を終わらせた)粛宗(在位1674年~1720年)の絶対王政時代…

粛宗はまず、光海君以後実施して来た大同法を慶尚道と黄海道まで拡大させ、初めて全国的に実施するようにした。そしてこの頃から活発になり始めた商業活動を支援するために常平通宝を作り、広く使用するように奨励した。こうして文禄・慶長の役と丙子の乱以後、混乱から脱け出すことができなかった社会を全般的に収め、整備して安定期を謳歌する政治功績を残したのである。

ただし粛宗の王権強化政策は、政治勢力を徹底的に利用しなければならない側面があるため、絶対的王権は粛宗の治世で終わりとなり、粛宗のように力強い王権を持った王は二度と出なかった。

上掲Wikipedia「粛宗」

どれほどポルトガル奴隷商が暗躍したかは、当時国際的奴隷価格が$${\frac{1}{4}}$$に暴落するほど大量の奴隷が出荷されている点だけ見ても明かだったという…

イエズス会の抱えていた苦悩

日本におけるイエズス会の振る舞いの背後にあったジレンマについて、改めてその全体像を俯瞰してみましょう。

  • 奴隷の所有と使役に積極的でなかったばかりか、1571年にポルトガル王セバスティアン1世による日本人奴隷貿易禁止の勅許を引き出す事に成功.した→パトロンたるポルトガル海上帝国は主権国家体制(Civitas Sui Iuris)すなわち「国体保全に充分な火器と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚制による徴税によって賄う体制」としては海軍力と徴税力が不足しており、奴隷貿易への依存度が高く、しかも1580年以降は「いまだ宗教的熱狂と領土拡大欲が混然と混じり合った十字軍的熱狂の最中にある」スペインに併合されてしまう。

  • 贖罪の意を込めて予算の許す限り日本人や朝鮮人の奴隷を買い戻し、読み書き算盤を教え身が立つ様になるまで面倒を見てやった→イエズス会の教育制度を適用すると敬虔なカソリック教徒として完成してしまうので故郷に戻せなくなり、秘密裏に長崎の唐人町で商業活動に従事させたり、イエズス会の中国における伝教活動を手伝わせたりしている。特に中国における伝教活動においては何人もの殉教者を出し、教皇庁から叙聖される人物までいるが、その話がキリスト教が禁止されている日本や朝鮮半島にフィードバックされる事はなかった(かえって警戒心を抱かせてしまう為)。

当時イエズス会が発行したカテキズム(catechism=教理問答)文献を分析した以下の著作によれば、さらに以下の様なジレンマも抱えていた様です。

  • 日本への適応主義の実相→ヴァリニャーノ東インド管区巡察師の書き起こした宣教ガイドライン「日本の風習と流儀に関する注意と助言(1581年)」には「肉食の誤魔化し方(「骨の処分方法」とか「臭いの誤魔化し方」とかあって完全犯罪マニュアルっぽい)」や「貝類をいかにも美味しそうに食べて見せるコツ(演技指導とそのなんとも言えない味覚もたらす精神的苦痛への宗教的対処方法)」などもあり、まさしく「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候(朝倉宗滴)」なる戦国武士心得に通じるものを感じる。これこそが騎士修道士精神の継承?

ヴァリニャーノは日本におけるイエズス会の宣教方針として、後に「適応主義」と呼ばれる方法をとった。それはヨーロッパのキリスト教の習慣にとらわれずに、日本文化に自分たちを適応させるという方法であった。彼のやり方はあくまでヨーロッパのやり方を押し通すフランシスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会の方法論の逆を行くもので、ヴァリニャーノはこれを理由としてイエズス会以外の修道会が日本での宣教を行うことを阻止しようとし、後のイエズス会と托鉢修道会の対立につながる。

1581年(天正9年)、イエズス会員のための宣教のガイドライン、『Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone(『日本における宣教師のための儀典書』(日本の風習と流儀に関する注意と助言))を執筆した。その中で、彼はまず宣教師たちが日本社会のヒエラルキーの中でどう位置づけられるかをはっきりと示した。彼はイエズス会員たちが日本社会でふるまうとき、社会的地位において同等であると見なす高位の僧侶たちのふるまいにならうべきであると考えた。当時の日本社会はヒエラルキーにしたがって服装、食事から振る舞いまで全てが細かく規定されていたのである。具体的にはイエズス会員たちは、高位の僧侶たちのように良い食事を取り、長崎市中を歩く時も彼らにならって従者を従えて歩いた。このようなやり方が「贅沢」であるとして日本のイエズス会員たちはヨーロッパで非難された。そのような非難は托鉢修道会からだけでなく、イエズス会内部でも行われた。

