BUMP OF CHICKENのアルバム「COSMONAUT」の話
を、今からしたい。
12歳 BUMPと出会う
「COSMONAUT」はある意味で俺にとって特別だ。だから俺と、BUMPOFCHICKENとの出会いの話をしたい。
あの夏、自転車を駆り地元を爆走していた小学六年生の俺は、坂道でド派手に転んで左腕を骨折した。
それは夏休みの直前だった。
毎年の夏休みは吹奏楽部の活動で埋まっていたのだが、その年の部活は参加出来ず、丸々1ヶ月半、右手一本で暇を持て余すことになった。
当時(2012年)の小学生が家に籠ってすることといえば、DSやWiiのゲームで遊ぶか、全盛期のニコニコ動画、及びニコニコ動画の転載をYouTubeで見るかのどちらかだった。
今ではほとんど残っていないが、当時はBUMPの曲に合わせてモナーやらのアスキーアートが動いたり、手書きの紙芝居のようなアニメーションで作られた「ファンメイドMV」的なものが沢山あった。
12歳の少年は、その「K」と「グングニル」を見てえらい衝撃を受けた。
こんなにかっこいい音楽があるのか!!
↑FLASHのサービス終了もあって、誰かが保存のためにアップロードしてくれていた!
このFLASH動画、jupiterくらいまでの曲で沢山作られていて、グングニルを始めとして、ベンチとコーヒー、星のアルペジオ、ラフメイカーなんかはもう大好きだった。
そしてそれらを歌うのが「BUMPOFCHICKEN」というバンドだと知った俺は、いてもたってもいられず、猛暑の中財布に1000円を入れてTSUTAYAへ歩いた。
「THE LIVING DEAD」と「COSMONAUT」が、多分最初に借りたCDだった。(おそらく、グングニルやKが入っているものと、当時の最新作を選んだ。)
片手しか使えない都合から、本当にやることがない俺は、擦り切れるくらいBUMPを聞いた。どの曲もサラで歌詞を言えるくらい聞いていたと思う。
そんな小学六年生の空気感は、10年以上たった今でも、音にこびりついて残っている。
これから何者にでもなれるはずだった、どんな青春も恋愛も、まだまだこれからで知らないことだらけで、世界がキラキラして、でもどこか静かだった12歳の夏の感じが。
特に藤原基央の少年時代への眼差しが見える「COSMONAUT」に、本物の少年として深く共感していた。
このアルバムにはBUMPに憧れ始めた少年時代の情熱が熱烈に焼き付いている。
オタクの「COSMONAUT」評
そんな思い出の名盤「COSMONAUT」を10年聞き続けたオタクは、11年後の7月、23歳で潰瘍性大腸炎という病気にかかってしまい、1ヶ月分の予定や仕事をほぼキャンセルし、ベッドでまたBUMPを聞き耽っていた。
そして今入院し病床で圧倒的暇を持て余すこととなった。
改めて思う、ガチオタクによる「COSMONAUT」評をここに記しておきたい。
歌詞について
①固有名詞、個人的エピソード
「COSMONAUT」の収録曲には、「R.I.P.」を始めとして、歌詞に少年時代の記憶を思い返す、個人的な内容が散りばめられた曲が多い。
固有名詞をほとんど使わず、普遍的な詞を書くことの多い藤原基央が、ここまで個人的な曲を多く作ったのはこの時期だけだと思う。
冒頭の「R.I.P.」では、少年の日を回想しながら、「そこに君がいなかったこと」と、「君」の少年の日に「僕がいなかったこと」、そして「今はそばにいられること」を歌っている。
途中、鉄棒から落ちた実体験を元にした「透明飛行船」、昔の自分に向けて歌う「魔法の料理」、子供の頃聞いていたマイケル・ジャクソンへの思いを歌ったと思われる「angel fall」などがあり、
クライマックスの「宇宙飛行士への手紙」では「R.I.P.」と同じく「出会う前の君に僕は絶対出会えない」ことを歌っている。
ひとつ前の作品である「orbital period」では、自分と他者との心の関わりについての歌が多かった。多かったというか、徹頭徹尾そうだったと言ってもいい気もする。
