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【人工知能技術の現在・過去・未来】その黎明期、コンサルティング業界はナチスと弾劾されながらナチズム打倒を目指した?

赤塚不二夫のギャグ漫画「おそ松くん(1962年~1969年)」が元アイディアをアメリカ映画「一ダースなら安くなる(Cheaper by the Dozen,1950年)」において画面じゅうをを所狭しと走り回る子供達から得たのは有名な話ですが、その原作小説「一ダースなら安くなる あるマネジメントパイオニアの生涯(Cheaper by the Dozen、1948年)」にはちょっとした天然ホラー要素が仕掛けられています。実はそこに登場する12人の子供達、全員が無事育った訳ではなく途中で亡くなった子もいるのですが、その部分が巧みに隠されているのですね。この事実は続編の脚注において初めて明かされ読者の背筋を凍らせたとか。恐るべきベイズ更新というかTMS(Truth Maintenance System=心理維持機構)への挑戦!!

本作は、六つ子である松野兄弟やその周囲の人間たちが織りなすドタバタを描いたギャグ漫画である。発想の原点は「1ダースなら安くなる」というアメリカの映画で、初期案では12人だったが、漫画のコマで描ききれる人数ということから6人のキャラクターが描かれた。

上掲Wikipedia「おそ松くん」

実生活では第二子で次女のメアリーはジフテリアのため5歳で亡くなっている。本の中ではメアリーが亡くなったことにははっきりと言及していなかったが、『続 一ダースなら安くなる』では彼女の死について脚注で述べられている。

上掲Wikipedia「一ダースなら安くなる あるマネジメントパイオニアの生涯」

ところで以前からこの作品の原作者フランク・バンカー・ギルブレス・ジュニア&アーネスト・ギルブレス・ケアリーの肩書き「時間動作研究および能率向上技師」が気になってました。産業革命に端を発し二つの大戦を契機に加速した大量生産技術を支えた「作業員の身体から最も効率的な動作を引き出す為のMan-Machine System」を設計したエンジニア。

当時は「管理コンサルティング(Management and Human Resource Consulting)」とか「管理工学(Management and Human Resource Engineering)」と呼ばれていたジャンルで、まさにその発想に沿ってFA(Factory Automation)やOA(Office Automation)概念がERP(Enterprise Resource Planning)=企業資源計画)へと進化を遂げ今日の「業務(IT)コンサルティング=総合コンサルティング」の概念に到達するという次第。


コンサルティング市場の現在・過去・未来

ところで以下の投稿をまとめてるうちにふと思った事。

コンサルティングには、次のような種類があります。

グループ経営管理コンサルティング:親会社を含む各グループ会社を調査し、グループ経営管理上の課題を洗い出します。

ITコンサルティング:システム開発や導入を支援し、クライアントの課題解決をゴールとしています。

DXコンサルティング:クライアントの課題解決をゴールまでの通過点と位置づけ、新規ビジネスの立案や組織変革をデジタル技術によって実現することをゴールとしています。

資産コンサルティング:所有不動産資産の現状評価や査定を行い、相続対策などの将来の目標達成に向けての計画を立案するサポートを行います。

業務コンサルティング:業務プロセスの可視化や問題点の抽出を第三者が実施し、最適なプロセスの提案・構築・実施などをサポートするサービスです。

コンサルティング事業を行う会社はコンサルティングファームと呼ばれ、コンサルティングを行う専門家はコンサルタントと呼ばれます。

Google検索エンジンが試験中の生成AIの回答「管理コンサルティングとは何か?」

上掲の「(工場やオフィスでの人間の振る舞いにフォーカスした)管理コンサルティング」概念が脱落してますね。「人間工学(Ergonomics Human Factors Engineering)」なるジャンルに分岐したせいと思われます。

こうした部分も含め、そもそもコンサルティング業界はどう発展してきたのでしょうか?

総合コンサルティングの歴史は、19世紀末から20世紀にかけての産業革命や技術革新とともに発展してきました。企業の成長とともに、経営や技術的な助言を提供する専門家が必要とされるようになり、これがコンサルティング業界の誕生へとつながりました。

1. 19世紀後半 - コンサルティング業界の黎明期

コンサルティング業は、19世紀末に米国で誕生しました。最初期のコンサルティング会社としては、1890年代に設立されたアーサー・D・リトル(Arthur D. Little, Inc.)が挙げられます。この会社は、科学的な手法を産業に応用することを目的として設立され、特に技術革新に関するコンサルティングを行っていました。

また、Frederick Winslow Taylorが提唱した「科学的管理法」は、効率化と生産性向上を目指す企業に大きな影響を与え、管理コンサルティングの基盤を築きました。

2. 20世紀初頭 - マネジメントコンサルティングの台頭

1920年代に、マッキンゼー・アンド・カンパニー(McKinsey & Company)が設立され、現代的な経営コンサルティング業界の始まりを示しました。マッキンゼーは、企業の経営全般にわたる助言を提供し、特に財務管理や組織設計、戦略立案に特化していました。創業者のジェームス・O・マッキンゼーは、会計の専門知識を活用し、企業のコスト管理や効率化に関する提案を行う手法を発展させました。

その後、ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)やベイン・アンド・カンパニーといった新たなコンサルティング会社が設立され、戦略コンサルティングの分野が発展していきます。これらの企業は、特に企業の競争戦略や市場分析を重視し、クライアント企業が市場での地位を強化するための助言を行いました。

3. 1960年代以降 - 戦略コンサルティングの発展

1960年代には、戦略コンサルティングがさらに発展しました。特に、ブルース・D・ヘンダーソンが設立したボストン・コンサルティング・グループは、成長シェアマトリクス(BCGマトリクス)を提唱し、企業が自社の製品や事業のポートフォリオを戦略的に管理する手法を確立しました。これにより、企業は効率的に資源を配分し、競争優位を確保する方法を学びました。

同時期、ITの進展により、技術的な助言を提供するコンサルティング会社も増加しました。例えば、IBMなどの企業が技術に関するコンサルティングを提供し、テクノロジーの活用を推進しました。

4. 21世紀 - グローバル化とデジタル化

21世紀に入り、コンサルティング業界はさらに多様化し、グローバル化しました。企業は、急速に変化する世界市場での競争力を維持するため、コンサルティングファームに依存するようになりました。加えて、デジタル革命が進む中、企業は新しい技術(クラウド、AI、データ分析など)を活用するために、ITコンサルティングを求めるようになりました。

また、近年ではデロイト、アクセンチュア、PwCなどの大手コンサルティングファームが、テクノロジー、サステナビリティ、デジタルトランスフォーメーションといった新たな分野に進出し、総合コンサルティング業務を拡大させています。

まとめ

総合コンサルティング業界は、産業革命以降の技術革新とともに発展し、戦略、経営、技術、ITの各分野において企業を支援する役割を果たしてきました。特に20世紀中盤以降、戦略コンサルティングが主流となり、企業の競争力強化や市場拡大を支援する重要な業界として確立されました。

ChatGPTに質問「総合コンサルティングの歴史について教えてください。」

なるほど、こんなふうにまとめてきましたか。

産業革命時代の大量生産・大量消費スタイルを支えた[管理コンサルティング(Management and Human Resource Consulting)の時代(19世紀末~20世紀前半)

まさしく米国「科学主義時代」の落とし子。

アーサー・ディ・リトル(Arthur D. Little)は、アメリカ合衆国・ボストンで設立された、世界最古の経営戦略コンサルティング会社である。

1886年、マサチューセッツ工科大学の科学者で、酢酸塩の発見者でもあるアーサー・デホン・リトルによって設立された。かつてはボストン・コンサルティング・グループ創設者のブルース・ヘンダーソンも所属していた。

「“Side-by-Side”、常に顧客とともにあること」をコンセプトとして、クライアントの“腹に落ちる”成果を出すことを目標としている。

1886年、マサチューセッツ工科大学(MIT)の化学者であったアーサー・デホン・リトル博士は、当時リッチモンド製紙に勤めていたバーモント大学出身のロジャー・B・グリフィン博士と共に、MIT内にリトル&グリフィン社を設立した。リトル&グリフィンは論文「製紙の化学」執筆に取り組む。

