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【第三世代フェミニストの弾薬庫】線形代数とフェミニズム①第三世代フェミニズム運動の前身としての1990年代サイバー・フェミニズム運動。

以下では「式が多過ぎる連立方程式は解けない」という問題から「最小二乗法による近似値の計算」なる技法が発明され、そうした数値最適化手段が統合される形で現在の人工知能技術が現れる様子を俯瞰しました。

そもそも「連立方程式が解ける」とはどういう事でしょうか?線形代数的にいうとそれは「完全な形で行列の対角化(Diagonalization)に成功する事」を意味しています。

$$
\begin{cases}

5x-4y+6z=8\\
7x-6y+10z=14\\
4x+9y+7z=74

\end{cases}
=\begin{bmatrix}
5 & -4 & 6& 8\\
7 & -6 & 10& 14\\
4 & 9 & 7& 74\
\end{bmatrix}
=\begin{bmatrix}
1 & 0 & 0& 2\\
0 & 1 & 0& 5\\
0 & 0 & 1& 3\
\end{bmatrix}
$$

対象となる行列は正方行列(Square Matrix=行数と列数が同じ行列)でなければならず、その形を係数行列(Coefficient Matrix)と呼び、さらにその右に合計行を追加した形を拡大係数行列(Augmented Coefficient Matrix)と呼びます。わかりやすい例を挙げるなら「レシートごとの合計額から各商品の単価を復元する作業」辺り。同じ商品が別の単価で売っている違う店のレシートが混ざっていると「その商品の大体の価格帯」しか分からなくなり、それを推定する数値最適化技法の極限に現在の人工知能アルゴリズムが現れてくる訳です。具体的計算方法は…コンピューターに投げると即答してくれるのでとりあえず割愛しましょう。

この数理について往年の正統派フェミニズムは「男女は互いに精神的に独立すべきである(対角化すべきである)」なる定式化を行いました。

ここでいう「精神的に独立する」は「自らが自律的に振る舞う為には、誰かの依存を必要とする」といった共依存関係の一切の解消を意味するはずでした。

  • ネットに転がってた「対角化が必要そうな実例」。

  • まさしく「フランダースの犬」原作版において「厨二病患者」ネロを取り返しのつかないところまで甘やかし続けたアロアちゃんの所業…

なお「フランダースの犬」原作を読むとまた別の「ネロを殺した真犯人」の姿が浮かび上がってきます。その正体は大した努力もせず「自分は天才だ」と自惚れ、間違った判断ばかり繰り返す原作版ネロを諌めるどころか、その姿にすっかり心酔して取り返しがつかなくなるまで甘やかし続けたアロアちゃん。本当に彼が最初だったのでしょうか?これで最後という事があり得ましょうか?パパなら何か知ってた筈ですが、結局作中でヒントとなる様な時発言がなされる事はなかったのです。あるいは彼女こそが「夢見る少女」としての作者の分身だったのかも。

上卿「「表現規制主義者」の観点から振り返る欧州史①「伝統主義」は本当に輝かしい勝利を飾り続けてきたのか?」
  • こうしたジレンマについて1980年代にはまた別の表現が存在した。そうピーターパン症候群(Peter Pan Syndrome)男性に共依存してしまう女性の心を蝕むウェンディのジレンマ(Wendy Dilemma)と、かかる苦境からの(対角化による)脱却を勧めるスローガン「ティンカー・ベルになろう!!」。

  • そう、まずは全ての拘束から自立した「一人」にならなければ、同じように全ての拘束から自立した「一人」と「二人きり」で出会う事は出来ないのである!!  そう主張した「ティモシー・リアリー博士の精神的自立論」が登場したのもまた1980年代だったりする。

「Turn on」というスローガンで主張したいのは(「RAVEせよ(自分に嘘をついてでも盛り上げよ)」という話ではなく)「(自らを包囲する外界に対するさならるJust Fitな適応を意識して)自らの神経を研ぎ澄まし、生来の素質を磨け」という事である。あらゆる状況に自らを曝せ。そして自分の意識がどう動くか細部まで徹底して観察し抜け。何が自分をそうさせるのか掌握せよ。ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない。

「Tune in」というスローガンで主張したいのは(「内面世界(Inner Space)の完成を目指せ」という話ではなく)「新たに掴んだ自らの内面性を表現(Expression)せよ」という事である。自己感情を外在化し、具体化し、それでもなお自らを包囲し拘束する現実と「調和」せよ。

「Drop Out」というスローガンで主張したいのは「(本当の自分自身であり続けるために)現実社会から離脱せよ」という話ではなく「自立せよ」という事である。再発見された自らの個性に従った動性、選択、変化に専心せよ。

