さて、以下でざっくりと俯瞰した四段階歴技術革新(Four-stage Innovation)史観ですが…
数秘術師や魔術師の時代(イタリア・ルネサンス期~近世)
大数学者や大物理学者の時代(大航海時代~1848年革命の頃)
統計学者と母集団推定の時代(産業革命時代~現代)
機械学習と意味分布論の時代(第二次世界大戦期~現在)
実はその発想の大元は「韓非子」第49編「五蠹」にあったりします。「史記」によれば、秦始皇帝が読んで著者に会いたくなった諸篇の一つ。
まさしく「葬送のフリーレン」における「ゾルトラーク(人を殺す魔法)」概念そのものですね。
実は「韓非子」のうち、確実に著者韓非(紀元前280年? - 紀元前233年)の著作と考えられる章は意外と少なく「五蠹」はその一つに該当。そもそも実は黄老刑名学から分岐し、申不害や商鞅が形成してきた法家思想自体が中国本土においては度重なる厳しい思想弾圧の末に一旦は完全に撲滅されてしまい関連文献もそのほとんどが散逸しています。その結果、現在「法家思想」呼ばれている思想そのものが、明治維新を経た大日本帝国において旧名家などが秘蔵してきた貴重な原著書から再現され、毛沢東が気に入って(旧中華王朝イデオロギーを打倒する)中華人民共和国イデオロギーとして積極利用されてきたという、複雑怪奇な歴史を抱える展開となったのでした。
「機械学習による人類の叡智の継承」なる思想について私が悲観的にならざるを得ないのは、機械学習技術そのものに対する不信感というより、こうした「(学習すべきデータを恣意的に抹殺してきた)愚かな人類の思想弾圧の歴史」の回避には、この様な特別な努力が必要となるからに他なりません。そう、とどのつまり学習元たる人類そのものが、推理小説でいう「信頼できない語り手(Unreliable narrator)」問題を抱えている事が最大の障害として立ちはだかってくるという話ですね。
こういう話も実際には史記「(むやみやたらと短い)循吏列伝」「(むやみやたらと長い)循吏列伝」の記述と突き合わせないと全体像が浮かび上がってこないものですが…
なんたる優等生的模範回答…とはいえ相手は(史記の著者司馬遷が仕込んだ、そう簡単には「尊法は正しく権力濫用は悪い」といった二元論に落とし込めない)法運用理念の変遷史。厄介な事に数理的にはあくまで「部分的にしかユークリッド尺度が設定出来ない(全体構造はまとめ方によって変わってくる)」多様体構造となる知識体系に基づく話題なので苦戦を余儀なくされる羽目に。
一事が万事こういう有様で、人類そのものがこの話題についてまだまだ決定論的に論じられない段階にある以上、機械学習的アプローチがそれを超えた最適解に到達する望みもまたないという次第なんですね。その一方で、機械学習的方法論は歴史研究に従来の考え方とは全く異なる方向からのアプローチを提供し始めています。
おや? もしかしたら、今まさに機械学習理論的アプローチ登場によって強制的に終焉を迎えつつあるのは「(新王朝が自己正当化の為に旧王朝を貶める繰り返しとしての)王朝交代史観」に端を発する「人類の伝統的歴史観イデオロギー」の方なのでは?
満洲唱歌「待ちぼうけ」に秘められた政治的イデオロギー
なお上掲の「韓非子」第49編「五蠹」引用には北原白秋作詞、山田耕筰作曲の満洲唱歌「待ちぼうけ(1924年)」で有名になった以下の章句が続きます。
これがどれほど現代中国人にとって困った存在かというと…
なんたるハルシネーション…「法家思想」が完全に「マルクス主義(共産主義)」と可換な概念として扱われてますね。そもそも最近の中華人民共和国、「マルクス主義(共産主義)」概念の教育勅語化(すなわち神聖視を強めて金科玉条として振り回し続けるも、その内容への言及を抑制する戦略の採用)に邁進し、人工知能から「それが本当は何か」見極める機会を奪ってる様にも見えなくありません。
いやむしろハルシネーションどころか「インターネットからちゃんと学んでる」からこそ、この内容になったとも?
こうして浮かび上がってきた「信頼できない語り手としての人類」問題が「モデルパラメーター数を(人類が恣意的に制御可能な範囲を超えた)$${2^{10000}=10^{30}}$$オーダーに引き上げる」戦略によって劇的改善が見られた事に、本来人類は絶望すべきなのかもしれません。要するに数学者としてコンドルセ侯爵やジョン・スチュワート・ミルが提言した「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定されるべきである」なる「解放の理念」は「信頼できない語り手としての人類」を排除する方向で完成に向かっているかもしれないという事なのです。
そんな感じで以下続報…