1911年、アーサー・ディ・リトルはゼネラルモーターズ社の最初の研究開発センターの設立を支援した。これがアーサー・ディ・リトルの経営コンサルティング部門の設立につながったと同時に、経営コンサルティング業界が誕生した瞬間であったといわれる。

1917年、マサチューセッツ州ケンブリッジ、MIT新キャンパスの隣にアーサー・ディ・リトル・ビルディングを建築しそこへ移転。この建物は1976年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されている。

具体的には技術をコアコンピタンスに掲げる企業に対する全社戦略・事業戦略や技術経営(MOT)を中心とした事業を行っており、具体的には TIME(TELECOMMUNICATION, INFORMATION, MEDIA & ELECTRONICS), Auto, Energy & Utilities, Chemicals, Consumer Goods and Retail, Healthcare , Manufacturing, Private Equity, Public Services, Travel & Transportationなどのクライアントに対してコンサルティング活動を行っている。

グローバルでは、約1,000人のコンサルタントがコンサルティング活動に従事している。主な戦略系コンサルティング会社の競合として、マッキンゼー、ボストン・コンサルティング・グループ、ベイン・アンド・カンパニー、A.T.カーニー、ローランド・ベルガーが挙げられることが多い。

上掲Wikipedia「アーサー・ディ・リトル」

アーサー・D・リトル(Arthur D. Little, ADL)は、1886年にアメリカで設立された世界最古のマネジメントコンサルティング会社の一つです。ADLのコンサルティングは、特に技術やイノベーションに強みを持ち、その特徴と限界がいくつかあります。

1. 特徴

技術とイノベーションの専門性: ADLの最大の特徴は、技術革新を中心にしたコンサルティングにあります。創業者のアーサー・D・リトル自身が化学者であったこともあり、科学技術に基づく問題解決や技術戦略の構築に長けていました。これにより、製造業やエネルギー、ヘルスケア、テクノロジーなど、技術が重要な分野でのコンサルティングに強みを発揮しています。

イノベーションと技術開発の支援: ADLは、クライアントが新しい製品や技術を開発する際、プロセスの改善や市場進出の戦略構築を支援します。また、産業や技術の進化を見越して、クライアントが持続的な競争優位を維持できるよう、長期的なイノベーション戦略を提供します。

研究開発の評価と効率化: ADLは企業の研究開発(R&D)活動の評価や効率化にも定評があります。企業が新しい技術や製品を市場に投入する際に、リスクと収益性を評価し、どのプロジェクトに投資するべきかを助言します。
• グローバルな展開: ADLは世界中にオフィスを展開しており、特に欧米市場で強いプレゼンスを持っています。グローバルな視点でのコンサルティングを提供することで、国際市場でのクライアントの成長を支援します。

2. 限界

技術分野への集中による偏り: 技術とイノベーションに強みを持つ反面、ADLのコンサルティングは特に技術関連分野に特化しているため、他の分野(例えば、消費財やサービス業など)のビジネス戦略においては、他の大手コンサルティング会社と比較して限界があるとされます。戦略コンサルティング全般や財務アドバイスの領域では、マッキンゼーやBCGなど、より広範な業務をカバーするコンサルティングファームに遅れをとる場合があります。

競争激化: グローバル市場での競争が激化する中で、ADLは他の大手コンサルティングファームと競争するために、サービスの拡充と技術コンサルティング以外の分野にも対応する必要性が高まっています。技術コンサルティングに強みがあるものの、クライアントの多様なニーズに応じた対応力では限界が生じることがあります。

一時的な経営不振と再建: ADLは2000年代初頭に経営危機に陥り、一時的に破産申請を行いましたが、その後再建されました。この出来事は、企業としての安定性に対する不安を一部のクライアントに与えましたが、再建後は再び競争力を取り戻しています。しかし、歴史的な経営不振の影響は、業界内での競争において一定の限界として認識されることがあります。

まとめ

アーサー・D・リトルのコンサルティングは、技術とイノベーションに強みを持ち、特に技術開発や研究開発の支援で高い評価を受けています。しかし、その一方で技術分野への依存が大きく、他のコンサルティング領域では競争が激化する中で限界が生じることがあります。企業の持続可能なイノベーション戦略に強みがある反面、経営全般にわたる総合的なアドバイスという点では、他の大手ファームに比べて狭い領域での対応となる場合があります。

ChatGPTに質問「アーサー・ディ・リトルによるコンサルティングの特徴と限界について教えてください」

そしてピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、1909年~2005年)から「マネージメント概念の父祖」としてアンリ・ファヨール(Jule Henri Fayol、1841年~1925年)の管理過程論(Management Cycle)と並び称されるフレデリック・テイラー(Frederick Winslow Taylor、1856年~1915年)の科学的管理法(Scientific management)の登場。

オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人[1]経営学者。「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者。

他人からは未来学者(フューチャリスト)と呼ばれたこともあったが[注釈 1]、自分では「社会生態学者」を名乗った。

ユダヤ系だったドラッカーは、ナチスの勃興に直面し、古い19世紀的ヨーロッパ社会の原理が崩壊するのを目撃し、危険を悟りイギリスを経てアメリカに家族とともに逃れた。

そこで彼が目にしたのは20世紀の新しい社会原理として登場した組織、巨大企業だった。彼はその社会的使命を解明すべく、研究対象となるアメリカ大企業に協力を呼び掛けていた。その中で大手自動車メーカーのゼネラルモーターズ(GM)が、彼に声をかけた。彼は「同社の経営方針、経営組織を社外の立場から研究報告するように依頼された」。彼は、この依頼によって報酬の支払いを受ける一方で、彼自身の研究をすることを許された。そして書かれたのが『会社の概念(英語版)』(1946年)(ダイヤモンド社のドラッカー名著集上では『企業とは何か』)だった。それは、当時の副社長だったドナルドソン・ブラウンが、『産業人の未来』(原題:The Future of Industrial Man)を読み、それに触発されてドラッカーに声をかけたことが発端である。『会社の概念』は政治学者ドラッカーの立場で書かれたもので、後の一連のマネジメント書とは違うものである。

反ユダヤ主義の人種差別主義者として知られるヘンリー・フォードが指揮を取ったフォード・モーター再建の教科書として使われたとも言われている。

彼の著作には大きく分けて、組織のマネジメントを取り上げたものと、社会や政治などを取り上げたものがある。本人によれば、彼の最も基本的な関心は「人を幸福にすること」にあった。そのためには個人としての人間と、社会(組織)の中の人間のどちらかのアプローチをする必要があるが、ドラッカー自身が選択したのは後者だった。

ドラッカーは著書『マネジメント(1974年)』で、従来の全体主義的な組織の手法を改め、自律した組織を論じ、前書きにおいて「成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである」と述べている。

ドラッカーの思想は、組織や企業経営の分野にとどまらず、個人のプロフェッショナル成長の分野にも及んでいた。いわゆるナレッジワーカーが21世紀のビジネス環境で生き残り、成功するためには、「自己の長所(強み)」や「自分がいつ変化すべきか」を知ること、そして、「自分が成長できない環境から迅速に抜け出すこと」を勧めていた。新しい挑戦こそが、プロフェッショナルの成功に貢献すると主張していた。

ドラッカーの著書の日本での売り上げはダイヤモンド社刊行分だけで累計400万部余り。

上掲Wikipedia「ピーター・ドラッカー」

フレデリック・テイラーとともに経営管理論の礎を築いた一人。

建築技師であった父の赴任先であったコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)で生まれる。その後フランスへ戻り、1860年にサン・テチェンヌ鉱山学校を19歳で卒業し、技師の資格を得る。

同年、ボアグ・ランブール社(後にコマントリー・フルシャンボー・ドウカズヴィル社、と社名変更。俗にコマンボール社と言われる。)に炭鉱技師として入る。そこで頭角を現し、同社傘下の鉱山の責任者を歴任した後、1888年に社長に就任。増資・社債発行など巧みな資金調達や不採算部門の売却、新規事業や高収益部門への集中などの戦略をとり、倒産寸前だった同社の再建に成功する。1918年に社長職を辞するまで、30年にわたって経営の指揮を執った。また、辞任後も同社の取締役として、没するまで経営に参画した。