残念ながら、こうした私の自己発達に関する言及は「ドラッグでラリって建設的なすべての行動から遠ざかる」というように誤解されている。

上卿「「Velvet Underground的方法論」と「Timothy Leary的方法論」の対比」

しかしながら実際の女性は概ね「権利の拡大」方向にしか興味がわかず「女性である事の特権」まで手放そうとは考えなかったので、事態はそう簡単には運ばなかったのです。

1990年代サイバー・フェミニズム運動の総括。

現存するリベラル・フェミニズムやラディカル・フェミニズムは「男性の精神的自律に都合がいい女性の振る舞い」ばかり抽出して可視化し、その撲滅を叫びますがこんな(内罰的態度の反動としての)とんだ他罰的態度は下策中の下策。

「夫が稼ぎ、妻が専業主婦として家事と育児を担当する家庭」と「夫も妻も稼ぎ、家事や育児を共同分担する家庭」についてそれぞれの判断を尊重する(ラディカル・フェミニストもリベラル・フェミニストも進歩主義的イデオロギーから前者を否定)。

LGBTQA当事者が自由に振る舞える様に「ミサンドリー(misandry=男性嫌悪)やミソジニー(Misogyny=女性嫌悪)に憑かれた「自称」同性愛者」や「あらゆる性表現を憎悪して地上から駆逐しようとする「自称」無性愛者(Asexial)」を追放(この層がリベラル・フェミニストに合流して「自分達こそLGBTQA当事者の代表」と主張して認められた事でリベラル・フェミニストと第三世代フェミニストの対立が加速)。

例えば「Pink Tax反対運動」について、様々な理由からそれに乗り気でない女性を強引に動員しようとはせず、その一方で「剃刀のデザインが必ずしも男性的である必要はない」なる考え方に同意する男性層も巻き込んだ(全てを「男女間の闘争」と捉え「全女性の動員」に執着するラディカル・フェミニストの逆鱗に触れた)。

上卿「「表現規制主義者」の観点から振り返る欧州史③「伝統主義」が「国家主義」を経て「資本主義」へ」

最終的にこうした「第三世代フェミニズム的判断」に辿り着く前身として、実際に1990年代におけるサイバー・フェミニズム運動に従事した女性達はまず「男性そのもの」を視野外に放逐して「(技術革新の恩恵を受けて)どれだけ自分の行動範囲が広がったか」確かめようとしたのでした。

サイバー・フェミニズムへの道を示した代表的なものに、カリフォルニア大学サンタ・クルーズ校の教授ダナ・ハラウェイが1983年に発表したエッセイ『サイボーグ宣言』がある。

『サイボーグ宣言』は「男性/女性」を含む様々な二項対立を乗り越えること、そして二項対立によって生み出される抑圧やジェンダー規範のない世界を求めている。『サイボーグ宣言』に登場する“サイボーグ”は、部分的に人間で、部分的に機械であり、二項対立を超えた存在だ。機械と人間の要素を併せ持った“サイボーグ”を用いて、ハラウェイは人種的および家父長制的な偏見に挑戦したのである。

アフリカ系アメリカ人のSF作家オクティヴィア・エステル・バトラーもまたサイバー・フェミニズムに強い印象を残した作家の1人である。彼女のXenogenesis三部作(1987〜89年)は、遺伝子取引を行うエイリアンによって支配された黙示録的な未来が舞台である。バトラーの本には、人種や生物学の保守的な概念を打ち破り、男性でも女性でもない第3の性であり、異種間交配を行う異星人が登場する。それらは、当時の社会に蔓延していたジェンダー規範を打ち破るものだった。

1990年代のサイバー・フェミニストに、The VNS Matrixが挙げられる。The VNS Matrixは、1991年にオーストラリアのアデレードで設立された女性4人組のアーティスト集団である。同団体の作品は、女性とテクノロジーとの間にある性的で社会的に挑発的な関係を出発点とし、拡大するサイバー空間における支配と統制の言説に対して疑問を投げかけるものだった。

The VNS Matrixは『サイボーグ宣言』を発表したハラウェイに敬意を示し、21世紀に向けた独自のサイバーフェミニスト宣言を書いた。それは長さ18フィート(約5.4メートル)の看板として展示され、オーストラリア中のさまざまなギャラリーで展示された。

メンバーの1人であるバージニア・バラットはデジタルメディア「VICE」のインタビューにて、「私たちはテクノカウボーイからおもちゃを乗っ取り、フェミニストの視点でサイバーカルチャーを再構築するという使命を帯びて、サイバー沼から出てきた」と話している。

また、オーストラリアのアーティスト、リンダ・ディメントはアドベンチャーパズルゲームの形式をとったCD-ROM「CYBERFLESH GIRLMONSTER(サイバーフレッシュ ガールモンスター)」を発表した。これには、約30人の女性からスキャンした身体の一部などの情報に基づいて作成されたモンスターが登場。怪物的な女性性を表現したというディメントは、この作品をブラックコメディのようなものと呼ぶ。

