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彌生の人生…③


彌生です…


今回は私と夫との出会いについて書いて行きたいと思います…


私は何回も自分は「成金お嬢」と書いていますが「お嬢」だから「清純」だった訳ではありません…


先ず、バイトした事すら無いのにいきなり、当時のアパレルの頂点にいる会社に入社したんです、モテない訳がありません、クラブやディスコに行けばその派手なファッションですから、男たちは寄って来ますし、私はまだバージンだったのですが、それが嫌で嫌で、会社の人と飲みに行っても、その手の話しはサッパリわからないので「ちょっとイケメンがいたらその男でいいや」と思っていました…


まぁ、ある日、メチャクチャ、タイプの男がいて、ショーケンにちょっと似ていて、地方のバイヤーで展示会で偶然出逢い一晩寝たのが始まりです、私は「続くのかな?」と思ったのですが、なんせ彼は地方の人、彼は社交辞令か本気か知りませんが「俺の所に来い」とは言ってくれましたが、私は東京を離れる気は全く無かったので「ありがとう」で終わりでしたね…


その後はもう堰を切ったように遊びました…


ある日、友人が「彌生に紹介したい人がいるの💓」と言うから付いていったら、物凄いイケメンで小顔で手脚が長くて背も180センチもあり「ヘェ〜〜カッコ良いね、友達も
良い人みつけたじゃん」と思ったんですが、その男、ナント!!!!私が働いている店に来たんですよ!!!!ビックリしていたら「今夜ディスコに行こう」らと言われて、六本木のディスコに行きました…


時々あったんですよね、違う友人ですが、やはり男を紹介されて挨拶しただけなのに、私の所に来る男が…これは、
「モテました自慢」では無くて本当にそんな事があったという事実を書いています…


まぁ、そのイケメンとは暫く付き合いましたが、私はちっともときめかず自分でも「何故なんだろう」と思っていました「私は何か性格に欠陥があるのか?」妙に不安でしたね、男に溺れている母を観ていてそんな人間になったのだろか?とかいろいろ考えていた、ある夜…


彌生!!!!申し訳ない!!!!🙇‍♂️
男が突然の土下座!!!!😳


「……どうしたの?……」


実は広島に婚約者がいるんだ!!!!結婚式の日ももう決まっている!!!!彌生と別れたく無い!!!!



彼女はバージンだったんだ!!!責任取らないといけないんだ!!!だけど凄いブスで好きになれない!!!!



「……😅……」「私はバージンじゃなかったら結婚出来ないという訳か、なるほど…」しかし、ちっとも悲しくもなんと思わない私…


「そんな事を言ったら可哀想じゃない?結婚してあげなよ、可哀想じゃないの?」と私が言うと私を抱きしめて「嫌だ!!!」


この男、アホだわ…🤷‍♀️


だってかわいそうじゃない?結婚式の日取りまで決まっているのに遠く離れた東京で婚約者に「ブス」とか言われて
男は私の気を引きたいのだろうが、悪いけど私は男に縋り付くオンナじゃないのね、大したショック🤯も無いし


ヘェ〜〜〜〜〜くらいしか感想が無い、自分でもビックリしていた…


吉田拓郎の「外は白い雪の夜」みたいに「♪女はいつもふた通りさ、男を縛る強い女と 男に縋る弱虫と 君は両方だったね〜♪」みたいな…


私はどっちでも無い!!!!!


そうそうに男を追い出して、私は「私っておかしいのかなぁ〜〜」と怖くなった、しかし男はしつこく電話したり店に来たりしたが、私は無視した、あの男は果たして今は幸せなのか?孫でもいるのか?それも数年に一回くらいしか思い出せない、名前すら忘れた…


その後も年下、年上のデザイナーとか付き合ったが、私がいつも思ったのは「この男、新聞読んでるの?」でしたね
彼等は確かにイケメンでセンス抜群だが、会話はお洒落についてや「今度あの店が面白いから行こう」とかそればっかり…


とにかく会話がつまらなかった…



そんなある日、私は原宿である男に出逢った…





こんなイケメンではなかったが笑

 

