【分布意味論時代の歩き方2パス目】「Velvet Underground的方法論」と「Timothy Leary的方法論」の対比
こうしてTwitterのおすすめに流れてくる(エロ)画像生成AI投稿をまとめて眺めているうち、プロンプト職人の仕事が「velvet undergroundのノンチューニング奏法」に見えてきました。それがどういう感じかなんとか説明を試みたいと思います。
Velvet Underground的方法論
「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(velvet underground & nico)」は、1970年代勃興したニューヨーク・パンク運動を代表する前衛バンドの一つ。
今日「パンク(Punk)」というとニューヨーク・ドールのマネージャーでもあったマルコム・マクラーレンが英国に輸入したロンドン・パンク運動を指す事が多いのですが…
これはとんだ価値観の縮小再生産。オリジナルのニューヨーク・パンク運動は「ニューヨーク・パンク運動の歌姫」パティ・スミスがドアーズに傾斜したエピソードに典型的に現れている様に、もっと「既存価値観を揺さぶる」芸術運動寄り、言語運動寄りだったのです。
こうした経緯から英国ロック業界重鎮のロンドン・パンク運動への評価は伝統的に最低。それで彼らが主体となってニューヨーク・パンク運動の再輸入を試みたのがミック・ジャガーがプロデュースした「黒きレッド・ツェッペリン」リビング・カラー辺りだったとも。まぁこれはあくまで個人的所感に過ぎませんが。
歌詞や演奏の端々に見受けられる既存ロック文化へのトリビュート、それを含んだ上での「ロックの反権力性」を再建していこうとする志向性…そして何よりボーカルのコリー・グローヴァーの歌声が備える、まさにパティ・スミスも惚れ込んだ独特の魔術師的雰囲気。それがフランシス・コッポラ監督映画「地獄の黙示録(Apocalypse Now,1979年)」鑑賞を契機にドアーズ・ファンとなった当時の私をも魅了したものでした。
なおChatGBTに当時のパンク史を尋ねると執拗に当時の米国パンク・バンドトーキング・ヘッズの革新性を推してきます。
ロンドン・パンク運動というと私の中ではジョー・ストラマー率いるクラッシュの方が音楽面で比率が高いのですが、その後彼はワールドミュージック方面に転線してしまったし…
リアルタイムに接してきた立場からすれば、スティング率いるポリスとかスティーブン・ストレンジ率いる「ニューロマの起源」ヴィサージとか、そのヴィサージからウルトラヴォックスに移籍したミッジ・ユーロの方をよほどパンクと意識してきましたが、彼らもその後の足跡故に今日では「ルーツがマルコム・マクラーレンの起こしたロンドン・パンク運動」と認識されてない模様…
一方、私にTokin Headsがパンク・バンドという認識が薄かったのは、この曲を代表曲と考えていたからです。
パンク嫌いで知られたYMOの坂本龍一が唯一評価していたパンクバンドで(その話を知ったのはずっと後)、この曲の影響を受けて作曲したのが「体操」とあっては「パンク」のイメージなど微塵も懐こう筈がありません。
二重三重の誤解を重ねてきたのがPhewに関する情報。そもそもFMラジオで聞いて知った「終曲(1980年)」も、長らくアーティスト名も知らないままで、アレンジも演奏も坂本龍一が手掛けた事、この時受けた刺激から YMO「BGM(1980年)」での路線転換が発生した事などは随分と後になってからインターネット経由で知った様な有様だったのです。
ましてや彼女の音楽性自認が「パンク」だったとは…
以下は1968年にフォーク・クルセーダーズが発表曲のカバーで、原曲はマカロニウェスタン調ですが、完全にパンク曲に換骨奪胎されてますね。見事としか言い様がない…
この様に1970年代終わりから1980年代前半にかけては黎明期ののパンク・ロックとレゲエとテクノとニューロマの関係者が交錯する複雑怪奇な揺籃期だった訳ですが、後世にそういう話は伝わらず、よってChatGPTもまたそれを学習する事はなかったという話。
当時の時代変遷の激しさは、かかる動乱の渦中にあったヴァージンVSの「コスミック・サイクラー(1983年)」がそのパンク色/ニューロマ色をアレンジで薄める事なく高橋留美子原作のTVアニメ「うる星やつら(1981年~1986年)」の挿入歌に採用され(流石に自殺を暗喩する歌詞は最小限の改変を経て「ラムちゃんの心境吐露の様なもの」にアレンジされたが、ラストの救急車の音はそのまま)、しかも同バンドから出たミュージシャンが次に提供した曲は完全に80年代シンセサイザー歌謡へと変貌していた展開からも読み取れます。
日本ではこうしたある種の「音楽性の収束」の果てに「80年代シンセサイザー歌謡の覇者」小室哲哉や「日本POPパンクの大成者」ブルーハーツが現れた訳ですが…