ディメントは、自分の作品の多くは男性が抱く恐怖を描いていると話す。彼女の認識では、男性は女性のセクシュアリティを恐れ、権力や知性、殺意や情熱など何らかの激しい感情を持った女性を非常に恐れていると考えている。

「CYBERFLESH GIRLMONSTER」は当初、主に女性の肉体をサイバースペースに投入させることだけを目的としていた。しかし、不快とされる女性的なものを美しく洗練されたテクノロジーに投入することで、「テクノロジーを汚染する」というディメントのアイデアが「Cyberflesh Girlmonster」を生み出した。モンスターは女性の体のあらゆる部位で作られているが、女性性は感じられず、奇妙で肉々しい形が不気味に映る。当時のテクノロジー分野における男性と女性の位置付けやジェンダー規範に疑問を投げかける作品といえる。

また、イギリスの理論家セイディ・プラントは、男性が優先され、歴史的にその役割が無視されてきたテクノロジー分野における女性の遺産(レガシー)を取り戻すプロジェクトを立ち上げた。サイバー・フェミニストはアーティストだけではないことが分かる事例である。

上卿「サイバー・フェミニズムとは?」

その一方で「女性の精神的自律に都合がいい男性像」が洗練されたのもこの時代の特徴。もちろん男性は男性で勝手に長年かけて「男性の精神的自律に都合がいい女性像」を構築してきた訳ですが、それと付き合わせて最良解を探る為にも、女性側におけるそれがどういう形をとるかイメージを固める必要があったという…

当時の日本にはもう一つの究極解が存在しましたね。「タンスにゴンCM(1986年)」で有名になったキャッチコピー「亭主元気で留守がいい」…

ちなみに「第三世代フェミニストは日本の漫画アニメGame界隈から大きな影響を受けた」とされるのは、それだけ「(まさに女性作家や男性のフェミニスト作家が中心となって洗練してきた)女性にとって有用な武器」の宝庫だったからなんですね。

  • 江口寿史「ストップ!! ひばりくん!(1981年~1983年)」のひばり君や高橋留美子「らんま1/2(1987年~1996年)」の早乙女乱馬は男なのに女性姿の容赦なく「女性特権」を使いこなす→実は女性が自ら「女性特権」を手放す必要はないのでは?

  • 河原礫「ソードアートオンライン(Sword Art Online、2001年~)」のアスナさんや米澤穂信「古典部シリーズ(2001年~)」の千反田江留さんはあえて言葉にせずとも目配せだけで男を動かしている→むしろ女性としては獲得を目指すべき方向性なのでは?

「大事なのは相手が自分から動いてくれる様に仕向ける事だ。その為には相手に精神的満足感を与えなければならない。色々あるんだが、お前にも使えそうな手は期待だろ。相手に自分は期待されてると思わせるんだ。それが出来れば後は実に簡単に尽くしてくれる。ただし問題はあまり大きく見せない事だ。自分には些細な事だが相手にはそこそこ大事な事だくらいがいい。それともう一つ。出来れば人目につかないところで異性に頼むんだ。」

古典部シリーズ「クドリャフカの順番」作中で入須冬実先輩が千反田江留に伝授する「人を動かす手口」

こうして恐ろしい事に第三世代フェミニズムは、あえて「対角化=非対角成分の消し込み」に逆らう様な「平等主義(Equalism)の皮を被った女権制(Female Power System)樹立の道」の模索を始めたのでした。

  • 「(女性が自らの精神的自由を確保する為にこっそり主観的樹立を目指す)女権制(Female Power System)」は「母親の娘への支配力を意図的に放棄する」という点で母権制(Matriarchy)と一線を画す。そしてまさにこの側面こそが「全ての女性を代表する家母長」としての君臨を目指すリベラル・フェミニスト運動家やラディカル・フェミニスト運動家の逆鱗に触れ、第三世代フェミニズムは「フェミニズム界からの追放」を宣言されたのだった。何たる自殺行為…

  • 女権制(Female Power System)はまた同様に平等主義(Equalism)の名の下に「(男性が自らの精神的自由を確保する為にこっそり主観的樹立を目指す)男権制(Male Power System)」を黙認する。それなりに利用価値があるからで、実際利用する事しか考えないがそれは「男権制側の視点における女権制」とて同じ事。お互いが分かりやすく自らの準安定性維持に窮々となっている所を(表面的には)見せつけ合う事によって成立する均衡もこの世界には存在するという訳である。

ここで改めて顕現してきた「問題を対角化可能な範囲に矮小化しない」という決断は最終的に全てが「(人工知能的アルゴリズム援用によって有利に運べる)出現頻度と条件付同時出現率分布によって構成される分布意味論的座標系(Distributional Semantic Coordinate System)の読み合い」に集約されていくという事。

大分、全体像が整理出来てきました。そんな感じで以下続報…


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