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自画像について

東京藝術大学では卒業制作でポートレートを必ず制作するらしい。
その話を聞いてから自画像について考え始めた。わたしは写真を撮ってから絵を描くという手順をとっているので、自分の顔を写真に撮って筆を持つことになる。でも生まれてこの方自撮りに対するいい印象を持ったことがなかった。

大学生になってしまい武装の化粧を手に入れ、美容系ユーチューバーの動画を見たり、かっこいい女性インフルエンサーの化粧を真似したりして、生まれてからずっと太っていることに加え不潔だった自分の尻を叩き全く違う顔を作り出している。さすがに太り気味なのは覆せなかったが、毎日風呂に入ったり、洗顔したり、衛生面ではかなりの成長を遂げた...。さて、大学の同級生から「かわいい」と言われる度にむずがゆい。かわいいと言われて嬉しいのだが、なんだか素直に受け取れず、「ふ、ふぅ~ん」みたいな返事をしてしまう。以前よりも化粧品に詳しくなったが、特段精通しているわけでもない、シャンプーやリンスは家族共用だし、化粧水や乳液はめんどくさくてつけてない。おそらく自分は上辺だけで化粧をしてその深さがないことを自覚し、自分の可愛いが簡単に割れて元に戻らなくなることを自覚しているのではないだろうか。一端の絵描きとして自分をよりよく見せるための色を選び、塗る。キャンバスが自分の顔になっただけだとしても、自分の顔への自信は思ったよりもつかないものだった。

そこでセルフィーを始めた。セルフィーは自分の顔に自惚れている人間がやることだわと思っていた。実際自分は自惚れている。鏡に映る化粧後の自分は別人で、かわいい。よしここでいっちょ写真を撮っていくとするか。外カメラ、内カメラ...とりあえず内カメラか。いざ撮ってみる。うーん不細工。
写真を撮っても、鏡に映る自分の色にはならないし、顔が大きく見えるし、鼻がぬぼっと主張している...。セルフィー...奥が深い!!

そこから日にちが経過しあらためてセルフィーした。かなり自分好みの写真が撮れた。もしわたしが顔出しして宣材写真を設定するならこれだわってぐらいにイケメン。理想の写真は女性のようにも見えて男性と言われたらきゅんとする写真。つまり世にいう男女というものの中間である。
ある日風呂場でセルフィーすることにした。外カメラにして、少し濡れた横髪をエラの張った輪郭を隠すようにして整える。多少乱れた感じがエモさに繋がる。10何回かシャッターを切って撮れた写真を見てみると、え、エモい!!どの写真も大人や社会、恋人、家族なんかへの反骨精神で溢れたそこら辺に居そうな自己主張がインターネットでしかできない少年少女っぽい!思い切って何十枚か撮った。すると自分は下から撮った写真が映えることに気づいた。それに加え、よく言われる斜め45度が自分も綺麗に見えることが判明...。社会の通説は意外と自分にも当てはまるのかとコップ一杯分くらい落ち込んだが、可愛いのでそれでいいか。この日撮った写真は全裸だったのでスマホに入れておく訳にもいかず、秘密の場所に保管した。いつかこの写真の中から絵を描きたいと思うほど、自分を美しいものだと感じることが出来た。

自画像というのは、鏡や写真をとおしてからしか描けない。いつもは見えないはずの自分の顔が見えてしまう鏡や写真が本当をうつしているとも限らない。それなのにこれが本当だと信じて描くのは、揺るぎない自分への信頼、もしくは鏡や写真への信頼、もしくは揺らぐ自分への言い聞かせか諦めかもしれない。わたしはどうだろう。化粧をした上っ面の自分と長年連れ添ってきた不潔で太っっている自分。少なからず2人の顔を知っている。もしかしたらもっとあるかもしれない。それを何らかの形でひとつのキャンバスに収めたものが己の自画像と言えよう。現段階での考えだから変化していくことを止めることはできない。もうこれを書きながら、すでにこの考えに違和感を抱き始めた。自己の探求は止まらない。自己は上辺だけでは語れない。

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