【産業進化論の動作原理】「ジュリアナ東京」とは何だったのか? 5 Yasunori Matsuki 2024年12月31日 05:49 四条タト原作「パリピ孔明(原作2019年~、TVアニメ化2022年)」のこの曲の再生数が東アジアで爆発的に伸びたのは、せっかく日本に観光に行けるほど豊かになってももはや体験出来ない「マハラジャ」「ゴールド」「ジュリアナ東京」の様な全盛期ディスコのサウンドへの憧憬感があったからとされてます。 ディスコ - Wikipedia ja.wikipedia.org 1980年代中期からハイエナジー(ユーロビート)ブームが起こってディスコで人気となり、第3次ディスコブームが発生する。当時のディスコ音楽はよりポップス色を強める一方で、デッド・オア・アライヴ、リック・アストリー、カイリー・ミノーグ、バナナラマに代表されるストック・エイトキン・ウォーターマン(PWLサウンド)によるプロデュース作品や、マイケル・フォーチュナティなどのイタリアからのユーロビートに代表されるような、コンピュータを用いた打ち込み系の音楽が多く使用され始めるようになる。日本の歌謡曲に似たメロディーに、無機質で単調なリズムを強調したアップテンポな曲が日本人にマッチして流行し、ユーロビート・ブームとなった。邦楽では荻野目洋子、Winkなどがユーロビートの曲をカバーしヒットした。ユーロビートブームは全国的に波及し、「大阪マハラジャ」(1982年開業)「福岡マリアクラブ」「金沢サムライ」など、都内では、比較的大規模な店や豪華な内装を売り物にしたディスコも展開され、絨毯バーやカラオケパブを展開していたNOVA21グループによる麻布十番「マハラジャ」(1984年開業)青山「キング&クイーン」、パチンコ店展開の日拓系列による六本木「エリア」「シパンゴ」、会員制エスカイヤクラブの大和実業グループによる日比谷「ラジオシティ」などが人気店になった。しかし1988年(昭和63年)、鳴り物入りで登場したばかりの六本木「トゥーリア」だったが、電動で上下する巨大照明装置(バリライト)が吹き抜けの天井から落下し、死者3名、負傷者14名を出すという六本木ディスコ照明落下事故が発生し閉店に追い込まれた。この第1次ユーロブームに乗って濫立された六本木界隈のディスコは1989年(平成元年)から減少に転じる。次にディスコが息を吹き返すのは「ジュリアナ東京」のブームが始まってからである。バブル期においては、東京では、それまで倉庫街や流通関連施設が立地しているに過ぎなかった湾岸地区が「ウォーターフロント」と呼ばれ、六本木周辺の地価高騰から新たな再開発地区として、またプレイスポットとして注目を集めるようになっていた。ウォーターフロント地区では都心部に比べて大規模な施設の建設が可能だったこともあり、1988年(昭和63年)に開業した総合施設「MZA有明」(江東区有明)に始まり、「オーバー2218」「サイカ」「ゴールド(1989年)」「横浜ベイサイドクラブ(1987年)」などのナイトクラブやディスコが次々誕生した。当時のウォーターフロント地区には、レストランやバーなども多く立地し、「ウォーターフロント・ブーム」とも呼ばれる盛り上がりをみせた。これら飲食店の多くは、一見普通の倉庫にしか見えない外見を持ちながら、中に入ると非現実世界を思わせるお洒落な空間であるというミスマッチを特徴としていた。また、自家用車やタクシーでしか訪れることの出来ない不便な立地がかえってステータスに繋がっていた。当時のディスコでかかる音楽の主流はユーロビートだったが、ハウスやニュージャックスウィングやR&Bなど、店のコンセプトに合わせてジャンルが分かれ始めたのがこの頃であった。1980年代後半の日本のディスコでは、ファッションを基準にしたドレスコードを設定し、店舗が客を選別するものがある。標準的なドレスコードは、ジャケットとネクタイの着用である。しかし芸能人であれば、Tシャツにジーンズ姿でも入店できる例もあった[15]。ドレスコードを導入して差別化を図った先駆けは「マハラジャ」であったとされる。「マハラジャ」を始めとする1980年代中期の高級ディスコでは、店舗が客を選別するドレスコードを採り入れた。ドレスコードをクリアすることがステイタスであるという感覚を醸成することによって客同士の競争心を煽り、またそれを仕切る「黒服」(ディスコの従業員のうち、マネージャーなどの役職ある男性従業員のこと。黒いスーツを着ていたことからそう呼ばれる)を権威化させた。これは高級ディスコの標準的スタイルとなった。またドレスコードは、店側が顧客を審査するためにも使われる。年齢確認のための身分証明書の提示がない者、泥酔している者、暴力行為を起こしそうな者、薬物使用が疑われる者、態度が高圧的な者などは、服装に関係なくドレスコードを理由に入店を拒否される場合がある。