こうした全体像がまた以下の投稿の図式に当て嵌まってくるという…
そんな歴史の大源流にあったニューヨーク・パンク運動の渦中に生を受けたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの最大の特徴は独特の実験的演奏スタイルへのこだわりにありました。あえて楽器をチューニングせずに演奏を開始し「使える音」を探しながら即興を続けたり、全部の弦のチューニングを揃える「オーストリッチ・チューニング」に挑戦したり…
ノン・チューニング演奏の方は、昨年アニメ化されたはまじあきの漫画「ぼっち・ざ・ろっく(2013年~)」において廣井きくり先輩が路上で披露した「初見ベース合わせ技」を彷彿とさせます。緊張に満ちた独特のインプロバイゼーション感…
初見演奏といえばはジャミロクワイのパーカッショニストの伝説。
まぁこの時の相方も相方で「演奏中、ペグの故障でチューニングの狂いが直せなくなると、素早くボトルネック奏法に切り替える」化物な訳ですが。
そうやってルー・リードが近づこうとした「約束の場所」こそが、パラメーター数を$${2^{10000}=10^{30}}$$以上に増やした大規模言語モデル(LLM)が辿り着くに至った領域ではないかと考え始めた訳です。
まぁビートルズも「これまでにないアルバム」を世に出そうとして幻覚剤に手を出した事もあったし、そういう時代だったとしか…
ここで思い出すのがフランク・ハーバートのSF叙事詩「デューン」シリーズ(1965年~1985年)における「人間計算機」メンタートの存在。
その世界では人工知能が反乱を起こし(”プレトリアン・ジハード)、コンピューターの類が一切禁じられてしまったので「薬物によって意識拡張した人間」が代役を果たしています。確かに1960年代から1970年代にかけてヒッピーら環境主義者の間には「薬物によって意識拡張した人間の脳の処理能力は(正く処理すれば)コンピューターを凌駕し得る」なる信仰に近い伝統的信念が存在し、それを受けて「機械には不可能な魔術的亜空間航路の設定(この魔術的亜空間は裏側で人間の意識に接続しており、体制側は市民が「悪き考え」に感染しない様に日夜それを狩り集めている)」「予言やテレパシーや驚異的記憶力」などを登場させた形。
こうした宗教的指導者やアーティストの様な求道者が経験してきた「苦行に満ちた試行錯誤を通じての新しい道の模索過程」を、私は欲しい画像を得る為に黙々と新しいキーワードを打ち込み続ける(エロ)画像生成AIプロンプト職人達に感じてしまったという次第。何しろ画像生成AIなるもの、どういうキーワードにどういう反応をするか知れたものではなく、プロンプト職人はただひたすら黙々と候補語を与え、反応を見て傾向を掴む事が出来るのみ。これではまるでスーフィズム(イスラム神秘主義)における「酔語(「(shaṭḥ)」を用いて神に近づこうとする修行の様ではありませんか。
『酔語注解』に見るルーズビハー ン・バクリーの思想
Timothy Leary的方法論
こうしてヒッピーやアーティストの間にドラッグが蔓延した時期「メスカリンの導師(グル)」として崇められたのが、幻覚剤による実験的治療を実施したことで1963年にハーバード大学を解雇された心理学者ティモシー・リアリー博士(Timothy Francis Leary, 1920年〜1996年)です。
ティモシー・リアリー「神経政治学(Neuropolitics,1977年)」
実はヒッピー側のコンピューターへの態度は一様ではありません。多少なりともメインフレーム時代のIBM独占体制への義憤を共有していたにせよ、まず独占状態を崩す対抗馬としてのUNIXに関わる人々が、次いでAppleのスティーブ・ウォズニアクやスティーブ・ジョブズの様にパソコン分野に進出する人々が、さらにはロータス・デベロップメントを創立し最初に有名となった表計算ソフトLotus 1-2-3を開発したミッチ・ケイパーの様な人々が現れたのです。そして1980年代に入るとティモシー・リアリー博士でさえも「薬物を使用しての意識拡張」路線はすっぱり諦め「パソコンを使った脳トレーニング」路線に頭を切り替えたのです(「十分に訓練された脳はコンピューターの処理能力を超える」なる信念まで放棄したかは未確認)。そう、この場合にも情景の図式は当て嵌まってしまうという話…
時は飛んで2010年代。様々なビジョンを発表し続け、ウィルアム・ギブスンにサイバーパンク小説執筆を勧めた事でも知られるティモシー・リアリー博士ですが…
2010年代Tumbrのタイムラインでは、もう「Turn on Tune in Drop out」の一言がmemeとして残っているばかりとなったのです。21世紀に一言でも生き延びただけで十分凄い?