上掲Wikipedia「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」
  • 高邁な宗教的理想を掲げながら、現実には巨大組織運営の為に領主や現地パワーバランスへの武力介入者として振る舞わねばならなかったジレンマ→単に支援するキリシタン大名に鉄砲や火薬を供給しただけでなく「16世紀版デススター」ともいうべき巨大軍艦ナウ(Nau)船(キャラック(Carrack)船)を現地に派遣してその場における軍事紛争を不可能にする必殺技まで備えていた(究極のピースメーカー?)。その一方で「(大西洋三角貿易樹立期に確認された)鉄砲や火薬の供給量が増えるほど奴隷獲得量も増えるメカニズム」に早くから気付き、それについて苦悩していた。

上掲「大航海時代の幕開けと、冒険者たちのイベリア船 (1420年頃~1600年頃)」より中世北欧のコッグ船(上)と中世地中海のキャラベル船(中)と大航海時代に両者の掛け合わせとして誕生したナウ船(英語でキャラック船)(下)の比較シルエット図。その後ナウ(キャラック)はオランダや英国の海賊行為に対抗すべく巨大化/重武装化の一途を辿る。

こうした「イエズス会の抱える本質的ジレンマ」は、他の教区ではさらに複雑な問題へと発展したのでした。

グアダルーペの聖母(スペイン語Nuestra Señora de Guadalupe、英語Our Lady of Guadalupe)

カトリック教会が公認している聖母の出現譚の一つでメキシコで最も敬愛されている宗教的シンボル。瞳にはプルキンエ‐サンソン鏡像が正確に描かれている。当時の技術でなぜ描くことが可能だったのかは不明。近年の調査では、マントの聖母像の瞳部分にはディエゴとおぼしき人物が写っていると主張する人もいる。
  • 1531年12月9日、メキシコ・グアダルーペのインディオ、フアン・ディエゴの前に聖母が現れたとされる。聖母は、司教に聖母の大聖堂を建設する願いを伝えるよう求めた。病気の親類の助けを求めにいこうとしていたディエゴが話しかける聖母をふりきって走り去ろうとした時、聖母は彼を制止し、親類の回復を告げた。ディエゴが戻った時、病気だった親類は癒されていた。聖母に司教へしるしとして花を持っていくよういわれたディエゴは、花をマントに包み、司教館に運んだ。司教館に花を届けた際、ディエゴのマントには聖母の姿が映し出されていた。

  • 1537年、ローマ教皇パウルス3世は、インディオは理性ある人間として扱われるべきという回勅を発し、植民地におけるインディオへの迫害を禁じたる事になる。そしてフアン・ディエゴは後に列聖され、彼が聖母を見たメキシコ市近郊のテペヤク(Tepeyac)の丘には巨大なグアダルーペ寺院(Basílica de Nuestra Señora de Guadalupe)が建っている。

  • 聖母はメキシコの民族主義の象徴ともなっており、メキシコ独立革命の指導者ミゲル・イダルゴの蜂起の宣言(ドロレスの叫び)では「聖母万歳」と唱えられている。メキシコ革命の指導者の一人、エミリアーノ・サパタの軍隊は聖母の像を帽子につけていた。

  • 1994年1月1日、北米自由貿易協定(NAFTA)の発効日に「NAFTAは貧しいチアパスの農民にとって死刑宣告に等しい」としてメキシコ南部のチアパス州ラカンドンにおいて武装蜂起したEZLN=サパティスタ民族解放軍もまた口をバンダナで覆った聖母を自らのシンボルとしている。

  • 2010年代前半のTumbrにおいて最大の勢力を誇った小娘集団のうちメキシコ系集団は「グアダルーペの聖母はメキシコの初音ミク」と説明していた。「どんなにエロい二次創作が流布しても初音ミク本体がそのイメージに染まる事はない。同様にどんな形で政治利用されようともグアダルーペの聖母のイメージが特定のイデオロギーに染まる事はないの」。ここでまさかの「女犯喝」。というか(誰もが公式の席では沈黙を守っているが)後者、そもそも全体のシルエットが誰の目から見ても「女性器そのもの」という代物…