これは、ディスコが風俗店であることに加え、違法な薬物の取引や使用によく使われるとして警察が厳しく取り締まっており、頻繁に問題を起こした店舗は閉店になるためである。1990年代に登場するクラブの時代になると、このようなドレスコードは緩和され、スーツにシャツであれば、ノーネクタイであっても、大抵の店舗のドレスコードはクリアできるようになった。禁止されている例として、男性のビーチサンダル・タンクトップ・カーゴパンツ、男女問わずジャージ姿などがある。バブル時代の1991年(平成3年)5月、巨大ディスコ「ジュリアナ東京」が、東京・芝浦に開業した。アイルランドDJ・ジョン・ロビンソンが本格的なMCを行い、ユーロビートに代わって人気となったテクノサウンド(レイヴテクノ)が流された。同店が開業して程なく、ボディコンファッションの女性たちが羽根付き扇子を振り回し、高さ約130cmの巨大お立ち台で踊るといった現象が見られるようになり、女性たちが振り回していた扇子は「ジュリ扇(じゅりせん)」と呼ばれた。「ボディコン」とは、ボディラインを強調したボディ・コンシャス(body-conscious)の略称。主にノースリーブの丈の短いワンピースで体にフィットするものを指す。女性客の中には水着や下着、手作りのボディコンを着用してセクシーさを競う者も現れた。「ジュリアナ東京」では水着やTバック下着など過度の露出は禁止していたが、Tバック着用でお立ち台で狂喜乱舞する女性客らの姿は注目を集め、マスメディアでも盛んに報じられたため、他店での報道が「ジュリアナ東京」と誤認されることもあった[16]。人気が衰えていた他のディスコもこのジュリアナブームに便乗し、「マハラジャ祇園」(京都市)では、「スーパーお立ち台」が設置されたほか、東京の赤坂「ロンドクラブ」や、六本木「エリア」では「Tバックナイト」「水着ナイト」などと称して露出度の高い服装で来店する女性客を優待する企画を打ち出した。こうしたブームの中で荒木久美子や飯島愛といった女性タレントも登場した。当時使われていた音楽は「ジュリテク」や「ハイパーテクノ」と呼ばれたもので、ハードコアテクノをユーロビート風にアレンジしたサウンドであった。初めはT99「Anasthasia」、LAスタイル「James Brown is Dead」、2アンリミテッド「Twilight Zone」などに代表されるインスト的な楽曲が中心であったが、後にはエイベックスによる「Explosion」「Can't Undo This!!」などの和製ジュリテクが生まれ、さらに、DJ・ジョン・ロビンソンは自ら「Tokyo Go!」を歌った。エイベックスから発売されたCD『Juliana's Tokyo』シリーズは驚異的なセールスを記録し、それらの楽曲を収めたコンピレーション・アルバム『スーパー・クラブ・グルーヴィン』シリーズも改称を重ねて長期に渡って発売された。このブームは東京から地方都市にも飛び火し、女性客による肌の露出競争が過激化した名古屋や京都などでは、ついにニップレスや下着のみだけで踊る女性まで現れた。こうした中で「ジュリアナ東京」でもそれまでダンスや雰囲気を楽しんでいた常連客らの足が遠のく一方で、他店との混同も含めた世論の批判や警察の指導などを受けて、名物だったお立ち台が撤去された。代わってクリスタルサイドステージが設置されたものの、以前のような集客と盛り上がりは得られず、1994年(平成6年)にはついに閉店となった。閉店日は感謝と称し入場料が無料となったこともあって全国から客が詰めかけた。数千人入る巨大ディスコにも入りきらない訪問客らによって田町駅から行列ができ、アンコールの声は閉店翌日の昼過ぎまで続いたという。レイヴテクノが大流行していたことにより冬の時代を迎えていたユーロビートが、ジュリアナ東京の閉店に伴い復活した。1994年(平成6年)-1998年(平成10年)までユーロブームが神楽坂「ツインスター」や上野「ARX(アルクス)」そして六本木「エリア」中心に起こった。この頃のユーロビートを湾岸系ユーロと呼ぶこともある。これはNOVA21グループの舞浜「エデンロック」と新浦安「ロイヤルトン」がジュリアナ東京ブームの最中でも独自にユーロビートを押し続け、両店の店名に「TOKYO BAY(湾岸)」を冠していたことから湾岸系ユーロと呼ばれるようになった。ただしこの2店舗の集客状況は千葉県であったためかなりシビアであった。上掲Wikipedia「ディスコ」そういえばこういう話も。