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彌生の人生…②

第一章 バブル期のデザイナーブランド

彌生です…

さて、バイトすらした事が無い成金お嬢の私…

何故、数あるデザイナーブランドで「BIGI」を選んだのか?それはテレビでショーケンの「傷だらけの天使」を観て衝撃🫨を受けたからです…

番組の最後のエンドロールに出てくる「株式会社ビギ」の文字…

衣装デザイナー 菊池武夫?誰?この服って何処で買えるの?いろいろ調べ(スマホも無いあの時代どうやって調べたんだろう?)


菊池武夫さんと妻の稲葉賀恵さんが作ったブランドで原宿のあるビルにブティックがあるとわかり、早速行ってみました、販売員の方々はお洒落で素敵でこっちがお客様なのに緊張しまくり、やっと2〜3枚購入して、毎日着てみるとその着心地の良さ、シルエットの素晴らしさに唸りました。

パリのケンゾーやイッセイミヤケとはまるで違う、オーソドックスな服…もう大ファンになりました。


後に菊池武夫さんは「メンズビギ」を作ります、ショーケンはブランドの申し子でしたね、本当にカッコ良かった…


これなんか、いったい前ボタンをいくつ開けているのか?普通の男性がやったら「ただの兄ちゃん」ですよね笑
BIGIのパーティー🎉にはよくショーケンも来ていました私は抱かれる気満々でしたが爆笑😂彼は常にぼんやりと空を観ていて、後に彼の自叙伝「俺の人生なんかおかしい」にあの当時は麻薬中毒だったと書いてありましたから、きっと薬のせいもあったのでしょうね…


知っているいましたか?あのブルース.リーもメンズビギの大ファンだったんです、メンズビギのスーツをカッコ良く着こなしていますよね、あの頃は世界の人々が日本のファッションブランドに注目していたんです。

 

街はテクノポップが溢れていて時代はバブル期の日本は世界一の金持ちの国になり「ジャパンアズナンバーワン」なんて言葉も出来て、企業はSONYが大躍進して、本当に日本は世界から注目されていたんです、またあの時代が戻って欲しいと切におもいますね…

第二章 初めて働いた私

さて、面接して受かったわ良いわなんですが、これから何をどうやって働けば良いのがサッパリわからず…

いきなり最先端ブランドに入社して、観るもの聞くもの初めての事ばかり、「お畳み」→商品をキチンと畳んで棚に並べる事、当たり前の事ですがこんな用語は初めて知りましたね笑

先ず「いらっしゃいませ」から教えられました、私はこの会社で「人生の基本」を教えて貰ったと思っています。

とにかく、皆んなお洒落でセンス抜群、本社に会議に行くと、デザイナーさんがまた、スンゴイお洒落なんてもんじゃなくて、ソバージュのロングヘアをワンレンで流している人、方や髪をかなり上でポニーテールにしてスンゴイメイクをしている人、前髪パッツンのボブヘアの人ととにかく圧倒されまくりました、もう緊張でガクガクで目線は常に下でしたね、自分に「自信」が持てないんですよね。

また、営業さんが凄いんですよ、皆んなイケメンでセンス抜群です、芸能人やモデルと付き合っている人も多かったですね、だいたいディスコに行って働いている会社の名前を言うと、直ぐに女の子が付いて来て、新宿のホテル街はうちの会社の車が並んでいたなんて伝説があります。

私が憧れていた課長なんか180センチの長身にサングラス
デニムシャツにデニムを履いているだけでカッコ良いんですよねオーラが凄いんです

あの当時はボディコンですから皆んな肩パットの鮮やかなニットを着てタイトスカートにパンプスです、眉毛は太く描いてリップは真っ赤と決まっていましたね。今みたいに韓国のプチプラの化粧品は売っていなくて、皆んな、海外ブランドのCHANELやらDIORのメイクでした。私はメイクが下手で、なにしろバイトもした事がない成金お嬢だしファンデーションもロクにした事がなかったんで、メイクには苦労しました、自分では「薄化粧」のつもりでも「コムデギャルソン」や「Y,S」の人には「厚化粧」と言われていましたね。