主著『産業ならびに一般の管理(1916年)』で、企業の経営には管理が最も重要であると指摘。管理を定義付けた上で管理教育の必要性と可能性、そして管理の諸原則と諸要素を論じた。これが管理過程論の始まりである。また1918年に管理学研究所を創設、管理論の研究や普及に大きな貢献を成した。

『産業ならびに一般の管理』では企業の経営活動(職能)を6個に分類。

◎技術活動(生産、製造、加工)
◎商業活動(購買、販売、交換)
◎財務活動(資本の調達・運用)
◎保全活動(設備および従業員の保護)
◎会計活動(財産目録、貸借対照表、原価、統計など)
◎管理活動(計画、組織、指揮、調整および統制)

中でも管理活動を重要視し、『管理とは、計画し、組織し、指揮し、調整し、統制するプロセスである。』と定義。管理の一般原則として、次の14の管理の原理を示した。
◎分業
◎権威と責任…命令する権限と、それに伴う責任。
◎規律
◎命令の統一(一元化)…特定の業務の担当者は、必ず単一の管理者の指揮命令を受けるべき、とする原則。
◎指揮の統一…目的をもった組織は、1人の管理者の下、1つの計画の下に業務遂行すべき、とする原則。
◎個人利益の全体利益への従属…企業全体の利益が個人の利益よりも優先。
◎公正な従業員報酬…公正で合理的な範囲内で支給。
◎集権…環境に応じ、許される限り(程度)において管理者に権限を集中すべき、とする原則。
◎階層組織…権限と階層の構築
◎秩序…適材適所の確保。
◎公正
◎従業員の安定…技能の習得には時間がかかるので、長い目で見守り、頻繁な人事異動は控えるべき、とする原則。
◎創意(イニシアティブ)…計画を立案し、実行すること。組織のすべての階層にその自由を与えることで、士気を高める。
◎従業員の団結
ただしこれらの原則は絶対的なものではなく、すべて程度問題であり、事態や人間、その他の変化・変動要因を考慮するべき、との注意も残している。

ファヨール死後の1929年に、『産業ならびに一般の管理』はアメリカで翻訳・出版されて高い評価を受け、管理過程論が生まれた。何より、管理を「計画」「組織」「指揮」「調整」「統制」の5要素と定義し、また管理教育の重要性を主張し、管理原則の理論化を試みた功績は大きく、経営管理論の始祖の一人に数えられる。なお彼のあげた5要素はその後「調整」はむしろ管理そのものであり,これを構成要素のなかに取入れるのは適切でないとして「計画」「組織」「指揮」「統制」の4つに整理された。このうちの「指揮」については「命令」あるいは「指導」「動機づけ」などということもあるが,その内容はだいたい同じといえる。いわゆるPDCAサイクル「Plan(計画)」「Do(実行)」「Check(評価)」「Action(改善)」概念の大源流。

これらの原則は実務体験に基づくものであり説得力がある反面、経験論に過ぎず、管理の本質的な認識を欠いているとか、管理原則の適用されるべき条件(経営環境)の分析が不十分などの批判もある。また、管理過程論者はファヨールの意見に普遍的妥当性を見出すがあまり、経営環境変化に対応できなかった。ハーバート・サイモンは、「矛盾した経験則の寄せ集め」と批判している。

上掲Wikipedia「アンリ・ファヨール」

フィラデルフィアの裕福な家庭に生まれた。弁護士であった父の跡を継ぐために、ハーバード大学の法学部に入学。しかし、目の病気により大学を辞め、弁護士への道を断念する。

1874年に、機械工見習いになり、工場条件の学習をした。エンジニアとしての資格を得た彼は、フィラデルフィアのミッドベール・スチール社に作業者として就職。職場の組長に取立てられたテイラーは6年の間に「テイラー工場システム」と呼ばれる科学的管理法の実践により、工作機械の改良や作業工程の改善を行い、職場に蔓延っていた「組織的怠業」を打破し労働コストの削減を達成。その功績により、主席技師(職長)に昇進している。また、この時期にガント、バースといった弟子と言える人々と出会っている。また、ミッドベール社在職中に高速度鋼を発明するなど、およそ200の特許を取得しており、後にコンサルタント業として独立する際の基礎ともなっている。また、在職中にスティーブンス工科大学から工学修士の学位を受けている。

1890年にミッドベール・スチール社を退職後、いくつかの会社で工場管理をした後、1898年にベスレヘム・スチール社に移る。そこで管理の再編成を試み、労働者の作業や道具の標準化を図った。その結果、生産に関わる計画(日程や作業内容など)の立案の重要性が高まり、計画立案専任の部署が設置されるなどの近代化への一歩といえる功績を残すが、他の管理職との対立から、1901年にベスレヘム社を退職した。1902年エリオット・クレッソン・メダル受賞。

以後、コンサルタントとしていくつかの企業を蘇らせ、また科学的管理法の研究を進め、体系化していった。また、1906年から1907年までの間、機械学会の代表を務めた。

晩年は、1915年にフィラデルフィアで死去するまで、労働組合を代表とする科学的管理法の導入に反対する勢力からの批判を受けて、それに反論するなど、科学的管理法の擁護者として活動した。59歳を迎えた翌日に病死した。

上掲Wikipedia「フレデリック・テイラー」

テイラーは科学的管理法の手法を考案し実践した事で、生産現場に近代化をもたらしたとともに、マネジメントの概念を確立した。テイラー以前にも、フランス人のペロネやイギリス人のバベッジが時間設定の実践をはじめていたといわれているが、「作業分割」を行い、要素ごとに「時間研究」を行うという方法を確立したのはテイラーである。

科学的管理法が提唱される頃(20世紀初頭)のアメリカでは、生産規模の増大に合わせて「職人への現場業務委任とマネージャーによるイニシアティブ管理」という体制がとられていた。しかしこの体制下で、労働者は非効率な経験則に頼りながら生産力増による失業という迷信を恐れ、マネージャーは報酬カットによる安易な利益率確保を狙って信頼を失い、生産現場における組織的怠業が大きな問題となっていた。

テイラーはこの体制がもつ構造的欠陥を指摘し、経験則から科学へ転換しその管理をマネージャーの責務とする科学的管理法を提唱した。管理についての客観的な基準を作る事で組織的怠業を打破して労使協調体制を構築し、その結果として生産性の増強や労働者の賃金の上昇をもたらして労使が共存共栄できるとされた。

テイラーの科学的管理法がアメリカ全土に広まるきっかけとなったのは、1910年に起こった、アメリカ東部の鉄道会社が貨物輸送運賃の値上げを要求した事件である。これを阻止するために、荷主側の弁護士のルイス・ブランデーズがテイラーの管理法を紹介し、鉄道会社の非効率な運営を指摘したことにより、全米に知られることとなった。この時に、ブランデーズやギルブレス、テイラーの弟子のガントらによって、テイラーの管理法が「科学的管理法」と名づけられた。

1911年に著書「科学的管理の原理」を出版。 テイラーは、以下のように信じていた。

◎今の管理者は、素人であり、学問として研究されるべきである。
◎労働者は協力するべきである。従って労働組合を必要としないだろう。
◎訓練されて資格のある管理者と、協力的かつ革新的な労働者の間の協力によって、最良の結果が得られる。管理者は、協力的かつ革新的な労働力が、労働者側は、訓練されて資格のある管理が必要である。

こうしてテイラーが20世紀初頭に提唱した科学的管理法は、ガント、ギルブレスらによって発展する中で様々な功績と議論をもたらし、現代マネジメント/経営学/経営管理論/生産管理論の礎となったのである。

上掲Wikipedia「科学的管理法」

経歴の抽出に拘ったのは、そこにまさに「大数学者と大物理学者の時代」が終焉して「機械学習と分布意味論の時代」が始まる端境期の息吹を感じるからです。そしてその流れは、何処かで産業革命時代英国を闊歩したシャーロック・ホームズやモリアーティ教授の様な趣味人、さらには「黄金の米国50年代」を謳歌したホワイトカラー中間層へと繋がっていく次第。

そういえばピエール・キューリー(Pierre Curie,1859年~1906年)とジャック・キューリー(Paul-Jacques Curie,1856年~1941年)、「電気工学の父」オリヴァー・ヘヴィサイド(Oliver Heaviside, 1850年~1925年)同様、それ以前の時代には生まれ得なかった「叩き上げ研究者」の一人でもありました。

