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「推し」のグッズに興味が無い、グッズが欲しくないオタクの生きづらさ(後・完結)


※(注意)デスノートのネタバレ要素があります

前回のあらすじ

オタクのはずなのにグッズに興味が無いせいで、中高生の頃は「オタク」のグループ内で「オタク」と認められず、疎外感を感じていた。
そして「自分は何オタクか」を考えすぎて病んでいたが、高校卒業以降は完全に一人でオタ活をするようになり、そうした悩みから解放され、自由な「推し活」ができるようになった。

これは一見「オタクコミュニティ」と「自分は何オタクか」という問いからの敗走、思考停止によって得た妥協点としての安定に見えるかもしれない。
しかし、そうではないのだ。

②どうやって抜け出したか:続き

直感に従うことは「逃げ」でも「妥協」でもない


少し話がオタ活から逸れるが、「自由を獲得する」と聞くと、私たちは歴史の教科書や、現実に行われているデモやパレードのイメージから、なんとなく「こうこうする権利を求める」といったような「自由」の具体的な定義が予め決まっていてそれをなんとかもぎ取る、といったプロセスを想起する人が多いのではないかと思う。

※念のため述べておくが、ここでの自由とは「内心の自由」「表現の自由」のような「〇〇の自由」形式の、ミニマムな自由を示している。




そして一般的にはもっぱらこの「自由のための戦い」の段階が強調されるが、実際にはその手前の、「何の自由が必要か」を知る事、つまり自分の欲求の自覚の方がより重要なのではないだろうか。

実際には、不合理なルールに支配された世界の中で、新しい「自由」の定義といった創造的な営為に携わるのは難しく、息苦しい規則をやり過ごすための対症療法を練る事に終始するのが現実的なラインだと思う。
そしてそもそも自分の望むものが既存のルールによって形作られた言語で説明することが不可能に近いようなケースもままあるだろう。

要するに欲求は、抑圧的な世界で急に自分の心の中に降ってくる天啓のような性質のものではなく、むしろ強制力の無い環境の中で直感的な行動を積み重ねる中で少しずつ後からその輪郭が表出してくるものなのではないか、ということだ。




世間的なイメージとは裏腹に、自らが「異端」とされる状況下で自分のアイデンティティをいきなり「これだ!」と確信するのは容易ではない。

そしてその難事を成し遂げたからこそ、先人たちは偉大なのだ。


「自らを証明して見せろ」という圧からの逃走は決して「敗北」ではない。
直感的に、本能的に行動することは「浅はか」ではない。

思いのままに生きることによってはじめて、自分の行動原理や思考を、生き方によって実現できるのだから。

別に言語化に焦らなくても良い。自由な生活を過ごす後でおのずと得られる知見の方が、抑圧というストレスに抗いながらかき集めるそれより大きいのだから。

「自分は何者か」「自分は何故異常なのか」を既存の概念に照らし合わせて考え続けるよりも、まずは深く考えすぎずに自分のしたいことをするべきだ。その方が結果的に問いの答えには早く近づけるはずだ。

「自分が何オタクか」の答えが見つからず、居心地が悪いから、コミュニティを抜けるのは決して「敗走」なんかじゃない。

あなたがストレスなく、楽しく、思いのままに過ごすだけで、あなたはあなたを抑圧する世界に勝利できるのだから。


③忘れてはいけないこと

めでたしめでたし、でこの記事を終わらせようと当初の私は計画していた。しかし、ここで終わってしまっては、真に「今」苦しんでいる人のための記事ではなく、ただの思い出語りになってしまう。なので私は下の問いに対する、現時点での答えをここに残しておく。

そうだとして、あの時の私はどうすれば良かったの?


自分が「グッズを買いたい」という欲望を理解できずに自分が属せる唯一の集団の中で疎外感を感じ、
またその他の方法でそこでの地位や安定を得るプランも描けない。
現実にも、ネット上にも「オタ活」への感覚が近い人間は見つからない。
このシチュエーションで、私はどうすれば良かったのか。

今の私に思いつける手段は二つある。先に断っておくが、どちらのメソッドにも私はまだ納得がいっていないし、これからも模索を続けたい。

もし、かつての私と同じように悩み、その結果としてこの記事に辿り着き、ここまでの内容に共鳴してくださった人は「結局答えは無いのかよ」と失望するだろう。本当に申し訳ない。

そしてもし、私の知らない「答え」を持っている方がいたら、どうかそれを独り占めせずに、多くの人に見えるように発信して欲しいと願う。


では、お待たせしました。
「グッズを買いたくなくて周りとうまくやれないオタク」の生きる二つの道、その一つ目は
「これは『推し活』ではなく友人同士の交流、思い出作りなのだ」
と受け止めてグッズを買う、である。