自分の負った傷や抱えてきた荷物を誰かに預けること、でも結局自分の荷物だから自分で持っていかなきゃ、そんな哲学が、非常に抽象的な世界でアルバムを通して貫かれた。
一転してCOSMONAUTでは、自分の「荷物」と自分との関わりについて向き合っている。それを通して他者の「荷物」を見つめ、自分自身を信じて守ることを歌うフェーズに入っていったのだと考えている。
それぞれの分かち合えない過去の、とりわけ個人的な、自分のことを歌うことこそが、「ユグドラシル」で歌われた「本当の孤独」と向き合う方法だったのかもしれない。
「透明飛行船」や「66号線」の裏にある藤原基央の実体験を、聴衆である我々は想像することしか出来ないが、その唄にのった「想い」には大いに共感できる。
②普遍性と、歌詞における主体、歌い手
COSMONAUT期が終わり、RAY期からBUMPの代名詞であった「物語調」の歌詞はなりを潜め、「歩く幽霊」、「ディアマン」などのカップリングに限られてくる。その代わりに、率直な思いを歌ったような曲が増えた。
BUMPの目指す音楽性は、藤原基央が「童謡を作るのが夢」と言ったように、普遍的で、どんな人にも届きうる音楽だと思う。
「orbital period」までの作風では、歌詞の主体が歌い手でも、聞き手でもない誰かに(構造上)なっていることが、聞き手を選ばない為の方略だったのではないかと思うのだ。
「歌い手藤原が歌う」というよりも、「法師藤原が語る」というような感じだ。
そんな藤原基央にとっての歌詞の「普遍性」は、COSMONAUT期を経て、主体を抽象化、第三者か化して物語にすることではなく、「自分の物語を、さも聞き手の物語かのように書くこと」に変わっていったのではないだろうか。
もしくは、「自分の物語が、みんなの物語でもある」ことに気づいたのかもしれない。
それを象徴するのが、終盤、大詰めのように思える「宇宙飛行士への手紙」の後に収録された「イノセント」の歌詞だ。
Aメロ、Bメロでは自嘲めいた皮肉が綴られ、少しドキッとする言葉が続く。そしてサビでは、
聞き手、歌い手、共にどんな人でもいいと明言している。
世間では色々と憶測がある。秋葉原通り魔事件の犯人が、犯行前「ギルド」の歌詞を2chに書き込んでいたことは有名な話だ。どうしようも無くなり通り魔になってしまった男も、「ギルド」を聞いて何かを思っている。
この情報は藤原の耳にもおそらく届いたはずだ。
この件については既にまとめられている。
事件は2008年、COSMONAUTの発表は2010年だ。記事の中にもあるが、藤原は「BUMPファンはいい人しかいないですよね!」みたいな言葉に「そんなことは無いし、いい人でなくても、悪い人でも、問題ではなくて、聴いてくれる人が必要」という趣旨の発言をした。
この、聞き手も歌い手も誰だっていいんだという思想は、藤原にとって「前から音楽に対して思っていたこと」だと発言したという情報がある(おそらくインタビューでの発言)。
この「歌い手の人格を特定しないこと」「聞き手の人格を特定しないこと」についての考え方が、ここでひとつ変わったのかもしれない。
また、チャマの不倫騒動があったあとの実質的な復活ライブであったSJ幕張の2日目にこの曲「イノセント」は演奏された。リリースツアーであるGGTツアー以来の演奏であり、意図を感じざるを得ない。
ラジオで「BUMPのリスナーには心に傷のある人が多いと長年やって分かってきた。そんなBUMPの中から、人を傷つけるようなことをする人間を出してしまったのは、情けなくて悔しい」という趣旨の発言をした藤原だったが、ただ音楽はそこにあるということの主張だったのだろうな、と思う。
彼が守りたいのはかけがえのないBUMPと、BUMPのリスナーの関係を繋ぐ、楽曲そのものなんだと思う。
少し脱線したが、とにかくCOSMONAUTというアルバムは歌詞の面で見てもBUMPのキャリアの中でどこか特異点のようなものだったように思える。
③個人的に素晴らしいと思う歌詞選
個人的にお気に入りの歌詞を引用して歌詞の編を締めよう。
演奏、アレンジについて