上掲「【デジタルで変わった事】より速く、大量に、最小限の誤差で。」

それにつけてもさらなる管理工学の大源流に「コンピューターの父」チャールズ・バベッジ(Charles Babbage、1791年~1871年)の名前が登場するのが興味深いです。彼は彼なりに「人間からの能力の引き出し方」を研究した上で「適材適所(機械なり、肉体派/頭脳派なり向き不向きがあるから組合せ最適化が重要)」「(機械と違って)人間は賃金なりにしか働かない」なる結論に到達しているのですね。

1812年、彼は解析協会の自室で座って間違いだらけの対数表を見ていた。そして、機械に計算させればいいと思いついた。フランス政府はいくつかの数表を新しい手法で製作していた。数人の数学者が数表の計算方法を決定し、6人ほどでそれを単純な工程に分解して、個々の工程は加算か減算をすればよいだけにする。そして加減算だけを教え込まれた80人の計算手に計算させるのである。これが計算における大量生産的手法の最初の適用例であり、バベッジは熟練していない計算手を完全に機械に置き換えれば、より素早く間違わずに数表を作れるというアイデアにとりつかれた。

上掲Wikipedia「チャールズ・バベッジ」

チャールズ・バベッジ『機械化と工業化がもたらす経済効果(On the Economy of Machinery and Manufactures,1832年)』。

なんといっても、バベッジが力を入れたのは「階差エンジン(階差機関)」の製作だった。19世紀は資本主義の発展に伴い数量化が進み、「数表」が求められた。数学書でおなじみの三角関数表や対数表のみならず、利息計算のための金利表、惑星等の位置を知る天文表、航海のための航海表等々が作られた。ところが、これを作るのが人間(計算者=コンピュータと呼ばれたとのこと)、どうしても誤りが出る。正確な数表を作るため機械に計算させ、ついでに誤植をなくすため印刷までさせてしまおうというのが、階差エンジンの発想である。

バベッジは、親から相続した私財も投げ打って、この機械の製作に打ち込んだ。一番の困難は、理論的なものより当時の技術に対する知識と経験の不足であった。これを身につけるべく機械産業の調査を実施、英国中の工場を廻った。さらには、職人を連れて大陸旅行(以前も友人と何回か出かけている)をし、工場を訪ね、発明家とも会った。

本書序文にいう「本書を、長年にわたり私が制作の指揮を務める「計算機関」による成果の1つと見ていただければと思う。…英国から大陸まで、私はかなりの数の機械作業の仕事場や工場を訪れてきた、そこではからずも、私の他の研究が必然的に生み出していた「一般的諸原理」をそれらの現場にあてはめる仕儀となった。」(武邑訳)。

内容は工学(生産工学)と経営学(管理科学)が未分化の著作であり、オペーレーション・リサーチの先駆とされる。バベッジは、なによりも、企業が市場競争に勝ち残るための費用の低減を重視していた。これを実現するものとして経済学(経営学)的に主要な事項を列挙すると(村田和博2,3、パルグレーブ経済学事典 のバベッジの項目による)。

①まずは、機械の導入、発明・改良。
②管理工学としては、正確な工場調査や作業分析を通じた最適賃金の提案。
③労働者の能力に応じて職務に最適な人員を配置する「バベッジの原理」を強調した。アダム・スミスの分業論を継承し、分業と関連させて規模の経済を分析した。また、肉体労働のみならず、知的労働までに分業を拡大。 
④労資協調の重視。労働運動に対して労使協調の意識改革を迫る。労働者の工場労働への不適応に対応するための金銭的動機付けも提案。

本書は好評をもって迎えられ、2年半の内に4版を刷り、まもなく4ケ国後に翻訳された。経済学では、マルクス・ミルへの影響が大きい。

まず、マルクス『資本論』を、手許の昭和42年発行岩波版邦訳の索引によって見てみると、第一巻・第十二章「分業と工場手工業」に本書の引用2ケ所(他に言及のみ1ケ所)、同巻・第十三章「機械装置と大工業」に引用3ヶ所、そして第三巻・第五章「不変資本の充用における節約」に1ケ所言及、同巻第六章「価格変動の影響」で一ケ所言及されている。

ミル『経済学原理』においては、第一編・第七章「生産的諸要因の生産性の大小を決定する要因について」に引用2ヶ所、同編・第八章「協業、すなわち労働の結合について」で引用3ヶ所・言及1ケ所、同編第九章「大規模生産と小規模生産について」1ケ所長い引用、そして、第四編・第七章「労働者階級の将来の見通しについて」で引用1ケ所がある。(村田3.による。但し、ケ所数は岩波文庫で記者の確認)

上掲バベッジ『機械化と工業化がもたらす経済効果」
  • なおミル「経済学原理(1848年)」は、マーシャル「経済学原理(1890)」登場まで経済学の標準的テキストであった。また大正時代の日本でも翻訳され、戦前の経済学標準教科書として読まれている。

その一方でこうした人間管理技法が当時放っていた独特の非人間的雰囲気、これに関しては「第二次世界大戦中の対空砲制御技術から出発し」「単純な線形フィードバックに分解可能な事象があまりに少ない事が確かめられると、個体内における臓器間のホルモン分泌連鎖や群内の個体間におけるフェロモン連鎖の非線形フィードバックなどに関心を移した」サイバネティック技術も完全にその一部として存在していた訳ですが、その「人間の魂を何処かに置き忘れてしまった感じ」に脊髄反射的嫌悪感を抱く人も少なくなかったのです。特に左派の場合「労働組合結成を認めたがらない」というだけでもう駄目でした。

実際「サイバネティクス(Cybernetics,1948年初版、1961年増補)」の著者であるノーバート・ウィーナー(Norbert Wiener, 1894年~1964年)自身が、自らの生み出したサイバネティックス理論の社会学への適用を拒絶したりしています。そりゃ蟻や蜂の群が発想元のモデルをそのまま人間社会に適用したらロバート・ハイライン「宇宙の戦士(Starship Troopers,1961年)」も顔負けの軍国主義になってしまいますからね。

第二次世界大戦中の軍事研究で、彼の射撃制御装置に関する研究は、通信理論への関心を総合し、サイバネティックスを定式化へと促進された。戦後になり自身の影響力を行使し、ウォーレン・マカロックやウォルター・ピッツらの人工知能、計算機科学、神経心理学の分野における当時最も優れた研究者の幾人かをMITに招いた。 しかし後に、突然かつ不可解に、ウィーナーは苦心して集めた彼ら研究チームとの関係を全て絶った。その理由については、ウィーナーの鋭敏すぎる感情や、妻マーガレットの関与など、様々な原因が推測されている。いずれにしても、この出来事は、この時代で最も成功を約束されたはずだった科学的共同研究グループのひとつの早すぎる結末だった。しかしこのMITに集められたメンバーらは、後の計算機科学他の発展に影響を残すこととなる。

グループとの断絶にもかかわらず、ウィーナーはサイバネティックス、ロボティクスやオートメーションなどの分野で新たな境地を開拓し続けた。彼は研究において才能を発揮し続け、また彼の理論と発見を他の研究者と自由に共有した。不幸にも、冷戦時代においてはこの態度は、ソビエト連邦の科学者への支持の表明などにもよって、様々な疑念を呼び起こした。さらにウィーナーは共産主義者の嫌疑をかけられ、赤狩りの対象にもなった。

第二次大戦後、ウィーナーは、科学研究への政治の干渉や科学の軍事化の問題に関心を強く持つようになった。彼は「ある科学者の反乱」(A Scientist Rebels)と言う題の論説を「アトランティック・マンスリー」1947年1月号にて発表し、その中で科学者に対し、自身の研究が持つ倫理的な含意を熟考するように強く主張した。彼自身は軍事関連のプロジェクトで働くことや政府からの援助を受けることを拒絶した。

彼は、オートメーション技術を、生活の質を高め、貧困地域を発展させるのに用いるという構想の強力な支持者だった。これらの構想はインドに大きな影響を与え、1950年代に彼はインド政府に助言を与えていた。1950年に記した『人間機械論』で学歴社会を「統治者は永久に統治者であり、兵士は永久に兵士であり、労働者は労働者に運命づけられている」とし、「昆虫は成長の過程で脱皮し、神経系を破壊されるので、幼虫から成虫に多くの記憶を移すことができない。人間以外の哺乳類は学習によって獲得する後天的な能力より、持って生まれた先天的な能力が優先させ、人間と他の動物の決定的な違いは学習である」と述べている。

上掲Wikipedia「ノーバート・ウィーナー」

しかしながら「(様々な意味合いにおける)共有資本の増大を求めてステークスホルダーが集う」会社組織の場合はどうでしょうか? FA(Factory Automation)やOA(Office Automation)として始まった試みがERP(Enterprise Resources Planning=企業資源計画)なる中間段階を経て「業務(IT)コンサルティング」の概念にまで育った背景には、この考え方の秘かなる継承があったのではないでしょうか?

