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彌生の人生…①

第一章 始まり



彌生です…

令和3年3月23日母は永眠しました…

私と母の戦いもこれで終わりました…

YouTubeにも投稿していますが…

私は昭和32年に北海道の牧場のお嬢様だった「洋子」という名の母と中国から引き揚げて来た「勝夫」という名の父との間に生まれました…

父は母の牧場の使用人でしたので物凄い反対にあったと聞いております。


母はなんせ牧場の娘、戦時中でも飢える事も無く普通に白米を食べて、おはぎまで食べて紅茶に蜂蜜を入れて飲むというあの飢えた戦時中の人々からは信じられない生活をしていました

父は母の牧場に流れ着いた時、お櫃の中の白米をあまりの美味さに全部平らげ、母はビックリしたと言っていました本当に戦時中の世の中を知らなかったのでしょう。

そんな2人が結婚して、父はかなりガッツのある男でしたから「東京で一旗あげようと」と決意して生後半年の私と母を連れて青函連絡船に乗り東京に流れて来ました

最初は王子の三畳一間の長屋のアパートでした、共同便所
共同台所、風呂なと無いから銭湯に行く日々…

父が何の仕事をしていたかはよく分かりませんが、母とよく夜の駅の改札前で父を待ち、父は改札から出て来ると
「コッコ」と言って私を抱き上げてくれました。父は私を「コッコ」と呼んでいました。

しかし、父は浮気者だったんでしょうね父はあまり家に帰ってこなくて、よく夫婦は盛大な喧嘩をしていて次第に母の憎しみの対象は父によく似た私に向かう様になり、しょっちゅうお尻を叩かれたり、つねられたり、平手打ちされて押し入れに閉じ込められ、私は真っ暗な空間が怖くて目を閉じて「あけて〜〜」と幼いながら叫びました、未だに私は真っ暗な部屋では眠れません…

まだ3歳の私の記憶は今もリアルに思い出せます…それだけショックが大きく後の私のメンタルに影響します。

やがて父は建設業を始めます…

何故、建設業だったのかはサッパリわかりません、その頃は北区中里のアパートに住んでいて、私は中里の小学校に通い友達も沢山いて本当に楽しかった…

今でも私の心の故郷は中里です…

その頃のエピソードとして私がリアルに覚えているのは、
ある日、私は誕生日でした、母に「今日は誕生日だからお友達を連れて来て良い?」と聞くと「あぁ?」と返事をしたので、学校が終わり友達を連れて行ったら、誕生日ケーキすら無い、然も母は何故かスリップ1枚の下着姿で脇毛はボーボーで子供心ながら恥ずかしくて恥ずかしくて穴があったら入りたい気分でした、初めて「プライド」が傷付いた瞬間ですね。

友達たちも唖然としていてかなりビックリしたんでしょうね母は「なんなんだよ!この子たちは💢」と怒り、渋々、出前の親子丼を取り、皆んなで無言で食べました。

本当に変な奇妙な空間でしたね…いたたまれずに友達たちは皆んなそそくさと帰って行き、誰もいなくなったら母は私を思い切りつねりました、余りの痛さに「やめて!」と
叫びました…

この変なオンナは何なんだ????


子供心ながらプライドも傷ついたし、母の事が大嫌いになった瞬間でしたね….

第二章 大嫌いな練馬区

さて、父の始めた会社の為にいきなり引っ越しした練馬区の借家の平家の一軒家…私は生まれて初めて舗装されていない土の道路を見ました、畑や肥溜めも初めて見ました。春になると物凄い土煙りで家中が真っ黒になり、母と私は毎日毎日雑巾掛けをしていました。

「お化け煙突」「トロリー電車」中里に帰りたくて、帰りたくてたまらなかった

引っ越した練馬区の小学校は殆どは農家の子供で、転校初日に母はお洒落なペパーミントグリーンのワンピースを着て白いハイソックスを着せてくれて私は登校したら皆んな小学校の窓から顔を出して私を観ていて、その小学校の生徒は素足に運動靴、殆ど農家の子供たちで、私は「ブタ」と呼ばれてかなり虐められました。
 

今なら「登校拒否」とか出来るけれど、あの時代はそんな
子供はいません、教師は平気で生徒に体罰している時代ですから、もう嫌だろうがなんだろうが、通学するしかなかったんですね…