このグアダルーペの聖母について、キリスト教が入る以前のアステカの女神トナンツィン (Tonantzin、ナワトル語で〈われらの母〉の意) とを関連付ける見方もあります。どうやらこの女神のシンボルもまた「女陰そのもの」だった様で、そういう部分も重なってくるのですね。

  • 聖母が目撃されたメキシコ市近郊のテペヤク(Tepeyac)の丘は元々この女神を祀った霊場であり、だから教会内には当初インディオによる聖母目撃を「悪魔の思い付き」で片付けようとする向きもあったが最終的には「征服者と被征服者の精神的一体化の表れとみなせる」なる声が勝利した。

  • 1537年にローマ教皇パウルス3世が「インディオは理性ある人間として扱われるべき」なる回勅が発布され植民地におけるインディオへの迫害を禁じられた関係もあって「ガダルーペの聖女の発見者」フアン・ディエゴは後に列聖され、彼が聖母を見たメキシコ市近郊のテペヤク(Tepeyac)の丘には巨大なグアダルーペ寺院(Basílica de Nuestra Señora de Guadalupe)が建てられ、次第にグアダルーペ信仰がメキシコ人の間で人気を勝ち取っていったのである。

イエズス会は、こうした「現地で支配者と被支配者を結びつけるシンボルの形成過程」の黒幕としても関わってくるという話…
植民地期メキシコにおける「グアグルーペの聖母」信仰に関する一考察
グアグルパニスモの理論的唱導者ミゲル ・サンチェス
「マリア」とは誰か?

メキシコ独立革命の指導者ミゲル・イダルゴの蜂起の宣言(ドロレスの叫び)
メキシコ南部のチアパス州ラカンドンにおいて武装蜂起したEZLN=サパティスタ民族解放軍がシンボルとした「バンダナで口元を覆った聖母」

南米において自らの存続を賭してまでこれを奴隷狩りやポルトガル・スペイン軍の手から守り抜こうとして建設したインディオ教化村

そう、まさしく映画「The Mission(1986年)」の世界…

パラグアイ、アルゼンチン、ブラジルの三国にまたがるミッソンエス地方に分布するグァラニー伝道施設遺跡群。アルゼンチンとブラジル側が1983年に、パラグアイ国側が1993年にユネスコ世界遺産に登録されている。
  • この遺跡はポルトガルやスペインからきたローマカトリック教の一派であるイエズス会の宣教師たちが、先住民グァラニー族にキリスト教の教えを説いて、彼らを文明的なクリスチャンに教育しようとした「教化村」の跡地。一般にレドウソン(Reducciones、スペイン語でレドクシオン)と呼ばれていた。この言葉は「保護統治地=再教育をするために隔離した場所」を意味する。

  • イエズス会独特の伝道方式で、インディオを本来の居住地から引き離し、共同生活を営みながら農耕生活を中心とする自給体制をとり、カトリック教を普及させていこうというやり方だ。彼らはこのあたりに住んでいたグァラニー族を集め、村を作って学校、工場、宿舎、食堂、厨房、倉庫、住宅などを建設し、バナナやマンディオカ、マテ茶を植えて生産活動を行った。

  • 当時この地方には30の教化村が作られ、約15万人のグァラニー族インディオが住んでイエズス会士の指導のもとに生活を行っていたのだった。1560年にバイアの教化村を指導するルイース・ダ・グロン神父がインディオの主を集めて、カトリック信者の守らねばならぬことを四か条にまとめたのが、◎一人以上の妻をもたない。◎酒を酔うまで飲まない。◎パジェー(祈祷師)の言葉に従ってはならない。◎人間を殺さない、人間の肉を食べない、というものだったのであるから、よくぞここまでと言わざるを得ない。ポルトガル本国でさえ19世紀初期になっても非識字率90%でほとんどの市民が読み書きできなかったのに対し、その300年も前にイエズス会士達はこの地域においてインディオの子供達に学校で読み書きを教え、楽器を作らせ、それを演奏させて賛美歌を歌わせていたのだった。