そう、まさにカート・ボガネット・Jr.「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを(1965年)」冒頭にもある通り。一定量以上の蜂蜜(Honey)が蜂達の物語の主役になり得る様に、一定量以上の資本(Money)は社員達の物語の主役になり得るという次第なのである。

上掲「一定量以上の蜂蜜(Honey)が蜂達の物語の主役になり得る様に、一定量以上の資本(Money)は社員達の物語の主役になり得るのか?」

もちろんサイバネティクスの「数理最適化を生理学的事象や生物学的事象で暗喩する思考様式」自体が、1980年台に入って「ニューロン・ネットワーク」アルゴリズムに「隠れ層」が発見されて以降完全に時代遅れとなってしまいますが、この考え方自体はそういう試練も乗り越えて実存し続けたといえましょう。

経営陣に助言し機関投資家に影響を与える戦略的コンサルタントの台頭(1939年~)

世界恐慌前夜に該当する1920年代に設立された時点のマッキンゼーは会計事務所としての業務が主体だったので、上掲の歴史記述のその箇所はハルシネーション(Hallucination)と見做せそうです。

1926年に設立されたマッキンゼーは、1937年に創業者のジェームズ・O・マッキンゼーが亡くなったことをきっかけに、1939年にはシカゴオフィスを率いていたトム・カーニーが独立し、「マッキンゼー&カンパニー」と「マッキンゼー、カーニー&カンパニー」に分かれました。

1947年にカーニーからマッキンゼーのネーミングライツを買うことで、マッキンゼーを名乗るファームは現在の同社のみになりました。(ネーミングライツを売った「カーニー&カンパニー」は現在の「A.T.カーニー」の前身です。)

設立当初は会計と経営工学の事務所だったマッキンゼーが、世界的なコンサルティングファームへと飛躍したキーマンとして、マービン・バウワーが挙げられます。

バウワーが入社してからマッキンゼーはグローバル展開を推進していき、1959年に初となる海外支社をロンドンに開設して以降、ヨーロッパ各地やカナダ、オーストラリア等々世界各国にオフィスを設けていきました。

日本に進出したのは1971年で、現在は東京と大阪にオフィスを構えています。

戦略コンサルティングがメインの同社ですが、昨今は企業に対してDX支援も行うようになっており、「マッキンゼーデジタル」を立ち上げるなどしています。また、ビジネス及び研究機関として調査レポートを公開している「マッキンゼーグローバルインスティテュート」などの組織もあります。

上掲「マッキンゼー・アンド・カンパニー(McKinsey & Company, Inc.)の「あんどかんぱにー」ってなんやねん?」

ここはとりあえず「戦略コンサエルティングの父」マービン・バウワーがマッキンゼーを買い取った1939年を戦略コンサエルティングの誕生年と考える事にしましょう。その時点での呼称は経営陣に助言する事から「経営コンサルティング(Management Consulting)」。

マービン・バウワーは、タイトルの通り、世界的な戦略コンサルティング・ファーム、マッキンゼーをつくった男。ただし創業者ではない。

彼が入社した1933年、マッキンゼーの主な業務は、経営不振に陥った企業支援で、銀行や債権者委員会、取締役会のための調査を行なっていたという。

当時は、経営コンサルティングという言葉さえ誰も聞いたことがなかった。マッキンゼーが再出発したときのメンバーは15人。(中略)

30年代、40年代にはそんな職業は誰も知らなかった。かなり長いこと、経営コンサルティングは何かいかがわしいものだと思われていたみたい。たいていの人は、経営コンサルタントと聞くと、ああ、効率改善の鬼か、と言う。あれはほんとうにいやだった。

破綻企業の調査を通じて、バウワーは、CEOが十分な情報を持ってさえいれば会社は倒産せずに済んだはずだと考える。そして、CEOを助ける仕事の必要性を確信するようになる。

1939年、バウワーは3人のパートナーとともにマッキンゼーを買い取る。そして経営コンサルティングという職業について、明確なビジョンを掲げた。

当時のスタッフは18人だったが、バウワーが引退した1992年には2500名のコンサルタントを擁するプロフェッショナルファームとなった。経営コンサルティングという業種は、50万人を雇用する一大産業となった。

上掲「『マッキンゼーをつくった男 マービン・バウワー』」

禁酒法時代(1920年~1933年)に成り上がった新興富裕層の中には密造酒で儲けた連中が混ざっていたので、それで印象を悪くした側面も。まさしくスコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー(The Great Gatsby,1925年)」の世界。

そして1939年といえば、奇しくも1933年にナチスを怒らせる論文を発表して英国ロンドンに移住しジョン・メイナード・ケインズの講義を直接受ける傍ら英国投資銀行に勤めていたピーター・ドラッカーがアメリカ合衆国に移住して(ナチスを怒らせた論文をベースとした)処女作「経済人の終わり(The End of Economic Man: The Origins of Totalitarianism)」を上梓した年でもあったのです。まだ今日でいうマネージメントの概念は存在してません。

あまりにも有名な本著は、ドラッカー29歳の時の処女作として、そして1933年という宥和政策の時代にファシズム全体主義を喝破した本として知られています。

その若さで既にして膨大な著作を読み、混沌とした時代に先を見据えたことは驚愕に値します。

本著を読み終えたウィンストン・チャーチルは真っ先に書評を書き激賞しました。そしてその後首相になったとき真っ先に取り組んだ仕事は、士官学校の卒業生への支給品に本著を入れたことでした。前線に立つ指揮官へ、ファシズム、レイシズム、全体主義が許されざるものだという理論的支柱にしたのです。

宥和政策の時代、ナチズムはドイツ人の国民性に起因する特殊要因とする説と、マルクス主義者にとっては資本主義最後のあがきとする説の二つが有力でした。

これに対しドラッカーは、マルクス社会主義が失敗したからこそヨーロッパの大衆を絶望的な熱狂に駆り立てた要因とします。そして背景に「恐慌と戦争という二つの魔物たち」に襲われたことがナチズム隆盛の要因としています。

さらにファシズムとは、あらゆる主義や権力を否定するだけであるとし、前向きな信条はないとします。大衆が熱狂的に全体主義を支持したのは新規な信仰箇条の性せいはなく、否定そのものであったとします。ファシズム全体主義は否定がその綱領であると。

一番印象に残ったのは、「大衆の絶望こそが鍵である」という一説です。大衆の絶望こそファシズム全体主義を理解する上での鍵で、旧秩序の崩壊と新秩序の欠落による「純なる絶望」によってファシズムが隆盛したのだとドラッカーは言います。

上掲「経済人の終わり」

ああ、思わぬ所につながりました!!  同じく1930年代に発表された「ナチスを怒らせた論文」を下敷きにしたヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner, 1892年~1985年)「遅れてきた国民: ドイツ・ナショナリズムの精神史(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes,1959年)」もそうですが、当時実際にナチスの迫害を受けたドイツ系ユダヤ人は「マルクス主義による救済が間に合わなかったからナチスが台頭した」と考えた様です。そして「合理的経営による企業の繁栄だけがナチズムを除ける」なる考え方に至った辺りが世界恐慌(1929年)後に不安定化した米国の企業破綻案件を目の当たりにして「経営陣さえしっかりしていたら免れていた倒産が多い」と確信し経営コンサルタント業を創始したマービン・バウワーと重なってくる訳です。

オーストリアの名家出身で、実際にナチスからの迫害を受けて英国への亡命を余儀なくされたピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker, 1909年-2005年)の考えに従うなら、そもそもナチスにとってはカール・シュミットの友・敵関係論はおろか、ムッソリーニのファシズム理論も、、ゾンバルトのドイツ精神救出論もニーチェの超人論も全て行き当たりばったりの借り物だったに過ぎず、それぞれの細部に踏み込む意味がありません。

むしろナチズムの本質はサム・ペキンパー監督の戦争映画「戦争のはらわた(Cross of Iron,1977年)」に分かりやすい形で現れているとも。舞台は1943年の東部戦線。そこでユンカー出身の将校(演マクシミリアン・シェル)と叩き上げの軍曹(演カート・コバーン)が対峙しますが、前者はヒトラーを「職業軍人の既得権益を守ってくれる庇護者」、後者は「職業軍人ばかりがいばりくさっている軍隊の改革者」と信じ込んでいるのです。要するに八方美人に振る舞いつつ現実の面倒臭い利害調整に取り組む気なんて最初から持ってない…いやむしろ逆に現実の面倒臭い利害調整に取り組む気なんて最初から持ってないからこそ八方美人に徹せられる…もしかしたらこれって完全に「詐欺師の振る舞い」なのでは?