B’z95年の「LOVE PHANTOM」についた韓国人ファンらしきコメント、名文すぎるhttps://t.co/01Txwt3jX1 pic.twitter.com/l58nSDScLq— 吸い雲 (@maruomarukido) January 10, 2025 一方、当時についての日本人側の記憶は随分と曖昧で多義的な内容に…高齢者ヘイトのポストを最近見ることが多くて、こりゃいかんと思って、敬老精神を養おうと思いたち、今の高齢者の若い頃を知るために『課長島耕作』を読んでみたんですよ。そしたらどうですか? 部下の女の話を聞くためにあんこう鍋の店に行ったり、↓— こじこじ☆隈研吾減税会 (@bEMZoW71ORuMkzc) December 27, 2024 家では高級スピーカーで優雅に音楽を聴いて、ですよ!何が「戦後日本を苦労して立て直した世代」ですか!?日本の一番豊かな時代の恩恵を享受しまくった世代じゃないですか!何が敬老じゃ、ボケェ!!と、なりました笑— こじこじ☆隈研吾減税会 (@bEMZoW71ORuMkzc) December 27, 2024 島耕作は真面目にSEXしまくっただけですからね🤭— あか (@7tT3inI4z9KA8z5) December 28, 2024 第一話が部下との不倫ですからね笑— こじこじ☆隈研吾減税会 (@bEMZoW71ORuMkzc) December 28, 2024 そうなんです、今の高齢者の若い頃は「コレ」ですなんで日本の一番いい時代を生きた老人たちを若者が馬鹿高い社保料と税金で身銭切って救わないといけないんだよ https://t.co/OKlVINgTVH pic.twitter.com/bC6qopu1Bc— すぽこんくん (@Bot_of_Bots) December 28, 2024 これはいっても前期高齢者ぐらいだろ!という意見を見かけたので、今の後期高齢者が若い頃にやっていたことを貼っときますねゲバ某振り回すわ踊り狂うわで、今の高齢者は「戦中や戦後苦労した人」なんて皆無ということがわかりますね pic.twitter.com/ZCok0AXjlf— すぽこんくん (@Bot_of_Bots) December 28, 2024 それもそのはずで、バブルが始まった1986年時点で今の後期高齢者75歳は36歳です。お金も体力もある。そしてディスコで遊びまくり。自分の老後を気にせず遊び呆けて、自分の金がなくなったら現役世代の金を使って遊ぼうとする。 pic.twitter.com/BVE1LYxNEU— Murasaki📚論文解説お兄さん (@MurasakiRonbun) December 28, 2024 ジュリアナで踊っていた人の多くがまだ現役で働いていて年金貰ってないし、医療費も3割負担してる。— Jin Matsuura (@matsuura_jin) December 29, 2024 「コレ」が地方各地にあったとでも思ってるのだろうか… https://t.co/rJLAwoPZzB— 貨幣論と財政論のカヘイさん (@monetaraisan) December 28, 2024 よく勘違いされることだがジュリアナ東京(写真)がオープンしたのは1991(平成3)年でバブル崩壊(1990年)より後である(´・ω・`) pic.twitter.com/mzfJQcFrN2— とーちゃん(さん付け不要) (@knightma310) December 29, 2024 そして…80年代の好景気の頃にディスコが大流行りしていたのは間違いないものの、その象徴として後世に名の残る「ジュリアナ東京」は意外にも最後発の1991年誕生で、ここから日本はお先真っ暗…な1994年に幕を閉じるという、「最後の輝き」感はんぱない歴史を持っている、らしい…— 不見湍 ver.002 (@futsumi_tan) December 29, 2024 営業最終日には1万人くらい並んだ…らしいけど、それがどんぴしゃちょうど30年前の出来ごとだったので、たしかにそのとき20歳だった人は今年ちょうど50歳、ちなみにいわゆる氷河期世代のレンジは今年54歳〜44歳くらいだそうで、そもそも「就職氷河期」がバブル崩壊の影響だと思い起こすと…— 不見湍 ver.002 (@futsumi_tan) December 29, 2024 なのでこう、僕らゆとり以降の世代から眺めると、ロスジェネ氷河期世代の「先輩たち」には、なんとなく、「ギリまだ日本が元気だったらしい時代(この目で見たことはない)」の残り香を微妙に感じる瞬間が、結構あるような気はする…— 不見湍 ver.002 (@futsumi_tan) December 29, 2024 そんな感じで以下続報… ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #ディスコ #ユーロビート #マハラジャ #ジュリアナ #産業進化論 5