男は商社マンでアフリカのリビア🇱🇾から帰国したばかりで声をかけられた時に不思議とときめいた…💓


彼はアフリカやヨーロッパでバカンスに行った国の話しや世界🌍は今良くない動きになっている、いつ中東で何があってもおかしくない、と静かに語った…


物凄く新鮮だった、お洒落の話しとか新しい店の話しとか飽き飽きしていたからかなりときめいた💓


私には彼の話す事全てが新鮮で、かなり彼に惹かれて行った、彼も同じだったが、私の方が前のめりだった…自分から「また会いたい」と思った男も初めてだった…


男と初めて寝た時も朝になり隣に男が眠っていて、その寝顔をじっと見つめている自分に驚いた…


これが恋というものなのか…私は初めての「感情」に
驚いていた…自分にはこんな感情は無いと思っていたから…


とにかく母の父への「嫉妬」丸出しの感情、大喧嘩の数々を観ていて私は「嫉妬」くらい醜い感情は無いと思っていた、だから私は反面教師で「あぁはなりたくない」という気持ちに支配されて、婚約者がいる男にも一回も「嫉妬」した事が無かったし、男を「好きになる」のが怖かったんだろうと思う…


だから、凄く「甘える」のが下手だ…男は「もっと甘えて」と言うが、なかなか出来ない、可愛くないひねくれ者のオンナだった…


男とは美味しいフレンチレストランや六本木の美味しい定食屋さんに行ったりして、男が「本当に美味しい」お店を知っているのにも驚いた、行く所行く所全てが「新鮮」だった…築地のいわしのお寿司が美味しいのもビックリした


男は私より6歳年上だったが、私はそこも「安心感」を感じた、しかし、自分の母親の話しをすると「?」で、そこは他の男と同じだった…


私は自分の事を知って欲しくて、付き合った男に自分の母親の事を言うと、皆んな「?」なのだ、そんな母親が現実
にいるのか?それが信じられないようだった…


いるんですよ!!!!リアルにいるんです!!!!

 

しかし、皆んなわかっちゃいない現実…


皆んな「普通」の「お袋」に育てられたんだろうな…
羨ましいぜ…フン!!!!!我ながら捻くれているよね…


私は母親の事は女友達に言っても皆んな「?」だったが
大親友のしーちゃんだけは同じ一人っ子の一人娘、境遇が似ていて流石に彼女の母親はDVは無かったが、かなり強烈な母親で徹底的に彼女を縛り付けていたから、凄く共感し合っていて、私は「神様」に彼女が私の大親友になってくれて感謝している…


やがて男はリビアに帰って行った…


それから私と男との「文通」が始まった…


いつも手紙は「愛しい彌生へ…」から始まった、愛に満ちた手紙だった…


しかし、私はなんだかまだ好きなくせに…


これでいいのか?もっと良い男がいるんじゃないのか?と思っていた、やはり私は愛だの恋だのに
溺れられないオンナなのだろうか?そう思っていた
本当に我ながら情けないが、まだ一人に絞るのは
迂闊な気がしてならなかった…それは当たったのを後に知る…
 


しかし、日々仕事に追われて、私はやっと「仕事」の面白さもわかって来た、初めて「店長」になれた…しかし、コミュ障気味の私は、なかなか部下に注意などが出来ず、指示しないで全て自分でやってしまう癖がついてしまっていた…


営業部長は「部下を育てろ」と散々言うのだが、なかなか
コミュニケーションが取れず部下が「店長、ミーティングしましょう」と言い出して部下にハッパかけられる情け無い店長だった、やはり社会経験が少ないのが仇になったと思う…

男は手紙でいろいろアドバイスをくれた、本当に嬉しかった、仕事では味方が出来た気持ちだったが私は、販売員という仕事がそれほど好きでは無い事に気づいていた「接客」が苦手なのだ…



勿論、お洒落は大好きだが、やはり美大を出ているだけあって、本来なら「内側」にパッションを秘めた仕事が好きなんだと思う…


だが、なかなか当時はそんな仕事はなかった、スマホもパソコンもFAXすら無いのだから、今ならwebデザイナーや動画編集の仕事とかあるが当時はそんな物は全く無かった


男ともスマホ📱でLINE電話など出来ていたら、本当に心
からの会話が出来たのに「手紙」じゃあなぁ〜〜


然も、アフリカの「リビア」だ、手紙が着くまで一週間はかかる、男はテレビもロクに無い環境だから、私の手紙が一番の日本の情報源だった、次第に前のめりは私だったのに、男の方が前のめりになって来た…


