小説 開運三浪生活 64/88「岩手県立図書館」
三年目の浪人生活を本格的にスタートしたゴールデンウィーク初日の朝八時半、くたびれて色が薄くなった紺のジーンズによれよれの黒無地シャツという垢ぬけない格好の文生は、開運橋を渡っていた。出来の悪いロボットのようなぎこちない足取りで、やや上体を反らせ、彼なりにゆったりと歩を進めていた。音を付けるならピョコッ、ピョコッとした歩き方だった。歩く文生の左手遥か奥からは、今日も変わらず岩手山が盛岡の街を見下ろしていた。
橋を渡り切って道なりに進み、大通りという名前の繁華街に入る。ここからは通りの両側がアーケードになっている。コンビニとマック以外の店はほとんどがまだ開店前で、街全体が連休の空気をまとっていた。通行人は少なかった。ほぼオフの街の中で、文生は自分だけがオンの状態にいるような錯覚を持った。
アーケードが終わると、細長い二等辺三角形の形をした池が突如現れる。ここから盛岡城の跡地、岩手公園である。文生は腕まくりをした。盛岡にしてはだいぶ暖かい最高気温二十度超えの予報が出ていたこの日、文生の脇の下からは早くも汗が噴き出していた。神社の前を通って城址の敷地内に入ると、木々に囲まれた二階建ての渋い建築物が鎮座している。
文生が今日から三月までの勉強場所に指定した、県立図書館である。
文生より先に来ていた高校生風の男女とビジネスマン風の中年男性が、玄関スペースの大きな屋根の下で思い思いに時間をつぶしていた。まだ、開館までは時間があった。文生は腰の高さにある石壁に寄りかかって英単語帳を開いた。
時計が九時を示すと、係員が自動ドアを開錠した。四番目にドアをくぐった文生はずんずんと階段を上り、書棚には目もくれず二階の奥の一角をめざした。「静かに使用してください」の立て看板が文生を迎える。閲覧室である。
ざっと四十人近くを収容できるであろうこの閲覧室は、学習机ばりに横幅に余裕のある一人掛けの木製机が十席ほどずつ固まって配置されていた。向かいの席との間には顔が充分に隠れる高さまで木製の仕切りがあり、席ごとに蛍光灯が備え付けられていた。机が大きいぶん隣の席とも距離があり、向かい側に座る人の顔も見えないので、自意識過剰な文生にはもってこいの空間だった。
机の天板は大学の講義室の机など比較にならないくらい分厚く、脚もしっかりしていたので消しゴムをかける度に振動を気にする必要もなかった。閲覧室に限らず、この図書館の設備はどれも重厚だった。机も椅子も壁も概して赤黒く、どの設備にも年季が入っていた。加えて、利用者たちの静けさが醸し出すほどよい緊張感があった。
文生は入ってすぐの列の一番奥の席を陣取った。右側には窓しかない。文生は右利きだった。人の視線を感じることなく目の前のことに集中するには、この席が一番よかった。
換気のためか、窓は少し開いていた。ででっぽーぽーと鳴く鳩の声が聞こえる。緑の匂いをはらんだ午前の風が、ときどき横顔を撫でる。文生は深く息を吐き、去年受講した川相塾の「数学①」のテキストを開いた。
昼に近づくにつれて閲覧席は徐々に埋まっていったが、この日の文生は他人からの視線などほとんど気にならなかった。目の前の問題に没頭できていた。
広大の二次試験は記述式なので、本番では白紙に解答を書くことになる。普段からそれに慣れておこうと文生が購入したのが、無印良品の「らくがき帳」という、子どものために作られたようなネーミングの、無地のノートだった。ザラ紙の素朴な色合いが目に優しかったし、縦開きなので左右のスペースをとらないのも文生好みだった。
筆記には、去年まで使っていたシャーペンをやめてHBの鉛筆を選択した。芯を削る手間はあるが、どうせセンター試験は鉛筆だし、普段から鉛筆の軽さに慣れておこうとの考えからだった。高校卒業以来使っていなかった下敷きも買った。暗記用のマーカーにも使えるよう、真っ赤に透ける硬めのものを選んだ。
なるべくまっすぐになるようにチマチマと白紙に文字を刻み込む作業は、案外心地よかった。さすが一度川相塾の講義を受けているだけあって、問題はスラスラと解けた。数学は広大受験の肝であり、文生にとっては鬼門でもある。まずは好調な船出と言える。
――俺今日、すごい勉強してんな。
一階のロビーで昼食のメロンパンを頬張りながら、文生は朝からの充実を噛みしめていた。