既にものすごい分量を書いているが、本当に語りたいのはこの部分であり、BUMPというバンドを語る上でどうしても「下手」などと切り捨てられてしまう(実際に下手だと感じることはあるが)演奏の部分について、俺はバンドマンとして、オタクとして大いに語りたい。
①COSMONAUT期 という考え方
制作時期、これについては「COSMONAUT期」という特有の期間がある気がしていて、アルバム「RAY」の中でも制作時期の早かった「morning glow」「サザンクロス」「(please)forgive」などは実質的にCOSMONAUT期の作品とみていい。また、「友達の唄」「ゼロ」等のシングルもCOSMONAUT発売直後の作品だが、これらは実質的に次のタームだと思われる。(上記のアルバム曲の方が制作時期が早い。)
②ドラムから見えるこの時期の特異性
「COSMONAUT期」の楽曲の特徴としてよく言われているのは、変則的なリズムへの探求だ。
特にスネアの位置が特徴的で、「モーターサイクル」「透明飛行船」「イノセント」などは、「2、4拍目の頭」所謂「強拍」にスネアを置くセオリーから、明らかにハズしてスネアを配置していることがわかる。
元来BUMPのドラムフレーズはかなり奇っ怪で、「天体観測」や「オンリーロンリーグローリー」BUMP特有の四つ打ちみたいなものがあったりするのだが、「COSMONAUT期」のドラムに関してはむしろ、アメリカのマスロック、エモなんかに影響を受けたようなリズムに聞こえる。(俺はBUMP及び邦ロックについてはかなりのオタクだが音楽全般に関してはかなりニワカ知識でやってきているので全然違うよと思ったらすみません。)
30代を迎えるという節目で、メンバー及び藤原基央の作りたい音像は繊細で複雑でソリッドなものになっていたのだろうと伺える。
おそらく「演奏できない」という理由で1度もライブで披露されていない曲が「モーターサイクル」と「セントエルモの火」の二曲あるのも、この向上心ともいえるのか、野心とも言えるのか、その辺を伺わせる。
もちろん「サザンクロス」のドラムもかなり変わったリズムをしていて、「morning glow」はBUMP史上でも最も大胆な変拍子の間奏がある。
「ユグドラシル」からの方針である「曲にとって最もいい演奏、曲の求める音を作る」という目的は、「orbital~」で完全に達成されたように思われた。「才悩人応援歌」や「ハンマーソング」「時空かくれんぼ」なんかはそのうえでかなりトリッキーな演奏をしているように思われる。
この地続きなアレンジの卓越の先に「COSMONAUT」がある、と考えると、何ら特別なことは無いのだが、「ray」から明らかにアレンジの方向が変わったように思えることが、この「COSMONAUT期」の作品がBUMPのバンドアレンジの面でひとつの到達点であったことを示しているように思う。
「プラネタリウム」からシンセサイザーを解禁し、ストリングスも採り入れるようになり更に自由度を増したアレンジだったが、シンセの音色を「主体」年始めたのは「RAY期」ないし、「ray」「虹を待つ人」以降だと言っていい。また、この直前である「firefly」あたりからか?明らかにライブでのシンガロング、一体感を求める曲が異常に増えた。COSMONAUT期の「複雑」で「繊細」なものとは正反対の、「ノリやすく」「肉体的」なものへの探求だった。
これは時流もあるだろう。2013、2014年辺りの邦ロック界隈は、とにかく四つ打ち、四つ打ち、四つ打ちだった。(四つ打ちは、音楽用語で4/4拍子の四拍全ての頭にバスドラムが踏まれていることを指す。)
わかるように、元々四つ打ちの曲の多かったBUMPだが、2014年以降の楽曲には異常なほど四つ打ちの曲が多い。これは意図を感じざるを得ないし、そのうえで四つ打ちは(主にバックビートに馴染みのない日本人には)肉体的にリズムを取りやすく、大衆的な意味で受け入れられやすいリズムであるとも言えるだろう。
③「COSMONAUT」はどこへ向かっていたか