今みたいに髪を染めている人もいなかったし、眉はひたすら太くてリップは真っ赤殆どCHANELでした…

これは「クシュカ」の金縁サングラス…これ流行ったんですよ笑


私の会社の課長がある女優さんと婚約していて、彼女はこのサングラスをしてよくパーティーに来ていましたね、あまり似合ってなかったです。会社の社長は大女優と結婚していて、彼女は美しかったです、流石、大女優だと思いました。

あの頃は「コムデギャルソン」の人は皆んなスッピンで両極端で面白い時代でした、因みに「コムサデモード」は私たちは「コピーブランド」として見ていましたね、しかし現在残ったのは「コムサ」ですから皮肉なもんですよね。

今は「BIGI」とか「メルローズ」などのショップもあまり見かけませんね、やはり「ブーム」だったんでしょうね、無難な「コムサ」は残る不思議…世の中は不思議だらけですよね…

その頃初めて「ハウスマヌカン」という言葉が雑誌の「anan」で取り上げらました、なんでもフランスでは販売員の事を「ハウスマヌカン」と呼ぶそうで、私たちデザイナーズブランドの販売員は「ハウスマヌカン」と呼ばれてる様になりました。

「夜霧のハウスマヌカン」なんて歌も流行りましたね笑

💁‍♀️

私が働いていたブランドは「刈り上げ」は禁止でしたから
青いうなじはいませんでしたね笑確かにブランドによっては刈り上げをしている女子も多かったですね、懐かしいですね

でも、確かにお金も無いのに見栄をはる人はかなりいましたね「君たちは歩くマネキンだから自社ブランド以外は着てはいけません」と言われているから、いくら「社販」で安く買えても次から次へ新しい服が出て来るから「個人買い」が大変でサラ金から借金して服を買う人もチラホラいましたね、お店に取り立ての人が来て大騒ぎなんて事もありました、またAV女優をバイトでやっている人がいて会社にバレてクビになった人もいました、皆んなそうまでしてブランドの服を着てショップに立ちたかったんですね。

後はやはり日本はバブル期でしたから景気が良くて、然も私の会社のブランドは売れていますから、ボーナスは年に3回も出ました、夏、冬、決算と今の若い人はビックリするでしょうね、あの頃のBIGIは飛ぶ取る勢いで売れていましたから、店舗もどんどん増えて行きました、仕事に「やり甲斐があり、毎日楽しかったし充実していましたね。

今の人はかわいそうだと思います、年収は30年間上がらず、増税増税、年収上がれば増税もわかりますが、給料少ないのに税金だけ搾取されるのはおかしいと思いますね、給料は上がっても住民税上がればプラマイゼロ0️⃣ですよ今の政治家は何をしているんでしょうか?

あの頃は毎晩毎晩遊び狂っていて、よく「ジュリアナ」のお立ち台で扇子🪭振って踊っている映像を観ますが、私たちハウスマヌカンは会社から「あんなダサい所に行くな」と言われていて行った事は無かったです、営業はナンパしに行っていたようですね、辛口で申し訳ないですが、あそこはそんな場所でしたね…

私たちはだいたい「椿ハウス」「ピテカントロプス」「328」などで遊んでいました…


このビルの上に「椿ハウス」があり、まぁ皆んな派手でしたよね…

パンクとテクノポップが溢れていて私は男よりは、リズムに合わせて身体をスウィングする事に楽しみがありました

ピテカントロプスはちょっと尖っていて面白いかったですね、この頃からDJみたいな仕事も広まり出しましたね。


「3-2-8」も大好きでした、ある日、凄いカッコいい男性が「今日はお前の家に行く事に決めた!」とキッパリ言われワンナイラブなんかも経験しました、成金お嬢なんて自称していますが、それほど清純なオンナじゃありませんでした笑

第三章 変わらない両親

とにかく、嫌な事は忘れたいから男とも遊びましたね、夜遅くアパートに帰るとポストに何処で調べたのか、呉服屋からの手紙が入っていて「お着物の代金がまだ未納になっています、至急お支払い願います」と書いてあります。