然も田舎なんで小学校が遠く、毎日毎日、重いランドセルを背負って大嫌いな小学校に通い、中里には友達が沢山いたのに、練馬区の小学校では全く出来ない…

よく体温計を電灯に近づいて体温を上げてズル休みをしていましたね…

ある日どうしても学校に行きたくなくて泣きながら母に、
今虐められている事、辛い事を言ったら…


往復ビンタをされて「全部お前が悪いんだよ!虐められたら虐め返せ!!!!」とケリまでいれられて、本当に悲しく「あぁ、兄妹がいたらなぁ」と染み染み思いました…

本当に今でも練馬区は大嫌いです!!!!


第三章 父の成功

父は仕事を頑張りました、よく登校する途中、父は地下足袋でトラックを運転していて私を見つけると窓を開けて「コッコ」と呼び、私のあだ名は「ブタ」と「土方の子」になりました。今でも私は美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」を聴くとなんとも言えない気持ちになり涙が流れます

やがて高度成長期と父の建設業がマッチして父は成功して行きます…

私たち親子はあっという間に平家の借家から、豪邸住まいになり、谷崎潤一郎の小説の「細雪」みたいに、毎日毎日呉服屋が来て様々な反物を、広い畳の上にバァ〜〜と広げ美しい色の世界が広がります…毛皮屋やら宝石屋やら父のスーツのオーダー屋やら人の出入りが激しくなりました。

父は宝飾品が大好きで、私も宝石は今でも大好きです、だって美しいですよね、ロマンがあります、ある日、採掘された宝石の原石が磨かれて私たちの手元に来るなんて素晴らしいと思います。

しかし、父が私に何か買ってあげると母はキチガイの様に怒るんですよ「なんで私には買ってくれないのよ💢」もうウンザリで父が何かプレゼントしようか?と言っても「いらない」と言いました、大喧嘩されるなら、何もいらないですよ、私は「諦める事」を学んだ気がします。

第四章 母の親族が上京

やがて私は中学に進みますが、やはり練馬区の中学校は馴染めませんでした、男子は思春期でギラギラと汗臭くて、女子は女子で妙に色気付いて男子は「ボンタン」にリーゼント、女子は制服のスカートは長くしてカバンはペッタンコで、私はよく昔話しをすると「よく不良にならなかったわね」と言われますが、私の中の「美意識」があの格好を「ダサい」と思っただけです。

私は本当に学校に行きたくなくて、ある日、母に泣きながら「本当に限界だ!虐められている!友達もいない!あんな学校に行きたくない!!!!」そう言ったら、例により掃除機を持って来て枝の部分で私を殴り、ハタキも持って来て、ビシッビシッと殴り付けて吐き捨てる様に怒鳴りました…

お前が全部悪いんだよ!!!!子供なんてお前
一人で充分なんだよ!!!!お前は私の老後の為に産んでやったんだ感謝しろ!!!!他に出来た子は皆んな堕したんだよ!!!!何人もな!!
感謝しろ!!!!!

そう言われて、思春期の私は本当に傷付きました、母をますます嫌いになった、いや憎みました…

やがて父の成功を当てにして、北海道から母の親族が続々と上京して来ました…母の妹夫婦は夫が大卒なので会社の経理になり、妹は人夫さんの飯場の賄い婦になりました。

父はその頃は従業員の飯場を作ったりして土地への投資も始め、益々成功して行きました。

母のアルコール中毒の長男の子供たちも上京して来て5人兄弟の長男と末っ子の妹は父が保証人になりアパートを借りてあげて長男は社員として働かせてあげました。

また、母の弟夫婦も上京して来て、この男の長女は生まれつき心臓に穴が空いていて、父が女子医大で手術を受けさせてあげました。あの頃の心臓の権威は女子医大でしたので大変なお金がかかったと聞いています。娘は命を取り止めました。


この弟は感謝どころか本当に卑しくて私の家に遊びに来る時は必ず「兄貴!上手い物食べさせてくれ!鰻か寿司が良い」とたかるばかりで手土産すらありません。またお歳暮やお中元で貰ったインスタントコーヒーなどはゴッソリと袋に入れて帰って行きます「ありがとう」もありません。
私は母の親族が大嫌いでした….