  • 17世紀後半から18世紀初旬に建設された各教化村の人口は6000人から1万人程度。18世紀中旬には全人口が30万人近くになっていたようで、歴史家によってはこれを「グァラニー共和国」または「ゼズイッタ(ブラジル語における「イエズス会」)帝国」と呼んでいる。イエズス会士がミッソンエス地方で行った活動は1610年から150年に渡った。

ところでイエズス会はこの地でただ単にインディオ達を教化しただけではありません。現地の奴隷狩り部隊と戦い続け、ついにはその完全撃退に成功してもいるのです。

  • 16世紀後半、ポルトガルからブラジルへ移住して、最初にサトウキビのプランテーションと砂糖工場を成功させたのはユダヤ系移民とその子孫だった。かくして1570年には60箇所しかなかった砂糖農園が1610年には230箇所に増大。16世紀後半には早くも黒人奴隷の導入が始まっているが、その程度では到底労働力不足は補えなかった。

  • かくして南米史上に悪名高き「バンデイランテス」が登場する。彼らは当初金、銀、宝石といった金目のもを探して奥地に足を踏み入れる探検隊だったが、次第にインディオ狩りと奴隷売買に手を染めていった。その名前で呼ばれるようになったのは、それぞれ自分の隊長家紋の旗を掲げて行軍した為といわれている。指揮官にポルトガル人、下士官に混血のマメルコ(白人とインジオの混血)、その下にグァラニー族と敵対するツピー系インジオという構成で100人から200人の隊を組み、16世紀末から17世紀終わりにかけての一世紀に渡って活動を続けた。

  • 彼らの活動を支え続けたのは現地におけるインディオ奴隷需要だった。1580年からハプスブルグ家がポルトガル王を兼ねるようになると、アフリカからの黒人奴隷が値段の高いスペイン王植民地の方に流れる様になり、ブラジル側は労働力不足に陥ったのだった。ちなみに黒人奴隷とインディオ奴隷では値段に4倍の開きがあったという。

  • かくしてイエズス会が次々と教化村を建設していったのと同時期、バンデイランテスの活動も活発化。彼らは当初教化村襲撃は避けていたのだが、1620年代に入るとオランダやイギリスの海上勢力が大西洋を渡るポルトガルやスペインの奴隷船を片端から捕獲する様になって奴隷不足はますます深刻化。それでブラジル総督がインディオ狩りを公認し、サンパウロ住民がバンデイランテスを編成してミッションを攻撃する様になったのだった。中でも壮絶だったのは1629年における悪名高きアントニオ・ラポーゾ・タバーレス隊長率いる900人のグループの攻撃。さらにツピー族インディオ2200人を従えてグアイーラ地区の11のミッションと7箇所のインジオ部落を襲い、1万8千人のグヮラニー族インジオを捕獲してサンパウロまで運んだと伝えられている。彼らはミッション襲撃に際して虐殺を重ねたばかりか、その捕虜をサンパウロに連行する際もその多くを殺戮している。リーダー格と見られるインジオや老人・子供は、もとより幼児を連れた母親に至っては路傍への遺棄を命ぜられたという。

  • 彼らが教化村を襲ったのは、そこにインディオが多数集まっていた事、グアラニー族は素質がよい上、イエズス会士の教育を受けていた為に高価で取引きた事、そして何よりイエズス会士が無抵抗主義に徹していた為、安心して傍若無人に振る舞えたせいであった。バンデイランテスによってグアイーラ地区とタペー地区を合わせたミッションで捕われ奴隷となったインジオの総数は不明だが、一説に20万人ともいわれている。

  • 度重なるバンデイランテスの襲撃にたまりかねた神父たちはローマ法王へ度々直訴したが、ローマ法王パウロ三世がインジオに関しての小勅令を出しても効果ははかばかしくなかった。それでイエズス会士も最後にはインジオ側の武装案を容れ応戦を認めざるを得なくなる。実際の闘いとしてはムボロレーの戦い(1641年)などが有名。これは前回、思わぬ抵抗に遭って不覚を取ったバンデイランテス側からの復讐戦であった。600人のバンデイランテスが700隻のカヌーに分乗したツピー族4000人を動員してウルグアイ河沿いに下降進撃してきたのを、ほぼ同数のイエズス会側インディオ軍が迎えうち、相手を粉砕したのだった。

