見出し画像

番外ブログ 私とテクノポップ

ごきげんよう、YAYAです。

普段このnoteでは連載小説「ミラーボールサーカス」を書いているのですが、私はプロモーションが苦手で読者に何も挨拶せずに初めてしまったなと思いこの記事を作成することにしました。

私は歌とダンスが小学校の頃から好きで、自分も表現者として活動しながらエンタメ系の仕事をするのが夢です。その中に出版したいという目標もあり、勢いで小説を投稿したのがこのnoteです。

歌やダンスはyoutube、tiktok等で投稿してるので是非「YAYA」を探してみてください。
チャンネル名はYAYAの千日回峰行です。

さて、そんな私がなぜ表現の世界、いわゆる音楽業界を目指しているのか。それには強いきっかけとなった音楽ジャンルがあります。

「テクノポップ」です。

テクノポップと聞くと世代によって思い浮かぶアーティストが違うかもしれませんね。
私にとって一番最初にこの言葉を知ったのは「Perfume」でした。

実は私の母がCAPSULE、中田ヤスタカ氏の作品が好きでPerfumeはブレイク前から母の車でかかっていました。(たしかComplete bestの辺りから。)

当時私は不思議な曲だなと思っていましたが、徐々にPerfumeの曲っていいなに変わって行きました。
それが小学校低学年くらいの頃です。

そして小学校5年生の頃から私はダンスをやりたいと思い始めたのですが、(このエピソードはいつか別に書きます。)特にこれといってやりたいダンスのジャンルはありませんでした。

ある日音楽番組をつけていたら、Perfumeが出ていました。私はそれまで曲は知ってるけどPerfumeのダンスをちゃんと見たことはなかったのですが、一緒に見ていた母が「Perfumeのダンス面白いよ。」と話していました。

その時やった曲は「Spring Of Life」だったのですが、それがもう衝撃でした。今まで見たどのダンスのジャンルとも違うと感じました。

中学に入ってからはゲーム機の中のレコチョクのソフトでPerfumeを聴きまくりました。それでテクノポップサウンドが大好きになり、似たような曲を片っ端から探して聴いてました。

また中田ヤスタカ氏、MIKIKO先生との長く続くチームワークから長く一つの作品をみんなで作り上げることに興味を持ち、振付師やプロデューサーの仕事をしたいと考えるようになりました。

CAPSULE、きゃりーぱみゅぱみゅの曲もほぼ聴いたしボカロとかtempura kidzとかまあそういったのを聴いてましたね。あとはNegicco、BABYMETAL、女王蜂といったPerfumeきっかけで出会ったアーティストやバンドを聴いてました。

実は私は学生時代本当に生きるのが辛かったのですが、Perfumeがいてくれたおかげで夢を持ち続けることや人に感謝することを忘れないように生きようと思えたので本当にPerfumeは私にとっての神です✨

とにかくPerfumeに出会ってから私は音楽を聴くようになり、色々知っていく中でかつて日本にはYellow Magic Orchestraやテクノ御三家と呼ばれる人達がいたようなのです。

ただ実際に映像を観てもYMOはああ、この曲ね、という印象で、何かの流れでたどり着いた「美術館で会った人だろ」という曲に関しては歌詞が怖くてすぐに聴くのをやめてしまいました。
(実は父がそっち方面のテクノが好きで2D or NOT 2D、フルヘッヘッヘッヘが家でかかったりしてたのですが、変な曲、やめてくれーと当時は思っていましたw)

それが中1の頃で当時は全く惹かれなかったのですが、高校に入ってから「戦場のメリークリスマス」という曲が好きで勉強中に流したりしてました。当時は外国の曲だと思っていました。

私は高校卒業後オーストラリアに留学したのですが、高3の春休みにテレビで坂本龍一教授のドキュメンタリーをやっててそこで教授がYMOの人だと知りました。

またほとんど同時期だったと思いますが、youtubeのおすすめに平沢進という方のライブ動画が出て来てたまたま再生したところ、こんな星新一や筒井康隆みたいな世界観を音楽ライブでやっている人がいるんだと驚きました。(私は学生時代からSF好きでもあります。)

