小説 開運三浪生活 9/88「高らかな敗北宣言」
文生の仮面浪人は一週間で挫折した。数学と英語のテキストが数ページずつ進んだだけだった。県大の講義のレポートを終えてから再びデスクに向かったが、集中力はすぐに途絶えた。モチベーションを高めようとCDをかけ、気がつくと一時間も熱唱している自分がいた。
――これじゃ受かんねえわ。
このペースで受かるほど広大は甘くない。自分には仮面浪人の適性がないことを、さすがの文生も悟った。まったくもって仮面浪人を舐めていた。世の中には、大学の講義と受験勉強とを両立させ、なおかつ志望校合格を勝ち取る猛者がいる。さらには、アルバイトで生活費を稼ぎながら仮面浪人して見事リベンジを果たす超人まで存在する。文生は甘かった。それでも自分の甘さを認めない彼に、受験を諦めて県大での学業に専念するという真っ当な発想は、ハナからなかった。
世間は明日からゴールデンウィークに入る。文生が去年かよっていた川相塾広島校では、四月は体験入塾のための短期講習やオリエンテーションの期間で、本格的な授業は五月からだった。川相塾の年間スケジュールどおりにテキストを消化すれば、なんとか充分な受験準備ができると文生は踏んだ。本腰を入れて受験勉強を再開するなら、今このタイミングしかなかった。
――やっぱ受験一本に絞んねっきゃ駄目だ、俺は。
肚は決まった。盛岡に来て初めてのすがすがしさが、文生の胸に込み上げてきた。気がかりは仕送りをしてくれる親をどう説得するかだが――言わないことにした。こんなリスキーな挑戦に、安定志向の親が賛成するはずがなかった。
――受かってから事後連絡でびっくりさせてやろう。
ひとまず、籍は県大に置いたまま、受験勉強に取りかかる。方針は決まったが、さすがに後ろめたさは拭えなかった。親は、文生が大学に行かず受験勉強に精を出していることなど知る由もなく仕送りを続けることになる。
――広大に入ったら、奨学金借りよう。
一応の結論を出すと、文生は難題に蓋をして、心の隅に放り投げた。
仮に広大に合格すれば、文生は三浪での入学となる。さすがに周囲との年齢のギャップは避けられそうになかった。せっかく入学できても、友達なんて出来ないかもしれない。でも、俺はやる。広大に入れなければ、その先の人生はない――。悲壮な覚悟に、文生は自分で胸を熱くした。一昨年の夏に始動した再受験プロジェクトを、ここからの十ヶ月で完成させる――。彼にとって広大に合格することは、もはや通過儀礼と化していた。
「高らかな敗北宣言を掲げよう」
この頃深夜の音楽番組でよく見かけていた若手バンドの曲の一節を文生は口ずさんでいた。――俺は精いっぱい頑張った、でも負けた。潔く負けを認めて、前に進もうじゃないか――そんな内容の歌だった。番組はこのバンドを推しているらしく、毎週のように同じ曲のPVが流れていた。
――負けたことをわざわざ歌うか、普通。
初めは違和感を覚えていた文生だったが、何度も聴いているうちにだんだん他人事ではなくなっていた。
「高らかな敗北宣言を掲げよう」
――確かに俺は、受験に失敗した。だからこそ、リベンジしてやろうじゃねえか。
テレビの画面だけが光る真っ暗な部屋に、文生の控えめな歌声が響いていた。四月の終わり、三浪前夜の一時過ぎだった。