私は自分でも悪いクセだと思うが、よく遊び人の男が自分の物になるまでは必死でオンナを口説くがオンナが自分の物になった途端に飽きるの逆バージョンなのだ…


我ながら悪いオンナと自覚していたが、相変わらず、ディスコやクラブにも行っていたが、少しも楽しく無い…やっぱり私はあの男が好きなのか?と自問自答していたら半年後に男は帰国した…


真っ黒に日焼けしてアラブの男みたいに鼻の下に髭を蓄えていたが…


やっぱりこの男が好きだ…


そう自覚した…



そして、いつもの代官山のフレンチで食事をして…


「彌生…」「うん?」「お前、もうすぐ25歳だよな」「そうだね」「どうするつもり?」「何が?」「俺たちだよ」「どうするって?」「このままで良いのか?」「どういう意味?」

俺たち 結婚しないか?😳 


生まれて初めてのプロポーズでビックリしたが嬉しかった…

やっぱり間違い無い!!!!私はこの男が好きなんだ!!!!確信した…


それからは、男は次はイラン🇮🇷に行くので、帰って来たら結婚しようという話しになった…


男の事を私はいつも苗字の「佐藤さん」と言っていたが、
男は「名前で呼んで」と言うので「雅之さん」と呼んだら
「もっと簡単に」と笑いながら言うから「雅」と呼ぶ事になった、なんだか名前を呼ぶ前に寝たのも変な関係だなと思って2人で笑いあった…


そして、雅を初めて両親に紹介したら、父なんか大騒ぎをして大反対すると思っていたら、以外や「良い青年じゃないか」と言った、母は「顔が小さい素敵な人じゃないの」と大喜びだった、私は内心「アンタの老後の保険がひとつ増えて良かったわね」と思った…


父は父できっと「肩の重荷」が取れて安心したのだろう、
結局私は父の「お荷物」だったのが、今更ながら分かった


雅は今度は「イラン🇮🇷」に転勤になり、またまた私たちは「文通」の日々だったが、ある日「俺の両親は名古屋の堅物だから、彌生、悪いけど埼玉のお母さんの所に引っ越ししてくれないか?やはり実家から嫁いで貰った方が印象も良いと思うんだ」と手紙に書いて来た…


ハァ〜〜〜〜????😳😳😳😳😳
あの本田と同棲している家に行けだと???
冗談じゃない!!!!私は怒りに震えたが、私は恥ずかしくて母が男と同棲している事は言っていなかった、言っても理解してくれないだろうし、オマケに父も「埼玉に行け」と言う…



私は本当に嫌で嫌でたまらなかった、快適な
吉祥寺の暮らしを畳んで、ど田舎の埼玉だと???
悩みに悩んだが、やはり「結婚」するまでの我慢だと割り切り、埼玉入間郡越生町に引っ越しをする事にした…



会社には「移動願い」を出して、東武東上線の「池袋パルコ」に転勤する事になったが、池袋→坂戸までが遠いし坂戸から「武州長瀬」に行く電車の本数が余りに少なく、通勤に2時間以上かかるので大変だった…然も家に帰れば本田がいる、父は本田がいるとは擦りもしない程疑っていなかった、あの人はどれだけ「お人好し」なんだろう…


どう考えたって母が一人で暮らしている訳が無いのは、バカでもわかる、家に帰ると本田がいてゾッとした…


ある夜、遅番だから夜遅くに「武州長瀬駅」に着いたら母
が待っていて「待ってたんだよ一緒に帰ろう」と言われて、私の怒りが爆発💥した…


お前さえ「まとも」な母親なら私はこんな嫌な目に会わなかったんだよ💢そう思い、私は石を拾い、夜の暗闇に石を投げつけた!!!!
何回も何回も…悔しくて悲しかった…


それを観ていた母は「キチガイ」と一言言った……
確かにキチガイだと自分でも思ったが、とにかく
長距離通勤に仕事のストレス、本田と母への憎しみ
全てが私の怒り💢の源で自分の感情を抑えられなかったのだ、石をひたすら投げ続けたら…