何故、私の所に請求が来る?💢贅沢三昧して着物を作ったのは母親だろう?あんなに慰謝料貰っているんだから自分で支払え💢怒りに震えましたね…


母は何しろ私は「老後のキープ」ですから、私が仕事が休みの日は必ず私のアパートに来て、私が仕事に疲れて寝ていると、私のベッドの横に座りテレビを観ていて、私が起きないとワッと泣き出して…

お母さんがせっかく来てあげているのに、その態度はなによ!!!!と例によって叫ぶから、私は「ハイッ」と呉服屋の請求書を投げつけると、「そんなのお父さんに渡しなさいよ!!!!」「お父さんの電話番号すら知りません🤷‍♀️」そう言ってやると、そそくさと帰って行き、コッソリ後ろを着けて見ていると本田が母のマークIIに乗って待っています「やっぱりまだ切れていないな」と確認しました。

母は私に気付くと駆け寄って来て

ちょっと!!!!お金ないんだからお父さんに会ったら生活費もらっておいてよね!!!!!!!

しるか!!!!本田に喰わせて貰え!!!!もう来るな!!!!そう叫ぶと母は私に殴りかかるから手で振り払ってやりました💢

それだけ言い切っているのに、また翌週来るんですよ、本当にウンザリしました。本田はタクシーの運転士をしているらしく充分食べて行ける筈なのにその頃、母は埼玉の入間郡越生に家を買って住んでいました、父の慰謝料で現金で買った様です、しかし、父同様に住所も教えません、債権者が来るのが怖かったんでしょう…

私の休日は殆ど無い様な物でした、だいたいパンプス履いて8時間も立ち仕事しているんですよ?休みの日くらいゆっくりと昼過ぎまで寝ていたいですよ、私は子供の頃から身体が弱いんです、休まないと仕事なんか出来ないですよ

父は父でやはりよく私のアパートに来るんですが、やはり住所は教えません、私が知っているのは電話番号だけ、きっとオンナと暮らしているんだなと思いました。それは当たっていましたね、父に呉服屋の請求書を渡すとビリビリに破き「無視しろ!!!!」と言いました「お母さんが生活費くれって言っているよ」そう言うと財布から三万出してポンと私に渡しますが「この人バカじゃないの?あのオンナ本田と暮らしているんだよ?」そう思いましたが、本田の事は言わないでおこうと思いました、また私の前で泥沼の大喧嘩されたらたまらないですよね、私のアパートで
あれをされたら私はアパート追い出されますよ。

父に電話をすると「あぁ、あぁ」と聞いていますが、私が「お父さん何処に住んでいるの?」と聞くと、いきなりガチャッと電話を切ります、本当に腹立たしかった…


第四章 ブランドリーダーに虐められた事


私はブランドリーダーには徹底的に虐められました、私が生意気なのがいけなかったんだと今なら理解出来ますが、ある日ミーティングで「とにかくブランドの商品を常に着なさい!!!!あと、彌生さん、貴方は派手な顔なんだからDIORのアイシャドウのグリーンをアイメイクにしなさい!!!!靴はパンプスのみにしてください」と言うから「…大変申し訳ありません、そんなにお金が続きません」と正直に言うと…

そんな人はこのブランドには必要ありません!辞めてください😳と言われました!!!!


このオンナ、我が社の営業と同棲していて、やたらと会社の情報通で然も「十二指腸潰瘍」でやたらと突然欠勤して
皆んなから嫌われていました…私も「ハイハイ」と言っていれば良かったんですが、つい意見を言うから嫌われたんですね。

ブランドリーダーだから一つの店に定着せずに、いろいろな店に行っては私の悪口を言っていた様です、全く私は何処へ行っても嫌われますね笑

会社に早朝会議に行ったら彼女がいて「おはようございます」と挨拶をすると無視、然も私の悪口を散々ふれ回っているから、他の人も誤解して私とは親しくなりたがりません。全く、自分がいけないのは分かりますが、何処へ行っても無視されて、楽しい青春ではありましたが、やっぱり「孤独」は常に付いて回りましたね、残念です…