この観点からすれば「独裁=指導者原理」ですらナチズムの本質ではなかった事になります。例えばディズニーランドは各ワールドがそれぞれ別の客層を楽しませつつ、互いを意識させない設計に特化しています。それでもディズニーランドとしてのアイデンティティが保たれているのは、どのワールドからも遠景にシンデレラ城が望める構造のせい。政治の世界に照応を求めるなら古代中国に「鼓腹撃壌」の概念を刻んだ黄老思想、広大な領土と多数の民族を緩やかな支配下に置いたモンゴル帝国に(網野善彦「異形の王権」によればこれを見習おうとしたとされる)後醍醐天皇の建武の新政あたりでしょうか。ところが多種多様な甘言を弄されて集められ、絶えず行き当たりばったりの展開に振り回され続ける「ナチスの民」にとって信頼出来るのはヒトラー総統のお墨付きのみ。それで結果として(特に色々と窮乏が進んだ戦時下において)ヒトラーにばかり権限が集中していっただけとされています。そう、ディズニーランドでは各ワールドが遠景としてのシンデレラ城の景観を共有するだけですが、「ナチス支配下の世界」ではロクな手入れを受けられない各ワールドの廃墟化が進めば進むほどシンデレラ城=ヒトラー総統の威光が相対的に輝きを増していく地獄絵図…

この様に「ナチズムの本質は詐欺師」と考えるとピーター・ドラッカーがその特徴を「正義の絶対的批判者の仮面を被りつつ、自らへの言及は決っして許さない」「対立を超えて問題を解決する代わり問題が解決しない責任を対立陣営に押し付け、解決しない問題についてひたすら怒り続ける」「被害者の立場に立つ事で相手の口を封じようとする」「いかなる間違いも失敗も認めず、非難も一切受け入れない」と要約した理由が良く分かります。

上掲「こんにちは、そしてさよならナチズム」

そしていよいよ1960年代に入るとマッキンゼーの成功を後追いする形で経営コンサルトが雨後の筍の如く現れてある種の黄金期が訪れる訳ですが、その背景にはこの時期以降、機関投資家の存在感が増した事があったとも。経営コンサルの「企業の競争戦略や市場分析を重視し、クライアント企業が市場での地位を強化するための助言」は彼らの判断の役にも立ったので、ここに新たな情報市場が誕生したという訳です。

機関投資家とは、生命保険会社、損害保険会社、信託銀行、年金基金、共済組合、農協、政府系金融機関など、大量の資金を使って株式や債券で運用を行う大口投資家のことを指します。

世界最大の機関投資家として知られているのは、日本の年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)です。

Google検索が試験中の生成AI「機関投資家」

そして1970年台に入ると会計監査による収益が頭打ちとなる一方で、それを補完する形でコンサルタント収益が増大。会計系経営コンサルはエンロン事件で爆発するまで利益相反の爆弾を抱え続ける展開に。

エンロン(Enron Corporation)は、かつてアメリカ合衆国テキサス州ヒューストンに存在した総合エネルギー取引とITビジネスを行っていた企業。2007年3月に Enron Creditors Recovery Corp. に改称した。

2000年度年間売上高1,110億ドル(全米第7位)、2001年の社員数21,000名という、全米でも有数の大企業であった。しかし、同年6月エンロンが参加していたインドのダボール電力(Dabhol Power Company)が閉鎖となった。そこへ巨額の不正経理・不正取引による粉飾決算が明るみに出て、2001年12月に破綻した(エンロンショック)。エネルギー業界の粉飾としては、世界恐慌で崩壊したサミュエル・インサル(トーマス・エジソンの秘書)の金融帝国と並ぶ規模である。

破綻時の負債総額は諸説あるが少なくとも310億ドル、簿外債務を含めると400億ドルを超えていたのではないかとも言われている。2002年7月のワールドコム破綻まではアメリカ史上最大の企業破綻であった。

上掲Wikipedia「エンロン」

その一方で1970年代にはボストン・コンサルティング・グループ(BCG=Boston Consulting Group)によるPPM(Product Portfolio Matrix=プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)分析などもあって、コンサル業界はますます活況を呈する展開に。

1970年代に考案されたPPM(Product Portfolio Matrix)分析は、市場成長率を縦軸に、相対的市場占有率を横軸に置いた分析方法。

上掲「誰も新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしないもの。ならば最優先課題は「新しい革袋(評価基準)の発明」なのでは? という話。」

ナチスと弾劾されながらナチズム打倒を目指したコンサル黎明期。それは後世にどんな足跡を?

こうして「労働組合結成を否定して運動家からナチスと弾劾された」管理コンサルティングと「ナチス台頭を予防する為、合理的経営による会社の繁栄を目指す」経営コンサルティングの流れがIT化の流れに飲まれて融合していく様子が浮き彫りに。まずは管理コンサルティングの構図の図示化。原則として「Man-Machine Systemの話」である事は一貫してる辺りが興味深いですね。

次いで経営コンサルティングの構図。IBMがPwCコンサルティングを買収してコンサル業界に進出するも「会計監査とコンサルティングの二足草鞋で利益相反の爆弾を抱える」アクセンチュアが急追してる現在に繋がります。

こうして全体像が俯瞰出来る様になってやっと以下の投稿で取り上げた「日経ダイアモンド・オンラインのデロイトトーマツの重箱の隅を突く様な告発」の奇妙さが腑に落ちました。

現在のアクセンチュアは「会計監査とコンサルティングの二足草鞋で利益相反の爆弾」を抱えていませんが、そうなった事情を思い出させたくないのでこの問題に一切触れられず、それで周辺問題を攻撃するしかなかったのだと推察されます。要するにその感じに違和感を覚えたという次第。

アクセンチュアには、コンサルティングと会計監査の利益相反問題は存在しません。これは、アクセンチュアが会計監査業務を行わないためです。

アクセンチュアはかつて、アーサー・アンダーセンのビジネスコンサルティング部門として設立されましたが、2000年に完全に独立しました。アーサー・アンダーセンは会計監査業務を行う監査法人でしたが、アクセンチュアが独立後は、コンサルティングに特化したプロフェッショナルサービス会社となっています。そのため、アクセンチュアが監査業務を行わないことで、監査法人とコンサルティング業務を同時に提供する際に発生しうる利益相反のリスクは存在しません。

一方、ビッグ4と呼ばれる監査法人(デロイト、PwC、KPMG、EY)などは、会計監査業務とコンサルティング業務の両方を提供しており、利益相反のリスクが生じる可能性があります。これらの監査法人は、コンサルティング部門と監査部門を厳密に分離し、利益相反を回避するための法的および規制上の制約に従っています。

アクセンチュアの独立したコンサルティング業務により、クライアントとの関係において監査とコンサルティングの利益相反のリスクが回避されています。

ChatGPTに質問「会計監査とコンサルティングの利益相反問題はアクセンチュアには存在しないのですか?」

え?アーサー・アンダーセンについて、そんなところでハルシネーションを起こすの?

