徳川家康は、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変の一報を堺の遊覧を終えて飯盛山の麓にあった一行に、茶屋四郎次郎によって届けられ、長谷川秀一が案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明した。先ず第一に大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先として想定した山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明すると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を助け、宇治田原城へと一行を導いた。その後、これも秀一旧知の近
卑弥呼(日巫女)こと倭迹迹日百襲姫命は父が7代孝霊天皇、母が3代安寧天皇皇子磯城津彦命の子和知都美命の娘倭国香媛で、古代豪族・十市県主今西家の一族ですが、桜井纒向学研究センターは纒向遺跡とモモの種の発見について記者発表しています。 「平成21年 纒向遺跡から当時の大型建物群の柱跡が発見されて、すぐ近くの土坑から2000個余りの桃の種が出土した。 卑弥呼の宮室説がある場所から、古代中国で呪術に用いられてきたモモの種が出土。」 中国ではモモは仙果として、邪悪を避ける力があると信
-「人間は自然の一部以外のなにものでもない」~分け隔てなくささえあう 「おらが産まれし土地におらが大木がお天道様の恩恵で根を張っておらが最期は一葉として幹の肥やしになり年輪を刻めることが何よりじゃ」 -“惣”とは、中世の自治的な組織の総称。特に村落共同体の運営機関としての惣が代表的である。惣の字はすべて、全体の意味の国字であるが,中世には自治的な団体や地域に冠して用いることが多い。例えば惣国,惣郷,惣荘,惣村,惣百姓,惣寺(山)などの語があり,それぞれの単位で寄合(所属)を
-「築き立つる柱は、此の家長(いえのきみ)の御心(みこころ)の鎮(しずまり)まりなり。 取りて挙ぐる棟梁(むねうつはり)は、家長の御心の林なり。」(日本書紀) 今井町は室町時代末期に信長包囲網に呼応して一向宗門徒衆が集まって開いた寺内町で、武装放棄された後は自治都市として栄えました。 東西約600メートル、南北310メートルの周囲に濠をめぐらし、9か所の門を構えて防護を固め、縦横の道筋も各所に曲折部をつくって見通しを許さず、町全体が一つの環濠自衛都市となっていました。 い
「民家」は、その時代その時代を映し出す鏡のようなものでありました。 また、各民家には調度品があり、各家に応じた設(しつら)えをし、子孫に引き継いでいく事によって各家の愛着精神も相続されてきました。 家じゅうよく磨き込まれ黒光りをした床や柱を見ると愛着の高さをうかがい知ることができます。 まさに、それが文化の根源であり、真髄ではないでしょうか。 家を長く大切に使うことは、何にもましてそこに住む者の愛情である事はいうまでもありませんが、家の骨組みである柱や梁を太くして強固なも