第五章 他のブランドの親友

あとは、丸井ヤング館の同い年の店長ですね、他のショップの人は「とんがりコーン」とあだ名を付けて呼んでましたが、店のスタッフは4人でしたが、とにかく、私への態度と他のスタッフと明らかに違う、私は「何処を観ている💢」「お畳みが下手💢」「なんなの!!!!このお畳みは!!!!」そう言ってせっかく畳んだ商品をバァッと床に落とされて「もう一度最初から畳みなさいよ!!!」と、まぁ感情剥き出しのアホで、他のショップの人には
「いずれ私はここを移動して彌生が店長になるから、わざとキツく当たっている、彌生はそうやっても平気な人間だから他のスタッフとは使い分けている」と言っていたそうで…

ハァ〜〜〜〜?????何言ってるの?????私はアンタのサンドバッグか?????心底呆れてましたね…

そんな虐められている日々の時、隣のブランドの「ジュン&ロペ」の店長が…

このCM、アダモの歌でお洒落でしたよね大好きです…

彌生ちゃん大丈夫????あれは酷いよね……そう言ってくれました…凄く嬉しかった…

それから、お昼の休憩は彼女と行く様になり、彼女は私と同じく一人っ子の一人娘、彼女は父親がいなくて、かなり個性的な母親に育てられていて、物凄く共感しあったんです😭

そして、私の人生初の大親友になり、今も仲良く付き合っています、もう40年以上の付き合いです、私は思うのですが、親友なんて人生に1人2人いれば充分です、小学校で歌った「友達100人出来るかな♪」あれ、なんなんでしょう?
100人いたら何か良い事あるんですか?私たちは小さい頃から役に立たない教育を受けていますよね。

彼女は「しーちゃん」といってアパレルの人間には珍しく「週刊文春」を読んでいて、あの頃の文春は「文春砲」なんて無くてもっと固い週刊誌でした、私は初めて「時事ネタ」を話せる人間と友達になってあれこれ、あの当時の政治について話したり、本当に初めて話しの合う人と人生初の出逢いでした。

そして、丸井の中で様々なブランドの友達が出来て、皆んなで伊豆に旅行に行ったり凄く楽しかった、皆んなで「椿ハウス」に行って踊り明かして早朝は原宿のレオンに行き
服を取り替えっこしたりしてました、何故服を変えるか?流石に前日と同じ服装では不味かったからです笑


あの当時のレオンは時代の先端を行く人が集っていて、タイル張りの床がお洒落でしたね…


山本寛斎さんやデヴィド.ボウイ、山口小夜子さんなどなど有名人にも愛された「レオン」何故、今無いのでしょうか?なんだか寂しいですね。しかし、今の原宿を歩いているとやはり、あの頃とは「空気感」が違いますね…


表参道にあった「同潤会アパート」やはり著名人が住んでいましたし「メルローズ」も最初の1号店はここのアパートからでした「BIGI」はやはり原宿表参道に1号店を出していて何故あの当時の「みゆき族」のいる銀座にしなかったのか?場所選びにも「センス」を感じます。今は「表参道ヒルズ」になってしまってあのレトロな雰囲気は無くなりましたね、残念…

第六章 BIGIの親友

私はいきなりブランドリーダーに呼び出され「アンタにはぶっちゃけて言うけどさぁ〜〜」タバコを蒸して言われて
何故私にはぶっちゃける訳?そんなに私は傷つきにくい人間に見える訳?アンタって本当に人を観る目が無いよね、心底呆れていたら「なんかさ、丸井はアンタと店長が仲悪いと噂なのよ、だから有楽町阪急に移動してくれる↑」と、上から目線で言われて私は内心「あぁ、良かったぁ〜あの、とんがりコーンから離れられる」と妙に嬉しかったです。

そして有楽町阪急へ移動したら、店長はメチャクチャ優しくて素敵な人で、ただサブ店長が店長と仲が悪く、いやでも、彼女を観たら皆んな「分かる」と言うと思う、信じられない厚化粧で前髪パッツンで、とにかくだらし無い雰囲気全開で悪い人では無いがなんとも言えない人だった…