  • 1649年になるとパラグアイのアスンシオンに駐留するスペイン軍がミッソンエス地方の三十の教化村を承認し、宣教師以外のヨーロッパ人、混血人の立ち入りを禁止する。これはバンデイランテスに対する一種の宣戦布告で「今後バンデイランテスが混血のマメルコを率いて教化村を襲ってきたら、スペイン軍が相手をする」という意思表示だった。以降、バンデイランテスが教化村を襲うことはなくなる。

しかし18世紀に入ると今度はイエズス会そのものが存続の危機に立たされる展開を迎えるのです。

  • 1750年になるとポルトガルとスペインの両王がマドリード条約(南米植民地の境界線を確定する協議)に調印。この時、ウルグァイ川以東の地にあった教化村に住むグァラニー族はすべて村を放棄してウルグアイ川の西に移住することを迫られたが、ブラジル側になったセッテ・ポーボの教化村は立ち退きを拒否。1753年からスペイン、ポルトガル両王は討伐軍を出し1756年には教化村を崩壊させる(グァラニー戦争)。インディオたちは逃げる際に教会や住居に火を放ち、後には石造りの部分だけが焼け残ったのだった。

  • こうしたイエズス会の抵抗は「独裁者」ポンバル侯の怒りに触れる。彼らは1759年に突如としてブラジル側から追放された。630人が船でポルトガルに送られ、改めて国外追放とされたのである。ポンバル侯はそれでは満足せず、隣接のスペイン王朝に働きかけて1768年、今度はスペイン王が領内からイエズス会士を追放。これによってパラグアイからアルゼンチンにかけて存在した教化村も全て廃墟と化した。さらには他の列強と足並みをそろえて法王庁に働きかけ続け、1773年には法王クレメンス14世を説き伏せて回勅「ドミヌス・アク・レデンプトール((Dominus ac Redemptor)」を発布させてイエズス会を活動禁止に追い込んでしまう。

「独裁者」ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ(Sebastião José de Carvalho e Melo, primeiro Conde de Oeiras e Marquês de Pombal、1699年〜1782年)…本国においては「リスボン大地震(1755年11月1日)復興の英雄」。植民地においては「イエズス会を滅ぼした悪魔」。まぁ独裁者であったのは事実で、最後にはそれが命取りとなって失脚。

しかしイエズス会はなんとかこの前代未聞の苦難を生き延びたのでした。

  • ロシア皇帝エカテリーナ2世はかねてよりイエズス会の貢献を高く評価しており、この回勅を拒否。教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。

  • プロイセン王フリードリヒ2世もまた自国へのイエズス会士の亡命を許可し(数年後には「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)カトリック系の学校の教師として歓迎。

1814年になると教皇ピウス7世の小書簡「カトリケ・フィデイ」によってようやくイエズス会復興が許可される。ここからの復興はめざましく、19世紀のうちに世界中に多くの学校がに設立された。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。

改めて「弥助」なる観測点から観測可能な分布意味論的広がりについて

ここまで当時を構成する分布意味論的展開が把握出来た時点で「弥助」なる観測点から何が探れるかについて順番に見ていきましょう。

地元の名士のあいだでは、キリスト教徒であろうがなかろうと権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。

上掲「信長と弥助」

まずこの記述自体は庇い様もありません。完全な間違い。

  • 今回調べ直すまで見落としていたのが「弥助が歴史上に初めて登場した1581年時点では既に(奴隷を過酷な労働で使い捨てにする大西洋三角貿易時代の先駆けともいうべき)ブラジルの砂糖栽培はもう始まっていた」という事。まだまだ主要労働力を黒人奴隷とするかインディオとするかで揺れてはいたものの「生きては帰れぬブラジル送り」となっていたら、弥助の物語は始まるより先に終わってた可能性が高いという…

慎重な吟味が必要なのは以下の箇所。

弥助は日本を旅した最初のアフリカ人ではなかったが、これだけ高貴な人物に随行したアフリカ人は彼が最初だったに違いない。イエズス会は製品の誓いを立てて奴隷制に反足ししており、通常はアフリカ人を伴うことはなかったからだ。ポルトガルやアジアのほかの地域からきた貿易省たちー宣教師とは異なる行動原理を持つ外国人たちーがアフリカ人を伴う事はあったが、この当時は貿易商が九州沿岸にある港から離れる事は滅多になかった。したがって弥助は内陸部に赴くたびに大騒ぎを引き起こした