ではこの変化はどのようなところから来たのか?これはただの想像に過ぎないが、想像で語らせていただきたい。
「魔法の料理」「友達の唄」「ゼロ」など、2011年辺りまでのシングルからもわかる通り、タイアップありのBUMP的王道はやはりギターロック(フォーク)+ストリングスの音像だったのだろう。これは「Butterflies」のシングル「コロニー」「ファイター」などの稀有な離脱時期を経て、また「話がしたいよ」などで回帰している作風だ。
これらのシングルの裏で、王道に対する「邪道」として行われていたのが、COSMONAUT期の複雑さ、オルタナさに対する探求だったのではないかと考えている。
これは歌詞に「皮肉」や「個人的なこと」を取り入れていたことともリンクしているように思う。
藤原基央の哲学的思考は、その「普遍的なものを作りたい」という根源的な野望と裏腹に、どんどん内向きになって行った。
ギターロック、そしてオルタナなアレンジは時として内向きだ。近年、そこはギターに魅せられてしまった者だけの哀愁が漂う場所になりつつある。
そのオルタナなアレンジの極地は、個人的に「イノセント」にあるような気がしている。この曲は本当にポップさとはかけ離れていて、相当尖っていると思うのだがどうだろうか?
ここにもしかしたら、BUMPのオルタナティブとの決別があったのかもしれないなと、邪推してしまっている自分がいるのだ…。
④「ray」以降のBUMPがたどった道
「RAY」に収録されている「トーチ」は、アレンジや演奏の面で色々あったとインタビューで語られ、かなりぼかされているが、波乱があったとのことだ。
メロディと歌詞の無骨でロックな印象と裏腹に、大胆な4つ打ちに派手なイントロなど、少し変わった印象を受けるアレンジになっている。これがどんな変遷によってなったのか分からないが、この曲は「ray」以降のBUMPの「シンプルな演奏」の上に超複雑な打ち込みやエフェクティブなギターを重ねていくスタイルへの移行を暗に示しているように感じてならない。
(それと比較すると、COSMONAUT期の作品は「複雑な演奏」の裏にシンプルな打ち込みやエフェクティブな音が隠されている というスタイルに聞こえる。)
そこが当時のBUMPにとって、自分たちが再び外向きに、王道にあり続けることへ向かうエネルギーだったのかもしれないと俺は解釈している。
複雑な演奏よりも、誰も聞いたことの無い音色やまさに宇宙や宝石の輝きを思わせるキラキラしたシンセサイザーの音は、オルタナティブなギターロックの音像よりも多くの人に届く為の羽になったのだ。
そして今のBUMPの音像は、それら色々の挑戦的な音像改革を経た上で、とにかく自由になった感が強い。「リボン」ではどシンプルな4人のアンサンブルを見せているし、「small world」では久々のファズギターが輝いている。「記念撮影」や「クロノスタシス」はR&B、「SOUVENIR」はファンクだ。
なによりライブでは、増川弘明という男のギターが40歳を超えてさらに輝きをましたように思う。これは多分みんな抱いている感想だ。
藤原基央がバンドをしていて本当に楽しそうだ。
そこで行われた「SJ幕張」からのツアー「SJ」「be there」ではこれでもかと「COSMONAUT期」の楽曲が演奏されている。
BUMPの中に、この時期の楽曲について、もしかしたら満足に鳴らしきれなかったという思いがあったのかなとも感じる。今まさに、それをもう一度やり直す時なのかもしれない。
⑤そして色褪せない「COSMO期」楽曲特有の魅力
そんな最近のBUMPも鑑みた上で、「COSMONAUT」に収録されている曲の帯びる空気感やアレンジの独特な透明感には、やはり感動を禁じ得ない。
最後に各楽曲の聞きどころをおさらいして終わろう。
「三つ星カルテット」「beautiful glider」の兄弟は、変則チューニングのアコースティックギターの複雑なアルペジオが楽曲全体をリードする変態っぷり。こんなことをしているメジャーバンドが果たしてほかにいるだろうか?