ティモシー・リアリー博士自身の説明
Turn on
「ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない」…実際、当人も後に「コンピューターによる自らの脳の再プログラミング」の方が有効という結論に至った訳だが「訓練手段」としてゲームを選択した場合「汚れた街やサイバースペース(cyber space)への没入(Jack In)」も「デスゲーム(Death Game)に巻き込まれる事」も「異世界に転生する事」も手段として完全に等価となるかが難しい。
Tune in
「Tune in」は「Turn in」とほぼ同義。ここで興味深いのはどちらにも「警察に届ける(問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う事)」というニュアンスが存在するという点。そして直感的には「in」の対語は「out」となるが「Turn out」とは「自らを包囲し拘束する現実」を「全面否定して引っ繰り返す」あるいは「諦念を伴って全面受容する」事。「Tune out」とは「黙殺を決め込む」事。だがあえてティモシー・リアリー博士はこうした選択オプションを嫌い「自らを包囲し拘束する現実」を突き抜けた向こうに「外側(Outside)」は存在しない(あるいはどれだけ無謀な進撃を続けても「現実」はどこまでも付いてくる)とする。無論(自らも専門家の一人でありながら)「問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う」という選択オプションも許容しない。マルコムX流に言うなら「誰も人に自由、平等、正義を分け与える事は出来ない。それは自ら掴み取る形でしか得られないものなのだ(Nobody can give you freedom. Nobody can give you equality or justice or anything. If you're a man, you take it. )」、日本流に言うなら「誰にも人は救えない。それぞれが勝手に助かるだけだ」といった感じ?
Drop out
「Drop Out」は「Get off」とほぼ同義。ここで言いたいのはおそらく「解脱(Turn out)せよ」という事で、まさに「縁(自らを包囲し拘束する現実)からの解放」を主題とした原始仏教における「解脱」の原義はティモシー・リアリー博士の説明とぴったり重なる。ちなみに「Drop in」は「突然ぶらりと立ち寄る事」で、「オトラント城奇譚」作者として知られるホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語「セレンディピティ(serendipity、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること)との関連が認められる。「Get on」は「大き力に便乗する事(そしてそれによって成功を収める事)」。
総論
あれ?日本語における「ドロップアウト」概念の起源?
そして「状態がカチッと切り替わる対象語を伴わない限り、on/offの前置詞はスイッチ(Switch)の切り替えを意味しない」と学びました。なるほど…
仏教的方法論との比較
仏教というか(源流を同じくするウシャニパッド哲学の発展形としての)ヒンドゥー神学における「無明」の概念と、その状態からの脱却を意味する「解脱」の影響の濃さを感じます。今日の欧米社会における「マインドフルネス(mindfulness)」概念の大源流?
