「#未来のためにできること」に応募してみました(12)「戦力外通知される恐怖」が、ついそこまで?
以下の投稿についてのプロダクション・ノート的まとめ。
出発点としての福沢諭吉「脱亜論(1885年)」
実は以下の投稿もこの投稿と同じく出発点は福沢諭吉「脱亜論(1885年)」、
それも割と読み飛ばされがちな第一段落。
歴史のこの時点ではインターネットは存在してないので、産業革命の産物たる「全世界を結ぶ機関車と汽船の交通網(およびそれに沿って設置された電信と海底ケーブル)」の話です。それにつけても「文明とは全く、麻疹の流行のようなものだ。目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするにしても、果してその手段はあるだろうか?筆者はその手段は断じてないことを保証する。有害一辺倒の流行病も、その勢いにはなお抵抗できない。いわんや利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらである。これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませることが知識人の課題である。」なる表現は苛烈。しかしながら、かかる決然たる覚悟がなかったら日本という国は為す術もなく欧米列強の侵攻に屈し、植民地化されていたかもしれないのです。
早くから予想されてきた「Big Data活用術の人間への依存率が低下していく時代」の到来
そもそも深層学習が巨大な意味分布論的確率空環を構成するのに「餌」として必要とするのはインターネット上に積み上げられた大量のデータそのもの。いわば珊瑚礁の様なもので、それを積み上げてきた珊瑚虫たる我々と直接繋がっている訳ではありません。
人間とその歴史的営みが積み上げてきた分布意味論的確率空間の関係を珊瑚虫と珊瑚礁の関係に例えたのは以下の投稿が最初。
そこから新しい情報量が得られなくなったら「(欲しい内容が指定した通り得られる)養殖」を考える様になるのは、ある意味自明といっていいでしょう。
SNSの場合は、そもそも黎明期から「利用者がインターネット上に置いてさまざまなアカウントを使い分けるので、現実の消費者像に結びつかない事」が問題とされてきました。
「存在しないなら自分で作っちゃえ」なる発想に至るのは時間の問題だったといえるでしょう。
そう我々ネット上の住人は、インターネット利用技術の最先端の現場から「戦力外通知」されつつあるのです。
対抗策としての「情報量回復手段」
そこで思いついたのが以下という次第。
まぁ私のこのマガジンにおける投稿は、その全てが具体的実例であったと言っても過言ではありません。人工知能的技法についての知識を増やして利用出来るものは利用する一方、なまじの深層学習では到達出来ない方向に自分の知識を増やすのです。
そんな基本方針が固まった時点で以下続報…