反対に父の親族が遊びに来る日は母はプイッといなくなります、父は中国の青島で育ったのですが…


父の父、つまり祖父は血筋は悪く無くて武士の出で鎧兜や家系図、日本刀などが家にあったそうなんですが、酷い博打打ちで娘2人は芸者に売り飛ばし、父も4歳の時に奉公に出されるという、正に「おしん」みたいな生活で今の時代では考えられない生活でした。


やがて17歳年上の長兄は陸軍中野学校を出て中国に渡ります、この「竹田の子守唄」は父に捧げて歌いました


長兄は日本軍のスパイになります…長兄は父とは苗字も違います、戸籍全部を全て変えて中国の青島で大成功を納め、父、父の兄2人、妹、全部引き取り面倒をみてくれたので父は恩を忘れずに頭が上がりません、父は長兄の家族の面倒も見ていて、それが母は気に入らなかったんですね

私はまだ中1なのにカレーライスを作り、父は自慢の炒飯を作るんですが口の悪い芸者上がり伯母は「勝夫なんだい!この食事は!もう少しまともな物は無いのかい!!!!」

そう言ってキレるので、仕方なく寿司やら鰻やらを取り、
ご馳走して、母が帰って来たらその寿司桶を見つけてまたまた大喧嘩です、本当に嫌なオンナです、文句言うならちゃんと夫の親族をもてなせ!そう思いました。

私は「死にたいなぁ〜〜」と常に考える様になって来ました…そして、いよいよ受験を迎えた私は学校のヤツが大嫌いだったので…

絶対にコイツたちと一緒の学校には行きたく無い!!!!女子校へ行く!!!!

そう決めて勉強しました、そして絵を描く事しか取り柄が無いので学校は大嫌いだが家も大嫌いなので部活は一切やらず、毎日毎日、放課後は美術室でデッサンに明け暮れました。

次第に「私は絵を描く事しか取り柄が無い」と自覚した頃で「美術系の女子高に行ってやる!」そう決意しました。

そうして高校に受かったのですが、私は本当に「ここから私は新生の彌生になる!生まれ変わって明るい人間になろう!」と決意したのですが、学校の美術の時間に私は「自分は井の中の蛙」だった事を思い知ります…


確かに練馬の中学では私はダントツに絵が上手かった、しかしこの学校は全国から「絵の上手い」女子が入学して来ていますので、私なんか底辺なんです。然も自己紹介で「彌生と言います、練馬区に住んでいます」と自己紹介したら、皆んなクスクス笑ます🤭

彼女たちから見たら「練馬=ダサい」なんですよ、然も私は確かに成金お嬢ですが、それ以上はゴロゴロいて、遠い千葉から運転手付きの車で通学する人もいてスケールが違うんですね。
 

そして無理して明るく振る舞うと…

こっちゃんて変わっているね🤭なんです


父は「こっこ」この学校では「こっちゃん」何処へ行っても「変わっている」と言われる…

本当に悲しかったですね、生まれ変わりたくても、やはり
出来ないんです、何がいけないんだろう?

皆んなお昼には母親が作ったお洒落な弁当を広げて、楽しいランチ、私は学食に行き、いつもラーメンかカレーライスお洒落な弁当って一度は食べてみたかったし心底、羨ましかったですね….

ある日、運動会があるから「お母さん、明日は運動会だから」と言ったら「あぁ?」と言われて翌日起きたら、弁当がない!!!!「お母さん!弁当は?」焦って質問したら

だってアンタ、弁当作ってくれって言わなかったでしょ?何言ってんのよ!!!!!


この時は母親を心底憎みましたね、普通「運動会」なら弁当でしょ?本当に嫌なオンナです…

私は運動会のランチタイムは校舎の美術室で、ぼんやりと体育座りをしてグーグー鳴るお腹を抑えて泣きました、涙が後から後から流れて本当に「死にたい」と思いました。
もうこの世からいなくなりたいんですよ、私は自殺する人の気持ちが凄くわかります。彼等は「死にたい」のではなく「生きているのが嫌」なんですよね、生きにくい人は常に「孤独」なんですよ。