上掲「信長と弥助」

①まず「弥助は日本を旅した最初のアフリカ人ではなかったが、これだけ高貴な人物に随行したアフリカ人は彼が最初だったに違いない」は問題なし。

②「ポルトガルやアジアのほかの地域からきた貿易省たちー宣教師とは異なる行動原理を持つ外国人たちーがアフリカ人を伴う事はあったが、この当時は貿易商が九州沿岸にある港から離れる事は滅多になかった」も問題なし。

③「したがって弥助は内陸部に赴くたびに大騒ぎを引き起こした」は要注意で「したがって弥助は内陸部に赴くだけで大騒ぎを引き起こした」とでもするのが無難。何故ならヴァリアーノが弥助を従者として連れ歩く様になった時点と信長が弥助の従者となった時点の間隔が既存資料からはちゃんと読み取れないから。

天正9年2月23日(1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが織田信長に謁見した際に召使として引き連れていた。『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳 - 27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている。

天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどだった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという。

イエズス会日本年報には、本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらった。また、京都の民衆の間では信長は弥助を気に入っていて、ゆくゆくは殿にするつもりなのではないかと噂になっていた。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と鞘巻(腰刀の一種)を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述があるという。

『家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている。これは甲州征伐後の信長の視察に弥助が随行していた際の帰還途上に、信長一行が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したものである。

上掲Wikipedia「弥助」
  • 江戸時代に入ってからの出島商館長が残した日記に「江戸に向かう使者行列の先頭で山車に乗せた二人の黒人にW三味線を弾かせたら滅茶苦茶受けた。こんな話本国には報告できない」とある。もはやほとんどパンダ…背景がよくわからないが、もしかして(やはり日本でだけこっそりサービスで行われていたらしい)朝鮮通信使行列の派手なパフォーマンスに対抗したかったとか?

  • 「イザベラ・バードの日本紀行(1871年)」にもあるが、当時外国人が日本人の関心を惹こうとして、気づくと「(本国には到底伝えられない)物凄いパフォーマンス」を披露しているという展開がしばしばあったらしい。そう指摘するイザベラ・バード本人も「ハンモック・ダンス(?)」なんて奇妙な技を「お披露目用」に開発したりしている。

つまり問題は「イエズス会は製品の誓いを立てて奴隷制に反足ししており、通常はアフリカ人を伴うことはなかったからだ。」の一点に掛かってきます。

  • 上掲の様にヴァリアーノが「日本の風習と流儀に関する注意と助言(1581年)」を執筆したのは、現地のイエズス会員が日本人に日本の高僧と対等に見られるべく彼らにならって良い着物を着て良い食事を取り、長崎市中を歩く時に従者を従えて歩いており、これを「清貧の誓いを破っている」とヨーロッパじゅう(托鉢修道会ばかりか、イエズス会内部からも)非難されていたので、釈明が必要となったからである。

  • おそらくイエズス会員はそれ以前より大名に謁見する時も従者を従えており、だから「黒人従者の弥助が信長の目に留まり、譲り渡される」奇貨も生じたという次第。そういえば現存史料からは、その時の黒人従者が弥助だけだったかどうかさえ分からない(狩野内膳作「南蛮人渡来図」を見ても、普通は複数人ゾロゾロ連れ歩いてる印象)。

あとこうして全体像を俯瞰した結果浮かび上がってくるのが「イエズス会は(上掲の解放奴隷も含め)日本人や朝鮮人には相応の教育を施し助祭相当までは引き上げている(逆をいえば助祭までしか引き上げてない)」問題。現存史料からは弥助はこれに相当する教育も受けてない様に見受けられ「アジア人は頑張って助祭が限度。黒人に至っては…」なる「(オルトライト用語でいうところの)人種現実主義」が透けて見えるのです。そしてこの認識を導入すると遠藤周作原作マーティン・スコセッシ監督映画「沈黙(2017年)」の内容解釈もずいぶん変わってきてしまうのですね。どうして日本の隠れキリシタン達は本物の信仰を維持する為に「白人の司祭」の存在を必要としたのか…

とりあえず歴史家を名乗るなら、最低でもこれくらいの認識から出発してほしいという話ですね。そんな感じで以下続報…

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