新国立劇場『ピローマン』(miru)

マーティン・マクドナーの『ピローマン』は今回はじめて観た戯曲。物語のノッケからわかるように、これは兎にも角にも物語についての物語である。設定は架空のある全体主義国家なのだが、主人公カトゥリアンによれば、この国家を支えているのは「警察とはこういうものだ」とか「政府とはこういうものだ」とかいう「物語」である。全体主義国家という設定が強調するように、社会はまさに物語によって構成されている。

しかし、小説家であるカトゥリアンいわく、物語とは世間に資するものではなく、むしろ徹底的に現実から切り離されているべきものである。

とにかく、僕がしてるのはそれなんだよ、物語の中で言いたいことも何もないし何に対しても誰に対しても何の反感もない。いわゆる社会的なんちゃらかんちゃらも何もない。(『悲劇喜劇』2024年11月号、p.84)

カトゥリアンの態度はいわゆる自律主義とか唯美主義とか呼ばれるもので、芸術の社会に対する有用性を否定し、"芸術のための芸術"を標榜するものだ。実際カトゥリアンが自分の物語について気にするのは「ひねりが効いている」最後といった物語の形式である。「僕が本当に言いたいこと」といった中身はそこにはないんだと繰り返しカトゥリアンはいう。

一見すると、この戯曲はフィクションのあり方をめぐる単純な二項対立を描いたようにも見える。カトゥリアンが信じる美的自律主義を突き詰めるかのように、社会に何の意味ももたらさないただただ残虐なだけの物語が展開される第一部。そこでは、物語は果たしてどこまで社会の倫理観から逸脱することができるのか?という社会から切り離された物語としてのフィクションの限界が試され続ける。一方、幕間のあとの第ニ部では、自律主義に相対する道徳主義の限界が試されるようである。道徳主義は、物語は社会に対して何らかの有益なメッセージ、特に道徳的な教訓を提示するものとする立場であるが、西洋文学においてその最たるものは聖書であろう。しかし、カトゥリアンの小説『小さきキリスト』が暴くのは新約聖書がはらむ暴力性であり、その道徳的曖昧性である。これと連動して、第一部の救いのない終わりに反し、第ニ部では、物語が人にもたらす救い、そして物語の終わりに訪れる救いといった物語による救済の可能性へと劇は開かれていく。しかし、ラストでカトゥリアンが紡ぎだす物語はこう終わる。

今風の救いのない終わり方は台無しにされてしまったとも言えるのですが、しかしなんとなく……なんとなく……こっちの方がずっとよかったような気もするのです。(同上、p.132)

一応のネタバレ回避で詳細は伏せるが、この結末に隠されているのは、カトゥリアン自身のエゴと、やはりそれに付随する暴力の追求ではないにしても暴力の容認である。物語の終わりに与えられる救いとは、つまるところご都合主義にすぎないのだろうか。

マーティン・マクドナーはイギリス/アイルランドの劇作家だが(両国の演劇史の線引きという複雑な問題はさておき)、フィクションをめぐる自律主義と道徳主義の対立は、まさにイギリス/アイルランド演劇的なテーマなのではないかと思う。道徳劇とルネサンス演劇、ワイルドとショーといった比較的わかりやすい対立の歴史から、オズボーン(社会主義リアリズムに見せかけたノンポリ)やピンター(明確な教訓性を持たずして政治的なアレゴリー)を生み出してきたイギリス/アイルランドの演劇史を走馬灯のように見ているような気もした。

ただし、であるからこそ、この物語は単純な二項対立には当然陥らない。話を物語の基本設定へと戻すと、全体主義国家における唯美主義とは一種の抵抗(「いわゆる社会的なんちゃらかんちゃら」)でもありうるのではないか?全体主義国家のなかで尋問され拷問される芸術家にとって唯美主義は方便であり隠れ蓑かもしれないのだ。カトゥリアンの真意、その芸術観は結局誰にもわからない。そもそも「架空の全体主義国家」という設定自体がこの劇が提示するアンビバレンスそのものを示すようである。架空であるという点においてこの物語を私たちの世界から遠ざけつつ、全体主義国家という点において否応なしに私たちの世界と結びつけられる設定は、物語と世界の関わりをめぐるジレンマを象徴しているのかもしれない。

勢いで書いたので後で解釈が変わるような気もするのだけど、とりあえずこんなことを考えた。ひとつ言えるのは、すっごく良いもの観たなってこと。成河は当代一の役者だって声を大にして言いたい。

新国立劇場『ピローマン』
2024年10月3日(木)~27日(日)
新国立劇場小劇場

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