瞋(しん、梵: vyāpāda 巴: byāpādaまたは梵: dveṣa 巴: dosa) - Wikipedia
途方に暮れるしかない様な情報量の多さ…とはいえ両者の突き合わせ方については、それこそ何年も考えてきた事なので流石に何の考えも湧かないという訳でもありません。
①数理の世界はそれが扱う領域の全てが特定の式や集合や確率分布などで表せる事が肝要である。この場合「明」とは、とりあえずその時の検討範囲における一番外側の補集合が(検討切り捨てにより)空集合となり閉世界仮説を成立する事、あるいは全微分が通って残りが0となる事などを指す。
ただし、かかる安定はあくまで仮初のものに過ぎず、新要素、すなわち任意の集合に新たな元が加わったり、座標系に新たな次元が加えられると崩れるのでこの状態は同時に「無明」でもある(この新要素は言うまでもなく完全なる外部からではなく「とりあえずその時の検討からは切り捨てた(空集合あるいは0と扱った)範囲」からおもむろに「現れる=有意味化する」のである)。ポパーの反証可能性論もあるので科学実証主義はこれより先には進めず、かつ進むべきでもない。龍樹「中論(2世紀)」に登場する「三昧の境地」とはこの「仮象の明」であるとする説もある。
ここで重要なのは「無明」状態に戻る都度、それまでの「明」状態の構成を一切忘れ(一切の執着を捨て)0からの再構築を心掛ける事。ところが上掲で繰り返し確認された様に現実における価値観再構築はこの様には進まない。
どうしても「仮象の明」状態から脱却したければ、すなわちそれを脅かす「新要素追加」から免れたければ正規分布の世界、すなわち(個々の次元の偏差や相関係数の揺らぎが意味をなくすほど)最初から無限の元を積み上げた集合から始めるしかなく、この考え方を仏教における「(一切の執着心から離れた)解脱状態」と重ねる向きもあるが、とりあえずティモシー・リアリーの方法論はそうは考えない。あくまで上掲図の様に「明瞭領域」から「不明瞭領域」へと踏み込んで全体構造を再検討し、明瞭領域の新規追加や上書きを狙う立場。それも繰り返し繰り返し何度でも。
ちなみに対象集合が正規分布する事を前提とする棄却検定は以前よりその前提の持ち方に疑問符が付けられてきたが、パラメーター数が$${2^{10000}=10^{30}}$$を超えた辺りから飛躍的にパフォーマンスが向上する大規模言語モデル(LLM)の登場は話をさらにややこしくするかもしれない。
②ところで①の内容の検討結果がどうなろうとも「作品を仕上げて発表してなんぼ」のクリエーターの立場からすれば「即身成仏」という結論だけはいただけない。作品なるもの、概ねあくまで始まりと終わりがあってその間の状態変化がなければ成立しないものだからである。そしてその間に無限の選択肢と、有効性が確認済みの経路ほど使い古され、ありきたりの手口と受け流されてしまうジレンマが存在しクリエーターを苦しめる。それで昔のクリエーターは幻覚剤に手を出してきたし、最近のクリエーターは大規模言語言語システム(LLM)に手を出す様になったと言う考え方も?
冒頭の(エロ)画像生成AIの話に戻すと、「明らかに基本課題設定が異なるにも関わらず」どうしてそれと実際に路上で見掛ける女性のファッションの間に最低限の連動が見られるかというと、もちろん(女性も一定割合で含む)画像生成AIプロンプト職人の血の滲む様な必死の研鑽もある訳だが、そもそもの基底に「「裸を見せてください」「はい」で済んだら婦人服いらない」ジレンマの共有があるのが意外と大きい様に感じられる。
この辺りの事情はベイズ最適化やモンテカルロ法などの数理とも重なってきそうだが、現段階ではその関係性がどうなってるかよくわからない。ただ仏教教典についても、法華経はその全編がマサラムービーの様にドラマ仕立てとなってる訳であり(歌謡曲とかCMみたいにリフパートまである。しかもこれウシャニパッド哲学の伝統的ディスクールにまで遡る様で、ほとんどゴスペル)、また本編が「ウシャ二パッド哲学の精髄」と称される精緻さを誇る華厳教でさえ、親切に東海道五十三次巡りを彷彿とさせる「少年求道者の遍歴の旅」チュートリアル「入法界品」が付帯してたりする有様。この辺りの問題、相当掘り下げ甲斐がありそうという印象…
とりあえず、今はこれが精一杯…
そんな感じで以下続報…
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