「R.I.P.」ではBPMが早いのにゆっくりに思える音、メロディの隙間が心地よく、間奏では轟音オクターブと変拍子も絡んだ弦楽器3人のユニゾンによるリフがあまりにも無骨すぎる。
「ウェザーリポート」も尖っている。16分を刻み続けるベースが軽快に曲を引っ張って行くのも魅力的で、大胆に処理されたパッキパキのバッキングギターのサウンドはかなりオルタナティブでかっこいい。
「分別奮闘記」は、さながらゲームミュージックのような民族音楽風のリフにファミコン風のオルガンが映えるオルタナティブな可愛い楽曲で、これも類を見ない特異性を放っている。
「モーターサイクル」「透明飛行船」ではドラムのビートもギター、ベースのフレーズも、簡単なマスロックとでも言うようなアルペジオとギターの掛け合いにも、ギターキッズとしての心がガンガンにゆらされる。
「魔法の料理」は王道のバラードのようでいて、終盤の盛り上がりでは洋楽さながらのフェイク、シャウトの裏でギターが自由なギターソロを奏でている。これは後のBUMPではほとんど見られない大胆なプレイになっている。
「HAPPY」「66号線」はそれぞれの曲の求める本来の姿を本当に的確に表した音像が見事で、特にベースのフレージングには神が宿っていると思う。
「セントエルモの火」のアルペジオの絡むアンサンブルには、高い山を昇る細身の男が浮かぶような冷たくて澄み切った空気を感じざるを得ない。そんな寒い山の中に燃える心のひが、厚みをましていくサビや間奏のギターサウンドにこれでもかと反映されている…!
「angel fall」では本格的なゴスペル アレンジが展開される。無骨な「セントエルモ」との対比がどこまでも美しい。
そして「宇宙飛行士への手紙」では、これ以降のBUMPの「宇宙的」といえる音像の先駆けとなるような、所謂歪まないシューゲイザーとでも言うようなリバーブサウンドをギターとシンセサイザーの絶妙なバランスで作り上げている。
アコースティックギターを絡めたイントロのリフと、Gコードに対する単音リフの一音目、Eの音は6度にあたる。この絶妙な響きがBUMP OF CHICKENだ。
そして「イノセント」この曲はどこまでもオルタナティブで、内向的だ。Radioheadの「creep」を思わせるファズギターの「ガキン!ガキン!ギャーーン」も、ひたすら繰り返すギターリフも、フレットレスベースも、荒唐無稽で不安定なリズムを繰り返すドラムも、ぜんぶがとにかく尖っている。
アルバム通してどこまでも音に、歌詞に、メロディに喜びの詰まった歴史的名盤は語っても語り尽くせない!
では、自由になって、パワーアップした彼らが改めて向き合うBUMPの「バンドサウンド」「オルタナティブ」の極地である「COSMONAUT」(ないしRAYのアルバム曲のいくらか)が、更にライブでかっこよく演奏されることを願って、
ここに狂気的な長さで綴った俺の「COSMONAUT」評を閉じたいと思う。
BUMP OF CHICKEN 最高!