私の母はよく「出る杭は打たれるけど、出過ぎた杭は誰も打てない」ということを言っていましたが、その言葉はこの人のためにあると思いました。

それから留学生活が始まってから何度かおすすめに出てくる曲を聴き、YMOの「東風」がかっこよくて戦メリが教授の曲だと知って若い頃のYMOがかっこいいー!とか平沢進って美術館で会った人だったのー!とか色々衝撃をくらいました。

またオーストラリアでは日本映画祭というものをやっていて何故かそこではマニアックな映画を上映しており、星くず兄弟の伝説とか、AKIRAとか今敏監督の作品とかそういったものをやっていたので私は80年代の日本のニューウェーブが大好きになっていました。

その中でそう言ったジャンルのアーティストが言ってることが今まで誰にも私が話して来なかったようなことを話していたりしたので、自分のこの考えは別に変なわけじゃないんだなと自信になりました。
(例えば今まで好きだったものが急に嫌いになるとか、他者から求められる自己像が自分の理想としてる像と乖離しているとか…。)

思想的な話も日本人は言うと嫌われると感じる人もいますが、より良い作品を作ったり未来を考えるためにももっとアーティストは思想を持って良いと私は考えます。

そうして留学から2年目の2020年、世界的なパンデミックによりオーストラリアはロックダウンになりました。まあ直前まで大規模なイベントがあったりしてたんですが、日本ではPerfumeのライブが中止になったりして大変だなと思いました。

この先未来はどうなるんだろうと不安になるのと同時にでもこの状況ってテクノやSFの作品で何年も前から似たような演出があったりしたよね、とかあのアーティストはこんなこと言ってたな、あの曲の歌詞って今にぴったりだよね、とか想像が膨らみ私は2020年は実はテクノ、SF史にとって答え合わせの年だったんじゃないかなと思っています。(AKIRAも2020年だもんね。)

そういう答え合わせをし、自分の思考を深めていく中で自分がおかしいと思うことを回避し、一度も感染することなく留学の3年を乗り切りました。
(まじでオーストラリアは監視社会寸前の状況になりリアルで色々なことがオセアニアでは常識なんだよ、ということがあったのでその話もいつかお伝えします。)

日本に帰ってからは平沢進師匠のライブで泣いたり、戸川純の人生相談に2回採用されたり、ハルメンズのライブに行ったり、フェスできゃりーぱみゅぱみゅや石野卓球を見たり、8 1/2の久保田慎吾氏に会ったり、Perfumeのライブで泣いたりしました。
(Perfumeと師匠のライブはどれも泣けます。)
髙橋幸宏さんや坂本龍一教授の訃報は非常に残念でしたが、いつか細野晴臣さんに会うことが今の願いです。YMO関連の仕事もいつかしてみたいです。

とにかく私は何が言いたいかというと、色々な意味でテクノポップに出会ってなかったら今生きていないだろうと思います。この人達がきっかけで今でも世界中あらゆる世代の音楽を聴いています。

この積み重ねや経験が何かの役に立つかはわかりませんが、私には留学中から持っているある野望があります。

それは「テクノポップをダンスのジャンルにすること」です。

やっぱりPerfumeのダンスは独特で素敵だし、これからテクノロジーが発展していく中でああいったテクノロジーと共存したダンスが増えていくだろうと思います。またそれと同時に日本にはこんな素晴らしい曲、面白い曲があるんだということを色々な世代や世界中にもっと広めたいとも思います。

過去の良いものを掘り起こし、未来を予測し、現在と同機する。全ての点と点を繋げる。これこそがテクノポップ的精神の一つなんじゃないでしょうか。

まあそこまで気張ってやらなくちゃ!夢を実現させなくちゃ!みたいなのは教授や師匠に「やかましい」と言われるかもしれませんが、好きなことを気まぐれにやりながら、それでもいつかPerfumeと同じステージに立てる日に向かってこの道を走り進み進み進み続けます。

以上、YAYAでした!またこんど!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?