これは心地よく友達でいるための必要経費なのだ、とクールに割り切ってしまえばいい。あなたの周囲のオタク達も、口に出さないだけで本当はこう思っているのかもしれないし。

コンテンツへの熱意という証明のしようがないものを、疑似的に物質化して結束を強める先人たちの知恵を利用できるだけ利用すればいい、という考え方だ。

自分の感覚やポリシーと反しているとしても、そうしなければならないのは友達の前だけで、ほんの少し我慢すれば済む話なのだ。



そして二つ目の対策はその逆、上でも述べた
「『オタ友』を作らない、または『オタ友』とのコミュニケーションを制限する」
だ。ここでの「オタ友」は「オタクの友人」という意味では無く、「『オタク』という共通項のみで繋がっている友人」を指している。

気の合いそうな人と「推し」を通じて仲を深める際に、他に自分たちをつなぐものが無いか、またはそれを作れないか確認しよう。

そして、一緒に好きなコンテンツに触れる中で、少しずつでも良いから「オタク以外」の共通要素を積み上げておこう。

そうすることで段々と、こちらもユニークな感性を発揮できるようになるはずだ。

また、それが難しい場合はリアルの「オタ友」を作らずに、実際に会う機会が少ないSNS上でだけ「オタ友」を作るなどの形で、自分が苦しくなる機会を減らすために予めコミュニケーションを制限しておくのも有効だ。


私が挙げた二つの方策は、どちらも「グッズに興味が無い、買いたいとは思わない」という感性を「正常」な方向に曲げてしまうのではなく守ったまま、人間関係で浮かずに過ごすための知恵だ。

この記事が一般的な「推し活」や「推し」のファンダムでは異常とされる感性を曲げず、自分の「好き」を守ることができたなら幸いである。

かつての自分を疎外する「あちら側」にならないために

また、自分の思い出の話に戻ってしまうが、私は長い間、記事の前編の①で書いたような自らの二次元オタク縮小版「アイデンティティの闘争」を記憶からすっかり抹消してしまっていた。まあ愉快な記憶ではないのだから当然だ。

そして忘れたまま、もっと現実的なアイデンティティや将来について悩んでいた。具体的に言ってしまうが、自分の性愛に対する観念と、世間とのズレを擦り合わせて誤魔化すことが、いよいよできなくなってきていた。


そして自分のセクシュアリティ・ジェンダーを自問自答しすぎて感性がゲシュタルト崩壊を起こし、自分が何を考えているのかが、暑い寒いすら感知できないレベルで分からなくなっていた。

そして、その時期に高校時代の「オタ友」であるEと会い、久々に二次元の話をしていた。そして、①で語ったあの「話が通じない」感覚を久しぶりに味わい、それから中高生時代の暗黒の日々を、単なる記憶としてでなく実感として思い出した。

本当にフィクションで記憶喪失になった人が全てを思い出すシーンのように、当時の感覚が自分の脳内に一気に流れ込んできた。


マジでこんな感じ



そして、その蘇った感情の数々は、自分が今まさに抱いている絶望感と、呆れるほどにそっくりだった。

自分が今いる地獄からどうやったら脱出できるのか、は分からないが、かつての地獄から逃れて手に入れた自由の感触は自分の経験の中に存在する。

その観点から「オタク」の自分を改めて観察した時、浮かび上がったのは「オタク」の私はオタクとしてマイノリティ側であるにも関わらず、自分の属するカテゴリについて自問していない、という点と、それでもこれ以上無く自由に振る舞っている、という事実だった。

「現実」を生きる私はこれに大きな衝撃を受けた。
私は「自由」や「アイデンティティ」は充分な言語化と、適切な名前を与えられた後で、容器に水を注ぐような形で得られるものだと捉えていた。
だから今、こんなに必死に自分のカテゴリを探しているのだ。

だが、既に「自由」を手に入れた「オタク」の私は、「自分」を証明しようとなどしていなかった。
だから、先程の論理に従えば、私は自分のアイデンティティを知らないはずだ。
それなのに、私は紛れもなく自分のしたい、世間的には奇妙な「推し活」を確信を持って体現できていた。

そうか、「自分」は言葉だけでなく行動によっても表現できるのだ__!

これは大きな気づきだった。そして「オタ友」のEとの会話で、自分の欲望の「オタク」的コンテクストによる言語化の不可能性を再確認した。

「異常性」はデジタル画面のように既存の枠組みに存在する項目の「ある/なし」の集積で捉えきれるものではない__!