結婚辞めて吉祥寺に戻りたい!!!染み染み思った…


雅は相変わらず手紙をくれたが、私は「真実」を書けない悔しさに泣けて来た…


何故、私だけが一方的に我慢しなければならないのか?それが一番悔しかった…


「真実」を書いても雅はたぶん「ヘェ〜」くらいの感想だろう「お母さんだって女なんだし、もう離婚しているんだし別に男と同棲しても良いんじゃないか?」と通りいっぺんの事しか言わないだろう、しかし「逆の立場で考えてみてよ」なのだ、本田と母はいつも一緒に風呂に入る、私は気持ち悪い「じゃあ雅、あなたの母親が父親以外の男と同棲して一緒に風呂に入ったら気持ち悪いでしょ?」なんですよ人間は常にその他人の立場になって考えないと…


人間は自分で体験しないと分からない生き物なのだ、私は私の「理解者」が欲しかった、しかし、雅の事は好きだし早く日本に帰って来て結婚して、地獄の様な埼玉の家を飛び出したかった…


私は「嫉妬」と同じくらい「憎悪」の感情が醜い物なのを初めて知った…
本田や母が憎い、それしか無かった…


父は時々、埼玉の家に疑いもなく遊びに来ては母にお金を置いていった、しかし、思うのだが、父は本当に気付いていなかったのか?本田はゴルフが好きでゴルフクラブを置いて、父の来る日は何処かへ行ったが、普通気付くのではないのか?私は未だに父の「真意」がわからない…

我慢に我慢を重ねたからなのか、私は店で仕事をしていたら突然の腹痛に襲われた…たまらずに池袋の内科に行ったが原因が分からず、とりあえず「痛み😖止め」を貰って飲んだが一向に良くならない、これには参った…日増しに腹の痛みは酷くなり、原宿ラフォーレの店に行った時にまたまた腹痛で我慢出来なくなり、原宿の病院へ仕事を抜け出して行った、医師は私の腹を触診して暫く考えて…


「これは盲腸か卵巣かもしれないですね」と言った
盲腸?それもビックリだが、この若さで卵巣?ちょっと予想の上を行った、て事は婦人科?私はそんな科に行った事は無かったから恐ろしくなった…


日に日に腹の痛みは増し、もう店に行けなくなった、母は寝ている私に向い「アンタ、卵巣嚢腫じゃないの?私もアンタの歳になったのよ」そう言われて突然思いましたが、私は母が入院している病院へ叔母に連れられて行った記憶があった…


私は母に付き添われて、埼玉医大の産婦人科に行った…


産婦人科なんて生まれて初めてだったし、若い女の患者は私一人でなんだか不安だった、私は案内されて、初めてあの台に登り、両脚を広げた、医師はいきなり器具を入れてグリグリやるから痛いなんてもんじゃなくて、やがて台を降りて医師の話しを聞いたら…


卵巣嚢腫ですね、この病気は薬では治りません、手術しか方々はありません、手術の予約をして帰ってください、最短で3日後に入院ですね…


手術!!!!!😱


そんな事、擦りもしなかったわ!!!!ひたすらビックリしていると、私の担当は助教授だったのだが「年齢は関係ありません、私が担当した患者で最年少は3歳の女の子です」と言われた…



しかし、私はショックだった、会社に「手術になったので休みます」と休暇願いを言うと…


「卵巣嚢腫の手術?彌生やり過ぎなんじゃないの?」と笑いながら言われた…人が手術になり落ち込んでるいる時に…「やり過ぎ?」何故そんな事を言われないといけないんだろう…涙が止まらなかった、雅にも手紙を書いたらビックリしていた…



しかし、手術の日は近づいて来た、病院の指示通りに
晒しとかよくわからない物を用意した…



手術は全身麻酔ではなく、局所麻酔と聞いて震え上がった、しかし医師は「安心して良いですよ、ゆっくり眠らせてあげますから」と言われた…



いよいよ当日、ストレッチャーに乗せられて、手術室に着いたら、先ず肩に筋肉注射を3本打った筋肉注射はかなら痛い、暫くしたらボォ〜〜として来て、その後「身体を丸めて、そうそうそんな感じで」と言われて、海老反りの反対の体位をしたら背中に「ブズッ」と注射を何回か打たれたが痛くなかった、これは肩に打った筋肉注射💉のせいなのか?私はぼんやり考えていたら、口にマスクをつけられて「呼吸してください」と言われて「呼吸って鼻でするんですか?口でするんですか?」そう質問したら「どっちでもいいですよ」そう言われたまでは覚えていたが…