本当になんていう母親なんでしょう?宝石を付けてミンクのコートを着てチャラチャラしてお茶を習っていたから、毎日呉服屋が来て着物を作り、西武デパートの外商からブランド物を買い、そんな暇があるのに娘の運動会に弁当ひとつ作らない母親、おまけに私は知っていました。 


父はぜんそく持ちなのでしょっちゅう女子医大に入院していて看病しに病院へ行ったら産婦人科の医師と浮気して背の高い男が家の前に立っているのを、だらしない顔で笑って男の肩を叩いているのを私は見ていました、とにかく 
ひたすら思いましたね…

あれは母親なんかじゃない!!!気持ち悪い💢


そして、学校ではやっぱり「友達」が出来ないし私はいつも「変わっている」と言われる、人とは群れられない「孤独」な人間…

孤独!!!!!孤独!!!!!孤独!!!!!

そして私はあの学校に入ってわかったのですが美術系の学校って教師の「好み」の絵を描かないと良い点数が貰えないんですよ、私は点数がつけ終わった絵をパレットナイフで切り裂きました…怒りを込めて….

第五章 兆し

そして、高校2年生の時です…

父は社員旅行に行きました、その夜電話が鳴ったので出ると、事務長さんからでした「はい?もしもし?」「すみません、社長をお願いします…」

えっ?社員旅行じゃないんですか???電話の向こうで「ハッ」とした気配がありありとわかりました…

「すみません、間違いでした」と慌てて電話を切られましたが、私はハッキリとわかりました…

父は浮気している…

しかし、母にそんな事を言ったら大騒ぎです、それは避けたかったから私は無言を貫きました…

しかし、私は甘かった…

地獄の日々の始まりでした…

第六章 地獄の日々

暫くは何事も無く過ぎて行きましたが…

父はトヨタのセンチュリーに乗っていたのですが、ある夜
フロントガラスとサイドミラーがメチャクチャに割られた状態で帰宅しました…

母は「なんなのよ!!!!これは!!!!」そう叫び父に
詰めよったら「いや、電信柱にぶつかったんだ」と苦しい言い訳をして、次はマークIIに乗って出かけたら、またまたメチャクチャ…

父の浮気相手は駅前のバーのママで、かなり激しい気性で
父に執着して父が帰ろうとすると、引き留めてヒステリーを起こして車をぶち壊す様です、しかし、父は母といい激しい気性のオンナが好きですよね、心底呆れました…

やがて母の妹夫婦や甥っ子が父の会社にいますから母にある事無い事を吹き込み、母は逆上して毎晩父と取っ組み合いの大喧嘩です。

父はあまりの母のヒステリーにキレて、指輪をした手で母を殴り付けるから、母の額がパックリと割れて額から血が吹き出して母は私の部屋に血塗れで…

助けて〜〜〜〜!!!!!!!

そう叫んで部屋に入ろうとするから、私は思わずドアを閉めました、本当に気持ち悪い夫婦です、しかし、今振り返えると、あの時私が母を庇ってあげていたら運命は変わったのでしょうか?ふと、思う事があります…

毎晩毎晩繰り広げる地獄絵図…

孤独な私…誰も相談する友達もいないクラスの子が「こっちゃん元気ないね」そう言われたから、私は思い切って「実は」と打ち明けたら…

うそ〜〜信じられない〜〜〜〜♪♪♪♪♪ 

ですから、まぁお嬢様にはわからないんでしょうね私は
成金お嬢でしたが笑

第七章 本田登場

ある日父が1人の見窄らしい男を連れて来ました、仮に「本田」にしましょうか…

本田は自分で作った会社を潰して妻は自殺、他の飯場をブラブラしている所を父に拾われて父はアパートの保証人になり運転手として雇ってあげた男です、酷い福島訛りで、ハゲて腹が出ていて一目見て私はゾッとしました…


父に「なんなの?あの人気持ち悪い、もう連れて来ないで!」そう言ったら「面白いヤツだろ?これからは毎晩、夕飯はあの男も一緒だから」そう言うではありませんか、父はとにかく、母の親族といい、人を観る目がありませんね。本当に愚か者ですよ…