同時に改めて明らかとなったのが「人工知能の学習能力の限界」。人類側に本気でネットに流される情報を統制されると逆らう術がないのです。もちろんそれって結局は(所詮は数式に過ぎない)人工知能アルゴリズムのせいなんかじゃなく「シンギュラシティって何? AGIって何? 人類の方がまだまだよっぽど怖い存在のままだよ!!」って話に過ぎない訳ですが。

【追伸】謎はますます深まった? 「神々の黄昏」に辿り着くまでの流れ。

よく見返したら「管理コンサルティング」の英訳も「経営コンサルティング」の英訳も「Management Consulting」。これはWikipediaなどや、その辺りから学習したと思われるChatGPTが共通して抱える特徴みたいですね。そもそもManagementという言葉が現代的意味を備えるのはピーター・ドラッカー「会社の概念(1946年)」以降、Consultingという言葉についてもマービン・バウワーが1939年にマッキンゼー買収以前についてはそうだったと考えるなら、当時どんな表記揺れがあったか調べ上げてもあまり意味はなさそう?

  • 「コンサルティング」と「カウンセリング」は語源が同じ。成り上がり者の経営陣が一流コンサルタントのコンサルティングを受ける事には、エリートが一流精神分析家のカウンセリングを受ける事と同様の社会的ステイタス性があったのである。

なお当然ながら、TylerismとNazismを結びつけて弾劾する様になったのは実際にはずっと後世になってから。もちろん「労使関係が本当に円滑なら労働組合の出番などない」と豪語して幾つものスト潰しに成功し、その結果多くの現場にける労働力搾取を許したフレドリック・テイラーは当時から今日まで運動家筋から一貫して叩かれてきた訳ですが、どんな存在と結びつけて非難されるかは時代によって本当に複雑怪奇な変遷を遂げてきたのです。

  • まず最初に。アーサー・ディ・リトルが当時の「科学的管理法」を巡るトラブルにも、経営コンサルタントへの悪評にも巻き込まれず安定的成長を遂げられたのはコンサルティング内容を技術研究分野に絞って、経営(Management)にも製造現場(Human Resource)にも口出ししなかったから。しかし当時の最適解が何時までもそのまま最適解であり続ける保証はなく、実際この様な制約に展開を拘束された結果、2002年に経営破綻の危機を迎える事になってしまった。

  • 現役で活躍した時代のフレドリック・テイラーに叩きつけられたのは「労働者の敵」「資本家の下僕」といった罵倒だった。しかし実はロシア革命(1917年)を発端として1922年に成立したソビエト連邦において、最高指導者たるレーニンは「科学的管理法」の内容をいたく気に入り、生産現場に導入して重工業発展の重要な推進剤の一つとして利用している。なお共産主義圏の労働組合は「経営には関せず(利益が出てなくても給料上げろ)」と宣言して、あくまで経営陣と対立する態度を貫き続ける当時の資本主義圏の労働組合と異なり、むしろ経営者と労働者を一体化させる為に全力を尽くすものと規定されていたので、科学的管理法との矛盾が生じなかったとも。

ウラジーミル・レーニンは1913年の時点で科学的管理法理論について「同じ長さの労働日のなかで以前より三倍以上の労働力を労働者から絞りとろうとする」試みとして全面否定した。しかし、翌1914年にはテイラーの理論を「プロレタリアートが社会的生産のいっさいを掌握し、労働者自身による、あらゆる社会的労働の適切な配分と合理化を目的とする委員会を定める時期を用意するものであった」と評価し、1918年にはその後の革命の成功に不可欠なものと考えるに至った。

上掲Wikipedia「科学的管理法」
  • 第一次世界大戦(1914年~1918年)後には「ファシスト」なる罵倒語が登場。これは1922年にイタリアで政権奪取に成功したムッソリーニ率いるファシスト党が地主の為に小作人動議を潰したり、資本家の為に労働者蜂起を潰す「他に就職先がなかった」第一次世界大戦帰還兵主体に構成されていたから。ただし、当時暴力革命勃発を画して小作人動議や労働者蜂起を過激化させる事ばかり考えていたイタリア共産党は、それによってイタリア国民を失望させてしまい、ファシスタ党に国民的人気を与えてしまった事を深く反省し第二次世界大戦(1931年~1945年)以降は暴力革命を放棄して議会制民主主義の枠内で戦うユーロ・コミュニズム路線に切り替える。なおアメリカで労働者蜂起を潰す汚れ役を押し付けられた代表格が(拳銃所持免許を持ち、ストに密偵を送り込んで内情を調べたり内部から揺さぶりを掛けるのに慣れた)ピンカートン探偵社で、その手口のあまりの汚さに嫌気が差してピンカートン探偵社ダシール・ハメット(Samuel Dashiell Hammett 1894年~1961年)が、原則として「資本家とその手先達(弁護士や会計士や相談役)」を吐気を催す存在としてしか描かないハードボイルド小説の創始者となった(1930年代に断筆して以降は資産を投じて米国共産主義運動を支援)。しかし当時まで盛んだった米国共産主義運動自体は独ソ不可侵条約(1939年~1941年)締結によって「以降は(少なくとも表面上は)ファシストも同志と考え、非難の対象に選んではならなくなる」矛盾に曝されて脱落者が続出し瓦解を余儀なくされる。この流れの最大の落とし子のがリチャード・ホフスタッター(Richard Hofstadter、1916年~1970年)を筆頭とする所謂「ニューヨーク知識人」で、この流れから「ソ連の一国中心主義に対抗すべく、秘密裏に暗殺されたトロッキー(Лев Давидович Троцкий, 1879年~1940年)の世界革命理念を継承した」とされるネオコン(Neoconservatism=新保守主義)が派生してくる。こうやって全体像を俯瞰すると「科学的管理法がナチス呼ばわりされていたのはどの時期?」という話になってくるが、第一次世界大戦(1914年~1918年)からも、朝鮮戦争(1950年~1953年)からも、ベトナム戦争(1964年~1975年)からも明瞭に「正義が遂行された」手応えが得られなかったアメリカが誇れるのは唯一「ナチスと大日本帝国」だけなので、次第になんでもそのせいにする風潮が高まっていったという次第。

  • なおこうした各時代の断片的証言は「1890年から1958年にかけて新しい機械が発明され生産速度が向上したアメリカでは労働時間当たりの製造業における生産高が約5倍になった」なる恐るべき現実を視野に入れるとたちまち「ある種の成長痛」に過ぎなかった事が明らかとなる。その一方で「この力こそがナチス(ついでに大日本帝国)を下す」と確信したピーター・ドラッカーや、かかる成長の過程におけるドットコム企業バブル期同然の「幼児死亡率(IMR=Infant Mortality Rate。ワイブル分布におけるバスタブ曲線における「初期故障率」)」高騰に唖然としてそうした企業の「救済」に市場性を見出したマービン・バウワーの先見性が一層輝きを増すという次第。そして、こうして資本主義的発展を楽観視する風景の中には確実に「1ダースなら怖くなる」を表した共稼ぎ夫婦の様な「時間動作研究および能率向上技師」の明るい子育ての様な情景も含まれていた訳で、まさそう考える姿勢こそがまさに今日の「データで人が救えたら」と問う今日の総合=業務(IT)コンサルティング=Sustainability Solution Suppliersイデオロギーの原風景になったとも。

  • 一方、(暴力革命を志向する)米国共産主義運動が挫折を余儀なくされたのは、皮肉にもニューディール政策の一環として1935年に「(経済復興の為に)全米労働者の団結権・団体交渉権を明確に認め、労働者の生活を安定させようとした」ワグナー法が制定され、これを受けて結成されたUAW(United Auto Workers)がミシガン州フリントのゼネラルモーターズ(GM)工場で遂行したシットダウン・ストライキ(1936年~1937年)によって団体交渉権と賃金や労働条件の改善を勝ち取ったせいでもあった。確かにそれまで自動車工場の労働者は本当に安全性も定かでない劣悪な環境で低賃金で働かされていたので、それはそれで国益に叶う大勝利だったのだが、こうして合法範囲における合理的労使闘争が労働運動の主体となると暴力革命路線はむしろ運動家内からすら煙たがられる様になっていったという次第。

当局の弾圧もあって1920年代は停滞したが、1929年の世界恐慌を期に勢力を拡大し、1930年代に最盛期を迎えた。1933年にドイツで国家社会主義ドイツ労働者党が政権に就いた後、コミンテルンの人民戦線戦術を採用してリベラル勢力と「反ファッショ戦線」を構築したが、ソ連追従政党だったため、1939年の独ソ不可侵条約締結で「反ファッショ戦線」と手を切った。

