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取り残されたうさちゃんとわたし

 子ども頃から絵を描くのが好きで、それは姉がやっていたことの真似事だったのかもしれない。姉が読む少女漫画、姉が描く少女漫画の絵、姉が送る懸賞ハガキ。それらを真似していきながら、わたしは絵を描いてきた。姉はアニメや少女漫画の絵を模写していた。わたしも模写した。わたしはたまごっちとかアニマル横町とかいわゆる「人外」も好きだった。姉の描くキラキラした女の子たちも好きだが、何を考えているかわからなくて、平面的に表現されているから可愛いと思えるビジュアルをしているウサギのようなイヌのようなネコのようなクマのようなヒトのようなそんな生き物も好きだった。

 わたしも姉も共通して奇妙なうさちゃんをかいた。耳はネズミのようそびえ立って、二足歩行している。目は10本アニメの彼らのように細長く、鼻という鼻はない。口はできるだけ左右対称な波線に舌のようなものがくっついている。これは開口している状態だ。口を閉じている時は波線だけで表す。頬の赤みを斜線で表すのは姉で、こぼれ落ちそうな楕円で表すのがわたしの描き方だった。実際のウサギは大幅にデフォルメされ、記号の集合のようにも見える。
この描き方はアニマル横町のイヨというウサギのキャラクターを模倣してると思われる。同時にSanXが発表しているキャラクター、リラックマなんかも体の形に影響を与えているだろう。2人とも、どちらのキャラクターも知っているので似ている。そしてわたしと姉の描くもので今も似ているのがうさちゃんという生き物だ。

姉の描くうさちゃん(左) わたしの描くうさちゃん(右)


 ぱっと思いついた思想がアニミズムだった。詳しいことは言えないが、アニミズムの過程でこのようなうさちゃんを生み出していったのだろうか、と。やがて姉は絵を描かなくなるのだが、それでも今うさちゃんを描かせたらこれを描く。
 「アニミズムを通して生きているものと無機物を峻別していく」 アニミズムとGoogle検索をかけてトップにでてきたサイトにはそう記してあった。アニミズムの解説について1度は納得させられたが、今回のうさちゃんと関連付けて再考するとなんだがそれだけではないという風にも思えてくる。ウサギはもともと命あるものだし、人間には理解できない言語や行動でウサギ同士コミュニケーションを図っているだろうし…。そうなるとアニミズムでは無いのだろうか?だが、うさちゃんという存在はウサギには程遠く、生命がないと言えばない。紙に鉛筆で描けば、それはただ、紙に黒鉛の粒子が並んでいるだけだ。

 先日、姉が習字を習っていた時の話をしてくれた。わたしも教室で体験したことがあるのだが、すぐ墨をこぼすし、同じ文字を窮屈な方法で書くことに慣れず、わたしは習字を選ばなかった。そういえば、習字を楽しくやっている人の感覚を聞いたことがワクワクしながら聞いた。姉は「文字の形を修正するのが好きだった」と言う。紙面を16分割した時、当該漢字のハネがここの辺りに来て、はらいがここらへん…というように書いていたらしい。想像以上に機械的だと感じた。姉も探り探り話している様子だったが、その感覚に間違いはないらしい。習字に対して、一筆一筆を生き生きと書くものと思っていた自分にとって、その話は衝撃だった。中学生の頃、「習字」と「書道」の違いを教えてくれた同級生がいた。当時は上手く理解できていなかったが、恐らく、私の持っていた習字への偏見が書道の持ち味で、習字は別の意味を持っているんだろう。私が感じていた窮屈さは、書道の作品を見る限りそうそう感じられないように。姉は一筆の美しさより、全体のバランスを見て書いていたらしい。書いている最中は上手くいっていないと感じるが、見返すと上達してるなと思うこともあったらしい。そして、自分より上手い人がいると、「負けたくないなあ」という密かな競争心を燃やしていたらしい。

 わたしは習字をやらず生け花をやった。そして絵を描き続けた。漫画の模写も自分のキャラクターも描いたし、中学高校で絵画にも興味を持ち始めた。姉はそんな私を見て「自分より妹の方が上手いから描かなくていいや」と思い、中学生の頃には漫画やアニメを観たり読んだりするだけになった。わたしは悲しかった。姉は絵を描くことが心の底から好きではないからやめたのかなとか、描く元気が無くなっただけで、またいつか描き始めるんだろうなとか思っていた。今のところその予兆はない。
わたしの描くうさちゃんは変化した。もはやうさちゃんという名前ではない。「くま」という名前のうさぎのような何かだ。

 「くま」という名前のうさぎのような何か

 ウサギの目は存外小さいということに気づき、30度ほど上につり上がった点を「目」と見なしている。耳はだらんと垂れ下がっていて、なすびのようだ。身体は萎んだが相変わらず二足歩行をしている。

 姉と共に描いて、「うさちゃん」という共通認識をもった絵。わたしのうさちゃんは変わってしまったが、姉のうさちゃんは変わらず10本アニメの彼らのうち、2人を誘拐してきたかのような目をしている。姉は昔に取り残されているのではないだろうかと思うのだ。アニミズムなのか、ただの記号なのか。諦めの方が勝るとろ火の競争心が悪さして、姉は楽しいから描くという感覚を過去に捨て去ってしまったのではないだろうか。

 今も姉はたまにうさちゃんを描く。わたしはリラックマの人形に名前を付け、毎日遊んでいる。姉はどちらも「可愛い」と言う。その「可愛い」にわたしは取り憑いてる。昔のように、同じものを可愛いとか楽しいだとか思えることに、病みつきになっているのだ。そしてまた明日も大人になってしまった姉にじゃれついて、わがままを言って眠るのだ。

取り残されたうさちゃんとわたし 
(おわり)

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