【産業進化論の動作原理】「現実は常に正解(ただし時代によってその内容は推移する)」なる恐るべき現実について。
「目が視える」なる事象が中央極限定理に従って「中心から離れるほど分布が荒くなっていく」球体状の三次元極座標系を構築するのに対し、「目が視えない」なる事象はその状態が多種多様であるばかりかそれぞれ異なった次元で構成される為、どんどん全体像の規定が難しくなっていきます。
ましてやその解釈が各人ごとに主観的に異なるとなる事まで考慮に入れるなら、さらに面倒な領域に踏み込みますが、幸か不幸か産業進化論には「商売として成立するや否や(成立しないなら、ただ消え去るのみ」なる単純極まる峻別基準しかないのです。
元ネタはあえて指摘するまでもなくマザーグース「三匹のめくらのネズミ」。かなり不条理な展開でしばしば殺人事件ミステリーのネタにされてきた。
007映画第一弾「Dr.No(1962年)」冒頭でもネタにされている。当時まではそれなりに知名度のある童話だった様である。
白杖者への差別的表現というと、たまたま彗星を目にした人間が揃って盲目となり、ゆっくりとしか動けない食肉植物トリフィドの餌食とされるSF映画「トリフィドの日(1962年)」の方がずっと同情の余地なく酷かった印象。まぁある種のホラー映画でもあったので「目が見えない恐怖」が誇張されたのは仕方がない?
当時はルッキズムも酷かった?
そのうちリベラリズムの間違った解釈から「盲目の人を登場させるどころか、盲目という状態そのものに触れるのも忌避される」逆差別が国際的に流行し、今日に至る。「現実は常に正解」とはいえ、果たしてそれは正しい展開だったのか?
こうして色々と考察を重ねてきましが、産業史本論的には「この作品が後世忘れ去られる一方、同じ猫と鼠の追跡劇を主題とするハンナ・バーベラ「トムとジェリー(1940年~)」は今なお相応の人気と商品価値を保持している」現実そのものは揺らぎません。
現代人の目から見てちとドギツイのは同じですが、一眼見ただけでエンターテイメントとしての完成度が違う事が見てとれますね。それでシリーズ化され、今日まで至る安定評価が構築された訳です。
義足にまつわるこういう話も。
学校の先生によるこうした「善意の強要」
「現実は常に正解」といえばこんな話もありますね。困った事に、全てに納得のいく説明がつく世界でもない訳です。
そんな感じで以下続報…