痛い、痛い、痛い、と言っている自分の声で目覚めた
本当に腹が痛くて痛くてビックリした😖



傷は縦では無くて横に切られていて「ビキニが着れる様に」と医師のサービス精神だった様だ…看護師が「痛み止め」の薬を点滴に入れてくれて、何とか夜は乗り切ったが
翌日は朝から「さあ!!!!起きて!!!!歩きましょう」と言われて、ソロソロと廊下の手摺りに捕まりながら一歩一歩歩いた…


激痛で最初は3歩だけで、ベッドに横になった、肩で息をしていた…同室の3人のオバさんたちは私が手術翌日に歩いたのにビックリしていて「アンタ!!!よく歩けるわね!!!流石に若いだけあるわ、しかし、その若さで、卵巣嚢腫とはね〜〜」「そうですね、自分でもビックリしてます…」自分でもこの歳で卵巣嚢腫の手術なんて、先月の私は考えてもいなかったわよ、全く運が悪いわ…


やがて、少しずつ回復して行き階段の登り降りも出来る様になり、売店までもスタスタ歩いていけて、病室の皆さんに頼まれた買い物も出来る様になった、後に2023年の4月に私は「腹膜炎」でまたまた腹を手術するのだが、流石に年齢には逆らえない、なかなか回復出来なかった、やはり
「若さ」とは素晴らしい物だと思う…


雅は実家の両親に私が卵巣嚢腫になり手術になったと手紙で書いたら「そんな手術した女、子供が産めないかもしれないじゃないか、結婚は辞めろ」と言われたらしい…それは後に知るのだが、とにかく今はそんな事を考えられなかった、ひたすら「早く退院したい」としか考えていなかった…


しかし、人間は「入院」という経験をすると、まだ24歳なのに、病院の屋上に登り、澄み渡る青空を観ると、不思議に純粋に「綺麗だなぁ」と心の底から思った、そしてこの空はイランの雅にまで続いている…私は無性に雅に会いたくなった…私は2023年にも手術をして入院して、退院して初めて空を見上げたら「美しい」と思った、これは「病気」して回復した人にしかわからないだろう、ここから「人生感」が変わる人も多いだろう、これは私の人生初の
「人生感」の変わった瞬間だった…


さて、やっと退院して、職場復帰して、初めての「店長会議」に出席したら、珍しく専務が来ていて、話しをしてくれたが「君たち今から貯金しなさい、何故なら若いのは今だけなのだよ、歳を重ね、シワやシミの出来たその手に、輝くダイヤの指輪が無いと悲しいよ」と実に良い話しをしてくださった、だが「健康管理が出来なくて入院したりする人がいる、それは自分の責任です、健康には気をつけてこそプロの販売員です」と仰ったが…


え?それ私の事?と思ってしまった…店長会議は全国から店長が来ているが、何故か私の事の様に感じてしまった…その瞬間「もうこの会社辞めたい」と初めて思った…



私は販売課長に「もう疲れました」と言った…「確かにあの専務の話しは彌生さんには、キツい話しだったわね、でも頑張ろうね」と言ってくれて、この人は凄く人間の器が大きくて大好きだし尊敬している女性だった…



私の働いている会社は、破竹の勢いで店を全国展開をしていて、もうブランドの販売員では無くて販売員だけの会社を作り、販売員はそちらの会社に移動させられた、親友は怒っていたが、私はあの意地悪なブランドリーダーが私の上司じゃなくなり喜んでいた…


やがて雅が帰国した、私は初めて雅の実家の名古屋の家に挨拶に行った…


そうしたら…



雅の妹が出て来て…




雅は「あれ?なんでここにいるんだ?直樹は?」


途端にワッと泣き出し「兄貴!!!私離婚したの!!!直樹は置いて来たの!!!!」と言い出した、私はビックリした、だって普通は相手の両親に「宜しくお願い致します」と三つ指ついて挨拶するのが「普通」なのに、いきなり妹が登場して
大泣きだから、そして、初めて雅の母親が出て来て「こっちにきてちょ!!!!」と生まれて初めて「名古屋弁」を聞いた…


それから、居間で延々と妹の嫁ぎ先の家の悪口を一方的に喚き始めた😖普通「初対面の息子の婚約者」
に言うかね?とにかく娘は悪くない!悪いのはマザコンの婿で、やれ食費に月20万貰ってやり繰りして10万返したら「私たちにロクな物を食わせないつもりか💢」と言われたとか、私には関係も興味も無い事を、ワァワァとを喚き流石に雅はバツが悪かったんだろう、私に目配せして「2階に行っていて」と言った…