椿ハウスで、働いている男と同棲していて、その男はバイセクシャルでイケメンで夜の世界では有名な男だが、やはりなんとも言えない雰囲気満載の男だった…椿ハウスで踊って疲れた私が帰ろうとすると「彌生ちゃ〜〜ん」といきなりブチューとキスして来てオマケに舌まで入れて来て、気持ち悪かった…😱

さて、有楽町阪急の隣は「BIGI」のお店で、店長がかなりユニークな人で、デザイナーズブランドのハウスマヌカンにしてはかなりな、ポッチャリさんだったが、えらい明るくて周りをホッコリさせる才能がある人だった、彼女は3歳年上で私を可愛がってくれて、私たちは意気投合しました、遂に、私に2人目の親友が出来ましたね、あんなに学生時代は友達が出来なかったのにいきなり仲良しが出来て私は嬉しかった、また私の店の店長も私を可愛がってくれて、苦手なメイクのやり方をイチから教えてくれた、私は有楽町阪急が大好きだった、客層も丸井に比べてかなり高く、売るのは大変だったが、販売力も阪急でついたと思う…

しかし、優しく美人の店長は店を移動になり、サブ店が店長になり、彼女は妙に「販売力」に自信があり「個人売上げ」をつけだした、昔、池袋サンシャインにいて(他ブランド)その店で個人売上げを付けていたそうだ、しかし、自信満々でやり出したら私の方が売り上げが良いのを知り、かなりムカついたのがわかった….

毎朝、ある喫茶店で私たちはモーニングのコーヒーを飲むのだが、彼女は毎日フラフラで喫茶店に来て「昨夜飲みすぎちゃってさぁ〜〜」ですから「…よく毎晩毎晩飲むわね身体に悪いんじゃないの?」本当に身体を心配して言ったのに、いきなりキレて💢店を飛び出しました。とにかく酒癖は悪いわ男癖は悪いわで困った人間です…

ある夜、寝ているとドアを叩く音がするので「ハイ?」と
開けると彼女で「どうしたの?」なんで私の家を知っているんだろう?「ちょっと今日泊めてよ」と言うから「わかった」と言い、家の中に入れてあげて、冷蔵庫を開けて麦茶をコップに注いであげたら、一気に飲み干し「お風呂にも入りなよ」とお風呂を勧めて待っていると、ナント!!!全く違う顔のオンナが出て来て内心「素顔がこれか!!!」とビックリ🫢しました。厚化粧の下はこんなに目の細い人間だったとは!!!「実はさぁ」「うん?」

赤ちゃん出来たのよね〜〜〜〜😳堕すお金が無いのよ、貸してくれる〜〜?????


なんだと!!!!妊娠?😳然も相手はわからないだと!!!!同棲している男じゃないんだ!!
相手はディスコで知り合った男で代官山のブティックの男の様な気がするだと????

「じゃあその男に出して貰ったら?」「信じてくれないわよ💢」「ゴメン、私、お金無いわ」「何とかしてよ💢」

しかし、友達でもなんでもない部下に堕胎の金をせびるとはこのオンナはなんなんだ????

翌日は2人で井の頭公園へ行きボートに乗って話しを聞いたが、もう4ヶ月だそうで堕すタイムリミットが迫っているそうな…いや?お金あれば貸してあげる、てか、もうお金あげるけど、個人買いのお金で給料ギリギリの生活なので無理なものは無理、オマケにこのオンナ、いろいろな所から借金していて、私もまだ三万返して貰っていないのよ

ブツクサと文句たれて帰って行ったけど、そもそもそんなに頼られる関係じゃないし、困ったもんだわ…そうしてある日、顔面蒼白で出勤して来るから「大丈夫?」「放っておいてよ💢昨日堕したのよ💢」と怒り💢いやいや、逆恨みは勘弁して欲しい、皆んなアンタが悪いんでしょ?

