書けないは、書くまでの長い助走
ちょっと前までは2日に1度は何かしらnoteを書いていたのに、気がついたら週に1本のペースに。
書けなくなることは悲しいことではなくて、単なる一定の周期でしかなくて。だったらその謎を解き明かしてみようと、こうして何かに深く向き合いたいときに「書く」はとても向いているから。
久しぶりなんて言葉をかける間もなく、思考と連動して動くこの指と、書かれた文字を目で読んで、その先を書こうとする指の働きとともに。
「頼りがないのは良い知らせ」というように、頭がすっきりとして充実した日々を送れているときこそ、書くは離れていく気がします。
反対に、思い悩み、頭がこんがらがっているときほど、書くに頼りたくなります。仕事でも同じでやることが溢れかえってしまったとき、ホワイトボードに一度、書き出してみて、眺めながら優先順位をつけているうちに頭が整理されていく。
「書く」の力を借りながら、すっきりと整っていく状態に向かっていく。そうならば、はじめからすっきりと整う毎日を送っていたら「書く」は不要であるわけで。
充実とは何かというと、没頭できる日々がある、ということだと思っています。
今は八々の活動でも向き合って没頭させていただけるパートナーさんに恵まれていて、本業の仕事もそれはそれで楽しく没頭させていただいている。
小さな困難はあるけれど、思い悩むほどの大きな課題も人間関係のこじれもない。平和ではあるのです。
こうして書いてみると、とてもつまらなく見えてしまいますが、本人は楽しい。側から見ると、そう見えないだけ。
没頭をもうすこし開いてみると、遊ぶようにしてものづくりをしているんだと思います。
あの山の頂上まで登りたいという人がいて、誘ってもらって、普通に登るのも面白くないなとぼんやりしていると「あっ、こうやって登るのどうかな」と思いついて、誘ってみたら「それ面白そう!」と一緒になって盛り上がる。
山に登るという事実は変わっていないのに、急に視界が晴れたようにワクワクしてきて。
それは、大半がAルートで行く中で、「あれ、こっちから行くと途中でめちゃくちゃきれいな景色が見えるらしいよ!」とルートBを発見し、登る道中さえも楽しくなってしまうような。
そうした山登りを、仕事でも、この八々の活動でも、すべてのものづくりで行えていること。それが没頭するということなんだと思います。
そして書くことは、冷静になって少なからず現実に戻ることだから、もう少しだけ没頭していたいから、書くことをしない。
小説の世界に浸っている途中で、読むのをやめたくないのと同じように。
こうして遊んで没頭できるものづくりは今になってこそではないけれど、昔ほど意固地になっていたと思います。
自分の思い通りに遊びたい、見つけた遊びを独り占めしたい、自分の遊び方に深く共感してくれる人しか一緒に遊ばない、などなど。
自分の中だけで完結していた。想定した範囲内で遊んでいたかった。
それが今は違う。
相手の出会いと生まれる新しい遊びを見つけることが楽しくて、それは自分一人では辿りつかない遊び方で、同じように遊ぶ楽しそうな相手の顔を見て、もっと頭を捻りたくなる。考えたアイデアを現実にしたくて、ものづくりに魂を込める。
やっと、自分を取り巻く想定外の事態を遊べるようになってきた。
これが、大人になった証なのかもしれません。