1941年の独ソ戦開始後には「反ファッショ戦線」に復帰するもアメリカ・リベラルと共産党の間には決定的亀裂ができ、二度と修復されなかった。戦時中にはアメリカ政府に戦争協力を行ったので革命路線は急速に後退。1943年には一時解散されている。

戦後にウィリアム・Z・フォスターの主導で再建されたが、冷戦激化とともに取り締まりが強化され、とりわけ赤狩りで壊滅的打撃を受けた。さらに1950年のマッカラン国内治安維持法や1954年の共産主義者取締法などにより実質的に非合法化された。

マッカラン国内治安維持法自体は冷戦終結に伴い1991年に廃止されたが、アメリカの風土もあって党勢も伸びてはいないとされる。

上掲Wikipedia「アメリカ共産党」
  • だが「車の製造方法なら労働者が熟知している。経営者は黙って賃上げの事だけ考えろ」と豪語するUAWの傲慢な態度は次第に米国自動車産業(デトロイトを中心とするミシガン州、トレドやクリーブランドを中心とするオハイオ州、インディアナ州などに割拠するフォード、GM(ゼネラル・モーターズ)、クライスラーのBig3)に暗い影を落としていく。何しろGMのコンサルタントに就任したピーター・ドラッカーによる「科学的管理法の復権」提唱も(その影響範囲がフォードにまで及んだにも関わらず)実際にはそのほとんどが筆彩にはUAWの抗議で握りつぶされたという話まであるくらい。その弊害が最初に現れたのは1970年代以降、輸入車関税障壁を乗り越えるべく(むしろ科学的管理法を忠実に学びジャスト・イン・タイム制を完成させた)トヨタや日産(元大日本帝国)やBMWやフォルクスワーゲン(元ナチス)などの企業がUAW進出を阻んできた南部諸州(アラバマ州、テキサス州、テネシー州など)やテキサス州で米国内生産を行う様になってから。さらにUAWはEV化を頓挫させるなどBig3の技術革新を阻み続けたのでとうとう2000年代には経営破綻を余儀なくされる状態まで追い込まれてしまったのである。米国企業と米国そのものの打倒を目標に戦ってきた米国共産手具者の亡霊達はさぞや溜飲を下ろした事であろう。「結局、最後に勝ったのは我々なのだ!!」

  • なお1941年のディズニーアニメーターのストライキを契機に創立され、第二次世界大戦に伴う減収減益と労使闘争に苦しめられたディズニーよりのスピンアウト組の受け皿となったアニメーション・スタジオUPA(United Productions of America)の立場から全く理解できなかったのが「アニメーション映画はキャラクターの販促手段に過ぎず、むしろキャラクター商品販売こそがマネタイズの主役」と考えたウォルト・ディズニーのディズニー・ランド建設であったという。「アニメーション映画によって得られた利益は全てアニメーターに還元すべきなのに、何たる無駄遣いを!! これだから資本家から経営圏の全てを奪い尽くさねばならないのだ。こんな愚行、後世の人間から永遠に笑い物にされ続けるに決まってる!!」

最後の場面を書き下ろしながら、ワーグナー「神々の黄昏(Götterdämmerung,1869年~1874年、1876年初演)」において、「指輪」を奪われたニーベルゲン族の長アルベリヒが掛けた呪いに突き動かされる形でハーゲンが破滅に向かって突き進んでいく場面を思い出しました。

ワーグナーの楽劇『神々の黄昏』(Götterdämmerung)は、彼の「ニーベルングの指環」四部作の最終作であり、物語の重要な要素として「指輪の呪い」があります。この呪いが、作中で登場人物たちの運命に深い影響を与えます。特に、ハーゲンは呪いに支配され、悲劇的な行動を取る一人です。

ハーゲンと指輪の呪い

ハーゲンは、ドワーフ族のアルベリヒの息子であり、彼の父から「指輪を取り戻せ」という使命を託されています。指輪は、アルベリヒがかつてラインの乙女たちから盗んだものですが、指輪には彼自身がかけた呪いが宿っており、指輪を手に入れた者は誰であれ破滅を迎える運命にあります。

ハーゲンは、父アルベリヒの呪いの影響を強く受け、冷酷かつ計算高いキャラクターとして描かれます。彼はギュンターと結託して英雄ジークフリートを殺し、指輪を手に入れる計画を立てます。この場面で、ハーゲンが指輪の呪いによっていかに操られているかが明白です。彼は、父の命令に忠実であり、指輪を手に入れるためには手段を選ばない姿勢を貫きます。

指輪の呪いによるハーゲンの行動

最も象徴的なシーンの一つは、ジークフリートを殺害する場面です。ハーゲンは、ブリュンヒルデとジークフリートの愛の結束を引き裂くために巧妙に計画を練り、ついにジークフリートを背後から槍で突き刺します。この行動は、指輪に対する強い執着心と呪いの力に完全に囚われた結果です。

物語の最後、ジークフリートが死に、指輪がブリュンヒルデに託されます。ハーゲンは指輪を手に入れようとするものの、最終的にはラインの乙女たちに指輪を奪われてしまいます。彼が川に飛び込んで指輪を取り返そうとする姿は、彼が呪いによって完全に支配され、破滅へと向かう運命にあることを象徴しています。

結果と破滅

ハーゲンは最後まで指輪の呪いに囚われ続けますが、指輪を手にすることはできません。彼の執念と欲望は無駄に終わり、物語全体を通じて、彼は指輪の力に振り回される存在として描かれます。最終的に、指輪が炎に飲み込まれ、神々と共に滅び去る中で、ハーゲンもまたその呪いの力から逃れることはできません。

このように、『神々の黄昏』におけるハーゲンの運命は、指輪の呪いによって動かされる一例であり、彼の行動は破滅へと至る不可避の道をたどります。

ChatGPTに質問「ワーグナー作「神々の黄昏」において指輪の呪いがハーゲンを振り回す様子を教えてください。」
  • ×ドワーフ⚪︎ニーベルング族。まさかの時にドワーフ。問答無用でドワーフ。そういえばニーベルング族は「愛を捨てた」アルベリヒの呪いによってただ黙々と黄金を溜め込む為に働く社畜に変えられてしまいました。

  • ×彼の父から「指輪を取り戻せ」という使命を託された。⚪︎父の怨念が憑依し、指輪への執着心が芽生えてしまう。要するに呪った側の末裔が呪いにかかる「ミイラ取りがミイラに」バグが発生してしまった。なおハーゲンはラインの乙女が定めた黄金の獲得条件「愛を捨てる」を満たす為に遂行された強姦の落とし子で、だからこそ余計に指輪奪還に執着する地獄連鎖も重なってくるのが救いのないところ。やはり「女の本質は意地悪」?

  • ×「最終的に、指輪が炎に飲み込まれ、神々と共に滅び去る中で、ハーゲンもまたその呪いの力から逃れることはできません」え?「本来の持ち主であるラインの乙女の手元に戻りました」で話しとして正しく落ちてるのに、何この余分なハルシネーション?校正的には「トルツメ」対応。

どうやらJ.R.R.トールキン「ロード・オブ・ザ・リング(原作1955年)」の影響が著しい模様。ヴアルハル城が焼け落ちる場面に指輪を奪い返したゴラムが「いとしーしとー!!」と叫びながら至福の表情で溶岩の海へと落ちていく場面が誘出されてしまった様です。まぁ映画版だと「いとしーしとー!!」なんて叫んでませんでしたが…

要するに、それまで誰もが無邪気に「(資本家がトラストや科学的管理法による搾取といった不当な手段で積み上げる)富」こそ「呪われた指輪」と認識してきたのに,実際には「運動家による世界救済の夢」の方が「呪われた指輪」として機能してしまったという話。その一方で「ニーベルングの指輪」におけるヴアルハル城(国際的資本主義)はその罪によって焼き滅ぼされるどころかますます栄え、ディズニーランドにおけるシンデレラ城の様に「誰もが見上げる高み」としてこの世に君臨する様になったのでした。実はこちらもこちらでしっかり「全てを一つに統べる指輪」だったのでは?

そんな感じで以下続報…

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