そして、彼女の同棲相手は「えっ!妊娠してたの?おかしいなぁ?俺たちこの頃してなかったよね?」と言って、同居を解消して逃げて行き…彼女の借金グセが有楽町阪急の社員から本社に苦情が来て、私は課長に呼ばれて、細かく質問されて、私も最初は知らぬ存ぜぬだったが、流石に腹が立っていたので「その通りです」と言いました、その後私を虐めているブランドリーダーのオンナに呼ばれて「…課長に聞いたけど本当なの?」私は同性だし、少しは私の苦労もわかってくれると思い「本当です、然も彼女は先日赤ちゃんを堕ろしました…」と言ってしまった…私は今度は吉祥寺PARCOに移動になった…

そして私は「口の軽いオンナ」のレッテルを貼られてしまった、なんで?悪いのはあっちでしょ?しかし、私は学んだ「余計な事は言わない事、却ってこちらが悪者になる!!!!」成金お嬢はひとつ大人になった…

第七章 私が接客した有名人

ハウスマヌカンをしていると、結構有名人を接客する機会が多かったのですが、1番印象に残っているのはビートたけしさんです。有名人てテレビに出ている時と実際は真逆な人が多いですが、彼はあのままの人で、ブティックに入ってくるなり「お姉ちゃん!良いのない?」と言うので「こちらなんか如何でしょうか?」とグリーンのスェードのスリッポンを勧めると「おっ!良いね!」と即買ってくれて「お姉ちゃん!電話貸して!」とブティックから電話して、たけし軍団を呼んで、皆さんワイワイしながら、たけしさんに買って貰い、ついでに当時はまだ円満だった元奥様呼んで奥様にも買ってあげて、本当に偉ぶらずなんて素晴らしい方なんだと感激してテレビで私が勧めたスリッポンを履いている所を発見して感動してましたが、最近、Netflixで「浅草キッド」を観て「なるほど!こんな素晴らしい師匠の影響なのにね!」と妙に納得しました…

次は美川憲一さんですね、あの方はキラキラしたニットが大好きで「なんかキラキラしたのないの〜〜」といらっしゃるんですが、必ずお菓子などを持って来てくれるんですよね、腰が低く優しくて、姐御肌(正解ですか?)で素敵な方でした、たけしさんも美川さんも人間性が素晴らしい🌟

あとは余りのイケメンで仰け反ったのが、佐藤浩市さんです、今の彼じゃないですよ?笑、まだまだ20代の頃の彼でスラッと背が高くて、流石三國連太郎の息子だわと妙に納得しました。

あとは、カウンターで事務仕事をしていたら、異常に細い脚に赤いパンプスと髪の長い女性が入って来て、トレンチコートを赤いベルトで締めていてウェストが、まぁ細い細い!!!!一緒に入って来た男性が「すみません○○の記者ですがあの方をここで撮影して良いですか?」と気かれたから「申し訳ありません、会社を通していただけますか?」そう言ったら…男性は彼女に近づいてあれこれ話していて…

さようでございますか…そう言ってお店から去って行きました…ナント!!!!あの有名なAV女優の黒木香さんでした!!!!あんなに細くてAV女優?とビックリ🫨でしたね…

などなど有名人を語ったら枚挙に暇無いのですが、最後は加藤和彦、安井かずみ夫妻で締めます、いや〜〜安井かずみさんて大和撫子なんですよ、常に夫を立てていて、私はしつこい接客は嫌いなので、彼女がフィッティングルームでお着替えをしている内にドアの前のカウンターにさりげなくターバンやアクセサリーを飾っておいて、ドアから出て来たら「あら?このターバンは?」「新作でございます」そうすると、顔をクシャッとして笑い、その笑顔がまた素敵で、ご主人も「素敵だよ」とニッコリすると「流石、和彦さん素敵💓」と、まぁお互いを褒めるんです、素敵なカップルでしたね…なかなか出来る様で出来ないですよね。

こちらに紹介したのは何れもショーケンから始まり「時代の寵児」ですが、やはり上に登って行く人は「腰が低い」「頭が良い」「どんな人間にも同等に接する」そんな人ですよね。私は彼等からかなり学ばせて貰いました、私はただのババアにしかなれなかったけれど笑笑

人間は常に腰を低く生きる!!!!これを学ばせていただきました…ありがとうございます✨



次は夫との出逢いになります…


続きます…

#創作大賞2024
#エッセイ部門






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