猫日和 6 台風11号猫〈2〉
私達一家の家は、一軒家を上と下に分けた2世帯住居だった。階下は夫の両親が住み、義父は会社員、義母は編み物教室を開いていた。
玄関はひとつ。風呂もひとつだったので、正確に2世帯住居だったわけではない。
編み物教室と言ったら、毛糸の宝庫。
猫が好きではない、という義母だったので、猫がその商売道具の毛糸玉を転がしに階下に行かぬよう、また、広い床張りの編み物教室を探検して遊び場にしないよう、2階の入り口には簡便な扉をつけた。
1階には行ってはいけないよ
と言うと、不思議に猫達は階段を降りて行くことはなかった。外に出たい時は、2階の物干し場から、隣との境界となっているコンクリート塀の上に飛び降り、塀の上を歩いてグルリと回ったり、そこから地面に降りたりして、また、塀の上からベランダを経て、部屋に戻って来た。
台風11号猫も、塀の上を歩いて家の周りをグルリと回るのが日課となっていた。時々、塀の上で休んで、風に吹かれているのを見ると、塀の幅は10センチそこそこであるので、身体はゆったりは乗らない。バランスを取って乗っているのであるが、腹の肉と長い毛が塀の両側に垂れて、マットを干したようになっている。
そよそよと風が吹き、柔らかな毛が揺れて、風の匂いを嗅ぐ猫の睫毛までも風になびいて揺れているようである。
フランソワ!
娘が突然に笑いながら声をかける。
え?フランソワ? 本当の名は違うのだ。
え、だって、うちの中じゃオヤジだけどさ、外に一歩出ると、何やら高貴な猫に見えるんだもん、そう呼んでみたくなった
確かに。
そして、フランソワは、領地の見廻りをして、侵略者がいると果敢に闘って追い払う。
ある日、お隣の奥さんから突然に電話がかかってきた。外で猫が喧嘩をしている声が聞こえていた。
あのさ、今外で大声で喧嘩してる白い大きい猫、お宅の猫じゃない?
そうですよ、と言うと、
やめなさい!って何度言ってもきかないから、石ぶつけといたわ。お宅の猫じゃない方に。
うわぁ。なんてお茶目な奥さんだろう。
まぁ、奥さんの腕前では石は大抵は当たらないだろうし、小さい石なら怪我もしないだろう。猫の喧嘩の仲裁をするのに、やめなさい!と叫ぶのも、とっさに石を摑んでそのような行動をするのも、石を投げたからと電話してくるのも、私には初めての経験だったが、なかなか面白い環境ではある。
🚗•*¨*•.¸¸♪
彼、と敢えて言うなら、性格の穏やかさ、その優しさ、心の広さ、温かさは、猫を超えたものがあった。
毎晩眠る時には、必ず私の枕に手をかけて眠った。そして、朝、私が目覚め、台所で朝食の準備をするため起き上がるまでは、ずっと側に伏して侍っていた。飼い猫が食事を要求して、朝早くから飼い主を起こす、という話を聞くが、そういうことは一度もなかった。
私は、毎晩その白いフカフカした太くて柔らかい手を握って眠った。
辛いことがあると、その柔らかい手に顔を押し当て遠慮なく涙をゴシゴシ拭いた。それを手を引っ込めるのではなく、当たり前のようにふかせて、濡れてしまった手の先をペロペロ舐めていた。
全てを受け入れ、守り、包み込む。あの頃涙に暮れることの多かった私の心の平安は「彼」によって保たれた。
この突然迷い込んだ猫は、神から遣わされた猫に違いない、と私は思った。
私は彼に、イワン、という名をつけた。
それは風貌が洋風であったためだが、後にロシア語でのイワンは、聖書にある聖人ヨハネのことと知って、密かに納得するものがあった。