父はとにかく母と喧嘩はしたくない一心だったんでしょうが、私は直ぐに母と本田がデキたのは分かりましたね…


だって母は私に「ねぇねぇ彌生〜〜本田ったら私を好きみたい♪」そう言うんですよ、普通、我が子にそんな事を言いますか?本当に愚かなオンナです。

凄まじい大喧嘩は本田が帰った後から始まります…

母は尿を漏らしながら、泣き叫び床を転げ回り地獄絵図以上です、しかし、よく我が子の前でそんな醜態を見せられますよね、キチガイですよ、そして尿を漏らしながら更に叫び廻る!!
醜いなんてもんじゃない!!!!父は泣きながら

母の尿を雑巾で拭いて「もう、もうこんな生活は嫌だ!!!!」と叫びます、私は心の中で「こっちの方が嫌なんだよ!!!この不倫野郎!!!!なんとかしろ!!!!」と叫んでいました…

しかし、私は母さえ毅然とした態度で我慢さえすれば、この家は波風が立たないのに、とも思いました、金持ち男が愛人を囲うよくある話しじゃないですか?

今思えば私はなんて幼稚で稚拙な思考なんでしょうか、しかし男に依存するしか知恵が無い愚かな女の母は「自立」なんて考えた事も無かったんでしょう母の思考は父が駄目なら本田、最後の手段は医師だったんでしょう。もし母がヤクルトおばさんや保険の外交とか頑張って働いたら私は母の味方をしたと思います…

母はかなりメンタルもやられて女子医大の精神科から眠剤を貰っていました。今思うと母は絶対に狂っていたと思います、あの気性は異常です…


やがて私は母の薬を全部飲んでオーバードーズをします、本当に生きているのに疲れました
しかし目覚めて目覚めてしまった…入院している私のベッドの枕元で両親は盛大な喧嘩をして罵り合います、思わず「五月蝿い!!!!」と叫びました…心身共に疲れ果てました…


第八章 初めてのヨーロッパ旅行

私は短大に進みました、母は私に耳打ちして「お父さんの会社は危ないから今の内にヨーロッパへ行って来なさい」
そう言い出し驚いたのですが、確かに学部の教授が付き添いでヨーロッパ一周旅行を募集していて、私は映画オタクで特にフランス映画が大好きで、あの頃はアイビールック全盛期でアメリカンカジュアルが大流行でしたが、私はヨーロッパのファッションが大好きでケンゾー、イッセイミヤケさんなどがパリに進出して大成功していました…

あの頃で旅費は50万以上でしたから、贅沢な旅行でしたね
ギリシャ→イタリア→イギリス→フランス→ドイツ→スイスと周りました。

ギリシャからは舟でイタリアへ渡り地中海の美しさに驚き、カプリ島が素晴らしかった、パリに行ったら他の人たちはVUITTONのバッグを買っていましたが、私は真っ先に「エマニュエル.カーン」のサングラスを買いました。


今も大切に使っています…

またサンジェルマン.デ.プレの石畳をおニューのグレーのブーツで歩いていたら…

ボンジュールマドモアゼルと声をかけられ、振り向いたら、ナント!!!!あの世界的に有名な指揮者の小澤征爾さんでした😳石畳に跪いて黒のカシミヤのロングコートを着て鳩に餌をやりながら微笑んでいました…



小娘の私はどうする事も出来なくて、ただ微笑み返すだけでしたが素敵な想い出です


ギリシャのパルテノン神殿の美しさ


ローマの「トレビの泉」の美しさ…


スイスのユングフラウヨッホに乗り生まれて初めて「氷河」を観た驚き…

とても良い想い出ばかりです、翌年もヨーロッパに行きました。10代で2回もヨーロッパへ行かせてくれて、それは父には感謝しています。

第九章 父の会社の崩壊

その頃、父のワンマン経営が仇となり、父の会社はいきなり傾いて行き、信頼していた社員も次々に父の会社を去りました。父が面倒をみてあげていた、母の妹夫婦も北海道へ帰り、甥っ子は父の会社の顧客を全て連れて会社を辞めて独立、父は全ての人間に身限られました。


母は本当に愚かな事に本田と一緒に父の融資先の銀行へ行き父のある事無い事を訴えて、やがて父の会社は融資が止まり会社は倒産しました…

父は素早く動き、土地や家屋を売り払い、現金化してトランク一杯の札束を母に渡し…


正にこんな感じでしたね、諭吉じゃなくて聖徳太子でしたが、父はそこから3つ札束💴を取り
「必ず俺は立ち直るから!そうしたらまた家族で暮らそう!」そう言ってセンチュリーに乗って
立ち去りました…