これもまた、大きな気づきだった。




この二つの気づきにより、私はようやく
「自分で自分を疑ってはいけない」という手垢の付いた教訓を、自分のものとして納得できた。
そして直感に従って行動する中で自分を知っていこうと、そう考えられるようになった。

しかし、とりあえず今の自分はそれでいいとして、再び胸中に蘇ってきた「中高生の自分」は、高校卒業までじっと歯を食いしばって耐え抜く以外に、どうすれば良かったのか。




今の自分には、上で述べたような対症療法を思いつくことができるが、学校以外の選択肢が制限された、精神的に追い詰められた10代の子供がああいった俯瞰的な視点ありきの考えに自力で辿り着くのは少し難しいだろう。

そして、数年ぶりに「オタク グッズ 興味ない」や「オタク」という廃れ気味のワードを今時な「推し」に変えて検索してみても、相変わらずあの頃の自分が「私と同じだ!」と文句なく共鳴できる知見には出会えなかった。

だが、具体的な解決策以外にあの時の自分が欲していた、ネットで探し回ったもう一つのもの

「なんでグッズが欲しいと思うの?」

と「オタク=グッズを買う」の図式に疑問を感じている自分以外の存在に、私はなることができる。

あの時、私と同じような人間がネットに沢山いたら、

「ああ、世の中なんてそんなもんか」と割り切ってグッズを買い、取り敢えず「輪」の中に入れたかもしれないし

「これだけ多くの味方が、ネットの向こうにはいるんだ」と迷いなく自分の好きを貫く為の、今の私にも思いつけない行動を考えつけていたかもしれない。

そしてそれをしないまま、自分だけの幸せを享受していた私は、過去の自分にとって
他の「楽しそうに過ごし」ていて
「輪に入れている(ように見える)」ことで
私を除け者にするオタク達と、
側から見れば全く同じだった。

私は過去の苦しみを忘れて、かつての自分が最も憎んだ存在になってしまっていたのだ……。

今の子供達にとっての「推し活」はそれ以外の生活や、学校での人間関係にどう影響しているだろうか。




曲がりなりにもアングラで、排他的であろうとする姿勢を象徴していた「オタク」が廃れ、
「隠キャ」「陽キャ」に開かれた「推し」がメジャーになった今、こうした「オタク」の「輪」へのメンバーシップを得るための闘争に明け暮れる中高生はあまりいないのかもしれない。

いや、「推し」の輪がさらに大きくなった分、そこに入れなかった者の絶望観や孤独、怒りはさらに大きくなっているのではないか。なんとなく、そんな気がする。

私は、
「自分が幸せならば他の人間はどうでもいい」
とでも言わんばかりに、喉元を過ぎた苦闘の日々を忘れ、きっと今も、かつての自分と同じように疎外感に苛まれている人々を間接的に加害する「あちら側」になってしまっていた。

そしてもう二度と、加害者にならないためにも、「苦しかったこと」は形にして、現在進行形でその苦しみと闘う人々に見えるようにしておくべきなのだとも気づいた。

この記事は、中高生時代の私と、今まさに「推し活」コミュニティでのアイデンティティの確立に苦しんでいる方々に対する、せめてもの懺悔である。


追記(レスバトルから心を守るために)

いわゆる「グッズを買わないオタク」への批判として、「ファンならばコンテンツに金を貢ぐべきだ」型の論理がよく用いられる。記事の趣旨からは少しズレるが、自分の「好き」を守るための知恵として、一つの論理をここに記そう。それは
「純粋な『欲しい』ではなく『貢ぐ』ためにグッズを買っている時点で、あなたはこのシステムの欠陥をバラしている」
だ。
あなたは、スーパーに貢ぐために野菜や肉を買うのですか?
また、「ウチが潰れたらどうするんだ!」と脅迫するような店主がいたら、どう思いますか?

「まずはそっちが経営を見直せよ」

そう思うでしょう。ファンの熱意を同調圧力に転換する事でなんとか存続するシステムは、ビジネスとして正常ではないだろう。そしてその欠陥に気づいているから「貢ぐ」のワードが口から出てくるのだ。
この「二次元コンテンツのマネタイズの難しさ」はufotableの脱税疑惑裁判で近藤氏が語った通りである。


また、これらの「グッズ依存」脱却のため、本家たるコミックス等の単価を上げるべきだ、という議論だって既に存在しているのだ。

「愛しているのならグッズを買え」と息巻いてコンテンツを支える感覚に酔う人間は、穴のあるシステムの駆動を手助けし、より良い方向に向かうのを阻害しているに過ぎない。私達には、消費行動で自分の意思を示す権利がある。

もちろん、この主張はグッズを買いたくて買っているファンを貶めるものではないし、ファンダム同士の「積んだ」金額の競争自体を最大のアピールポイントとする一部のジャンルには、この論理を適用できない。
そしてそもそも、この主張を本当に一般的なオタクの前で口に出せばほぼ確実にあなたのオタクとしての社会生命は終了する。

とはいえ、こうした考え方やこうした思いを抱く人間の存在を頭の片隅に置くことで読者の方が少しでも日々を楽に過ごせるようになったならばこれ以上の幸せは無い。


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