私はソッと2階に行き「変な所に来ちゃったよ、なんなんだ?まだ生後5ヶ月の赤ちゃんを置いて来た?とんでも無いオンナだわ」と思った、私は母を見ているから、母性の薄い女性が嫌いだ、そう思ってボンヤリと2階の部屋で座り窓の外を観ていたら…妹がやって来て、妹と言っても私より4歳も年上なのだが、またまた私に向かって一方的に嫁ぎ先の悪口を延々と話し、挙句…


アンタ!!!!良かったわね!!!!姑が私のお母さんで、ラッキーだで!!!!あんな立派で良い人はいないわよ!!!!と叫びながら言われた…このオンナは「普通」に話せないのか?本当に呆れた…


私は「結婚辞めようかな?」と思った、しかし、もう会社には辞表を出して私は「寿退社」する事が決まっている今更「結婚辞めました」なんていくらなんでも言えないでしょ…



結婚とは、その後ろにある物全部をこちらも受け止めるという事を初めて知った、それは雅も同じだった、だから、やはり「覚悟」を決めて「結婚」するしか無いんだなぁ〜〜染み染み思った…



私は普通、結婚となったらもっとウキウキするとばかり思っていたのに、ガッカリ😞した…少しも嬉しくない…
敢えて嬉しかったのは結婚式の衣装選びぐらいで、やっと式場が決まりそこの貸衣装の部屋に行きあれこれ試着するのは楽しかった、そこはアパレル出身、やはり煌びやかな花嫁衣装には胸が踊った、私は「白無垢」にしたかったが衣装担当の人は「お客様は派手な顔立ちだから鮮やかな衣装が似合いますよ♪」とアドバイスされ「そうかなぁ?」私はまだ自分が「派手な顔」のイメージがなんだか身に付いてなくて、母からずっと「目が細い」と育てられたので
他人が「顔が派手」といくら言われてもなんだかシックリしなかった、ウェディングドレスもえらい派手なデザインを勧められ頭にはお姫様みたいにティアラ…なんかイメージが違うので、父に頼み込んで、ドレスだけはオーダーにして貰った…


当時、ショーケンといしだあゆみが結婚してそのシンプルなウェディングドレスに憧れていて、超シンプルなウェディングドレスにして、スカートのトレインに生花の百合の花に霞草をあしらい、髪はシンプルにアップにして霞草を飾り、雅のタキシードの胸にも生花の百合を飾る事にした


いよいよ、結婚式当日、私たちの結婚式は行われたが、私は呼びたくないのに母の親族をどうしても招待してくれと母がしつこく言うから、母の親族、父の親族、私の友人と私の方はかなり沢山のお客様が集まったが、雅の方は両親が山形出身で山形から数組の夫婦に妹、雅の数少ない友人たち、驚いたのは雅の友人たちは「お祝儀」を持って来なかった事だ!!!雅の友人は「常識」の無い人が多いと初めて知った…大親友のしーちゃんは受け付けをしてくれたが「ねぇ、旦那さんの方のお祝儀少なくない?」と心配そうに言ってくれたが、私も心配だった…


そして式は無事に終わり、雅の父親と私の父親が式にかかった費用を清算していて、私は「普通は折半でしょ?もしくは新郎側が6:4で6払うんじゃない?」と思っていて、雅の父もそんな風に言っていたら…


雅がヅカヅカ出て来て「公正に人数分だけ払うのが良いんじゃないですか?」と平然と言い、父はビックリして、私は更にビックリした😳
この男はこんなにセコいのか?大丈夫か?
雅の父親もバツが悪そうだったが、余りに雅が主張するので人数分を払う事になった、殆どが私の父が払った、私は初めてこの男の本当の正体を観た気がしたが、もう遅かった!!!!!

 

これから「天国と地獄」の結婚生活が始まったのだった、考えたら「エンゲージリング💍」は雅が払ったが「結婚指輪」は割り勘だった、それも父はビックリしていたが、早く私を「お払い箱」にしたかったのだろう無言だったが、あそこで辞めれば良かったのだ、染み染み思う…


続きます…


#創作大賞2024 #エッセイ部門


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