【第三世代フェミニストの弾薬庫】バーバラ・ウォーカー系ラディカル・フェミニズムについて①「急進派クルガン仮説」流行に便乗して広まり、その穏便化に巻き込まれ消滅?
江戸時代に出島を訪れたオランダ人やドイツ人のうち、少なくとも幾人かが「日本は欧米より男女平等が進んでいる」なる奇妙な感慨を残しています。どちらの国も当時はまだまだ権威主義体制が根強い近世段階。だからこれはもちろん個人単位における男女平等の話でなく、身分や職業によって家父長制と家母長制が混在してる様子を言ったのです。
新海誠監督映画「君の名は。(2016年)」に登場する「糸守町を牛耳る旧名家」宮水家も小説版によればそんな感じだったし(元婿養子だったヒロイン三葉の父はこれと戦っている。家父長制にラディカル・フェミニズムが対抗する逆パターン)、米澤穂信「古典部シリーズ(2001年~)」のヒロイン千反田江留も(詳細は不明ながら)しばしば家長の名代として挨拶回りをしています。お陰で海外にまで「飛騨は家母長制」なる認識が広がる展開に。そして当時は商家もまた「男子が生まれても養子に出してしまい、長女の婿養子の座を巡って番頭達を競わせる」システムを採用していたのです。これが「出島を訪れた外国人が目にした男女平等(家父長制と家母長制の混在)」の正体。職場を「お局様」が牛耳ってたりする、日本人にとっては割と当たり前の風景。
この観点から以下の投稿を見直してみましょう。
「風の谷のナウシカ」の世界観は「女でも族長や国王の座は継承可能(だから女でもガッツリ政争に巻き込まれていく)」なる点において平等主義(Equalism)の範疇に収まっていた。
しかし「吉祥天女」の世界観は①元来家母長だった祖母亡き後、祖父がその名代を務めてきたが「有事への対応能力」まではない。②それで「有事への対応能力がある」叶小夜子が家母長代理として暗躍せざるを得なくなった、という構造で既に平等主義の観点をはみ出している。
貴志祐介「新世界より(2011年)」には「家母長は普段正体を隠して在地有力者の一人して暮らしている長命種で、後継者を自ら選ぶ」なるさらに複雑な構造が登場。
「出雲風土記」においては子種を撒く男神だけでなく女神も放浪しながら(在地有力者の先祖となる)子供を残していきます。
実はこの様な形での家父長制と家母長制の混在はツングース文化圏でも見られ、それ自体はただ単に「出自のまちまちな小部族の寄り合い世帯から出発し」「歴史的に儒教倫理やキリスト教倫理の様な形での大規模家父長制強制がなかった」エビデンスに過ぎません。とにかく「女性説教師を容認した」なる理由で異端認定されたヴァルド派が数百年に渡って弾圧され続けた「家父長制一色」の欧州とは訳が違うという事。
なのにあえて「世界は家父長制の支配下にある」と想定し、その理由を当時流行していた「急進的クルガン仮説」に託け「本来の欧州は母権制一色だったが、中央アジアより進出してきたインド・ヨーロッパ言語系に属する騎馬民族の侵略によって父権制一色に塗りつぶされた。我々は自分達の人間らしさを取り戻す為に母権制に回帰しなければならない」なるトンデモ主張に発展させた「失われた女神たちの復権(The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets,1983年)」を刊行したのが、以降急進的クルガン仮説破綻まで「ラディカル・フェミニズムの主要イデオロギー」として君臨し続けたバーバラ・ウォーカー(Barbara G. Walker, 1930年~)系ラディカル・フェミニズムだったという訳です。
この様に「クルガン仮説」自体は国際的考古学界の承認を受けた仮説。破綻したのは提唱者ギンブタスの「それは戦車を操る戦闘的部族の協同的な軍事行動であった」なる憶測で、それをここでは「急進的クルガン仮説」と呼んでいる。
日本に最初にこのバーバラ・ウォーカー系ラディカル・フェミニズムを導入したのはSFジャンルに進出してその関心領域ユング心理学など広範囲に広げた20世紀の少女漫画家達でした。私が最初にその存在を知ったのもこの波に乗っての事でしたが、そもそも彼女達は「男性運動家は男性社会の破壊ではなく、その継承に興味があるだけ」と看過して学生運動から離脱した竹宮恵子の様な理論家を含んでおり、早々に「家父長制も家母長制も打倒すべき権威主義体制である点については変わらない。私達はそのどちらでもない第三の道を模索しよう」なる結論に到達。むしろそのインパクトは男性作家の作品、すなわち浦沢直樹・勝鹿北星・長崎尚志脚本、浦沢直樹作画「MASTERキートン(1988年~1994年)」における「白い地母神神話」や星野之宣「宗像教授シリーズ(1990年~)」における騎馬民族征服王朝仮説との同一視といった伝奇ロマン漫画に無批判に継承される展開を迎えたのです。
21世紀に入るとそもそも時代遅れになった「戦車を駆使したインド・ヨーロッパ語族による征服」概念自体が忘れ去られ「キリスト教的倫理が紀元前にどこまでも遡る」さらに珍妙なバージョンが登場。あれ?紀元前って「before Christ」の事だったのでは?
なんと、まだ信じ続けてる人もいる?
そして最後に、地中海文化圏における神話研究の発展がこのバーバラ・ウォーカー系ラディカル・フェミニズムにトドメを加えたのです。
(他の地域と同様)地中海文化圏で観測される神話の多くは夫婦神を至高の存在に置いている。全地中海沿岸を商圏に収めたフェニキア商人は、おそらくこの「バール(Baal=男主人)/バーラト(Baalat=女主人)神話/儀礼」の広域分布を利用して催事様式の統一を図り、(紫色に染めた儀礼服や銀製品といった)特定の祭具の需要を生み出す事に成功した。
夫神と妻神のどちらが冥界神として「権威のみの供給者」に落され、どちらがその名代として「地上の支配者」になるケースについて特定の法則性は見出せず、実際神官団同士の党争や部族構造の変化の結果定まったとしかと推定されるケースが少なくない。特に「冬場は地中に種として埋まり、春から秋にかけて地上で育つ作物」を扱う豊穣儀礼においては「誰が地中に埋められるか」が重要な信仰上の鍵となるが、その一方で航海の守護神は概ね単身で機能する。そして両者を併合したアフロディテはそもそも「ウラーニア(天上での姿)」と「パンデモス(地上での姿)」の二態でイメージされる上、豊穣神として庭園に飾られる場合には「愛の使者」キューピットが添えられるという単なる足し算を超えた複雑怪奇な全体像に進化を遂げた。
さらに北欧神話の様に、古代ローマ時代の文献に当時はフレイ=フレイアの夫婦神が信仰の中心であった記録がなければそれとわからないほど最終形が原型とかけ離れてしまった例もある。
なお、実際の神話において誰が「権威のみの供給者」に落され、誰が「地上の支配者」の座を勝ち取るかについて考える場合、夫婦(男女)の枠組みだけで考えるとすぐに行き詰まってしまうので、少なくとも問題解決空間空間そのものを「父親・母親・子供」の多重構造で構成されていると想定する必要が生じる。
最後のトピックは「国王は誰の了承を得て国を統治するのか?」みたいな権力論に接続。そう、まさしくジェームズ・フレイザーの大著「金枝篇(The Golden Bough,1890年~1936年)」の世界ですね。ますます素人が安易に論じるのが不可能となる訳です。
こうして「ラディカル・フェミニストが振り翳す家父長制打倒のスローガンなんて、とっくの昔に寿命が尽きてた」全体像が明らかになった時点で以下続報…