私たちが一緒に暮らす事は二度とありませんでした…

第十章 母のDVの日々

私たち母娘は上石神井の貸家に引っ越し債権者から身を隠しました…

母は男=カネの思考の持ち主ですから、本田と医者と車の
ディラーなど男を次々に作り家にはあまり帰って来ませんでした…

ある日、食事を食べるにもお金が無くて、私は母の友人の
おばさんに「あの、母の居場所をご存知ですか?」と電話したらその夜いきなり帰って来て…

テメーよくも私の友達に電話したな!!!!この野郎!!!!と叫び、私を殴る蹴るをして私の着ている服をビリビリに引き裂き、私は「殺意」を感じました…

助けて!!!!殺される!!!!私は叫びながら家の外に飛び出しました!!!!!

なんだなんだと近所の人々が、わらわらと出て来たので…

助けてください!!!!殺されます!!!!

私は叫び助けを求めました…しかし、母は「嫌だわ、ただの親子喧嘩ですの」と誤魔化して笑い🤭
近所の人々も、まさか母がそんな人間だとは知らないから「お嬢さん、お母さんと喧嘩してはダメだよ」と言いながら帰って行きました…

私は半裸のままでコートを羽織り 裸足で逃げ出して、タクシーを止めて「成城学園まで!」
そう叫びました、運転手は私の身なりにギョッとしてアクセルを踏みました…


成城学園には父の長兄が住んでいて、私の姿にビックリして「とにかく入りなさい!」そう言って家に入れてくれました。例の中国でスパイをしていた人間です、この一家は今の6人目の妻との間に娘が2人いて成城学園に通っていましたが、全部父が面倒を見ていました…


私はもう少し優しく招き入れて貰えると思っていましたが
明らかに「迷惑」な顔をしていました…

翌朝、何故か父が来ました、私には電話番号も教えてくれなかったのに長兄は知っていた様です…

長兄は私にハッキリと「彌生!お前は独立して
自立しなさい!」と言われました…

自立…


その通りですよね、私は父に、とにかく母は本田と別れていない事、他にも男がいる事などを正直に話し、父は怒り狂って母の所へ行き、どういう訳か100万円を奪って来ました、私たちはその足で吉祥寺の不動産屋へ行き1DKの木造アパートを見つけ風呂トイレ付きだったので私は即決しました。

第十一章 母に支配されていた私…

次は私の仕事を探さないといけません、なにしろ21歳、バイト経験無しの成金お嬢です。しかし、私には夢がありました、憧れのブランドで働いてみたい、流石にデザイナーにはなれないと分かっていましたから、販売員で面接を受ける事になりました。ラッキーな事に履歴書を送ったら、面接してくれる事になったのです。

さて、私は小さい頃から母に「お前は私にちっとも似ていない!私は目が二重でパッチリしているのにお前はお父さんに似て目が細い」そう言われて育ったので「そうか私は目が細いのが」と疑いもしないで思い込んでいました…


小、中、はあだ名は「ブタ」高、短大はただの「こっちゃん」特に私の容姿について誰も言わなかったし、私は目が細いんだと思い込んでいました…

ところが、面接の時に営業課長が…

小川真由美さんに似ていますね、目が凄く印象的ですね、そう言われて「ハァ〜〜〜〜〜?」と
ビックリ🫨


この人に私が似ている?そんな馬鹿な!!!!!
私は目が小さいのよ?この人、目が大きいじゃない?????

本当にビックリ🫨したんですが、その後に面接した人事課長も私の事を…

目が大きいですね、小川真由美さんに凄く似ている、合格です、勤務場所は追って連絡します
そう言われました…

まるで夢を観ている様でした、バイトすらした事が無い成金お嬢の私が憧れのブランドで働けるなんて、オマケに顔まで褒めて貰って…

私は自分の目が大きい事を21歳にして初めて知りました!正に母の支配から呪縛が解けた瞬間でした…


ここから、私の本当の「青春」が始まります…

40年来の大親友にも出会えたし、大人になって
私は本当の「青春」を経験する事になります

続きます…


#創作大賞2024
#エッセイ部門


















 






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