あの夏「世界中が不幸になればいいのに」と七夕飾りにあった*祈り
10年目の3月11日を迎え、テレビでは多くの関連番組が放送されている。「みんなのフォトギャラリー」で上の写真を見つけた。あっ、南三陸だ。
ずいぶん養殖筏が戻ってきた。あの夏、高校生の息子とボランティアの宿泊を受け入れていた南三陸のホテルに泊まった時は、何もない水平線しか海にはなかった。いや、やはりカモメは同じように部屋を覗きにきて同じように写真を撮ったのを覚えている。朝日で煌く「何もない海」を背景として。
3月の末に入った時、賑やかな街だったろう入江は瓦礫で埋め尽くされていた。四階建ての病院の窓が全てさらわれ、向かいのビルの屋上には漁網がからまり、横転し倒立した車が積み重なり、木の上に漁船があがっていた。
車が一台通れるだけの道が、瓦礫を寄り分けて谷間のように開けられ、道沿いに建てられた電柱を伝う電力線だけが、避難所となっている高台の学校へ電気を届けようとのびている。それと防災庁舎と病院に置かれた花束と。
そこは、ヒトが生み出したあらゆるモノで埋め尽くされていた。かつては、住宅や商店や病院や学校や駅や車や自転車や看板や道路標識や、この街の風景をつくっていたモノたちが、そのあるべきところから引き剥がされ、巨大なミキサーで粉砕されて、タンスや窓枠や黒板やアルミサッシや風呂場のタイルや電灯やソファーや服や、お鍋やオタマや食器や布団や文房具やガラスや、記念日に印が付けられたカレンダーや、靴や新品のランドセルらと共に、誰かの持ち物であったことを解かれ、全てがモノに還元されて、時間と空間の関係性を抹消され、攪拌されて、そこにあった。
息子とのボランティアは、回収された写真を洗浄する作業。それまでに見つかったアルバムが集められている。海水に浸り、泥をかぶって固まってしまったアルバムを一枚づつ分離していく。その多くは海水でジェットプリンターのインクが流れていたりするのだけど、ディズニーランドでの写真や、卒業式や結婚式、寄り合いや子供の写真がひとつ、またひとつ現れる。もちろん写真は過去のモノでしかない。でも、写真が引き出してくれるその人との記憶やその時の思いは、その「時」に再会した人の明日につながるかもしれない。この写真が持ち主や家族の手に帰ることを祈りながら。
4ヶ月が過ぎて瓦礫は街の一角に集められ、車や金属、その他で小山を形成し、そこには公園で人気だっただろう蒸気機関車まで積まれていた。沈下した陸地に海岸線は曖昧となり、家の基礎や折れた電柱が満ち潮に浸っている。ホテルに避難していた人々は復興住宅への入居が進み、ロビーにあったこども文庫やボランティアが開設した寺子屋でも、宿泊した日にはもうわずかしか子供の姿を見ることはなかった。
玄関ホールに置かれた大きな七夕飾り。
宿泊客がそれぞれの願いを書いて飾れるようになっている。
その中に、その短冊はあった。「世界中が不幸になればいいのに」
子どもの字に見えた。
仮設ながらも街に復興商店街ができるのは、翌年に入ってからのこと。
「賑やかだった頃の街」の風景はもとより、その頃の家屋跡などの地形があって、ここで誰と立ち話をしたとか、買い食いをしたとかの「思いを辿る片鱗があった地面」が、盛土の中深くに埋め込まれ、「コンクリートの壁に囲まれて、かさ上げされた新たな土地」に変わっていった。
それは「祈り」だったのではないだろうか。生き残った自分の存在を許すためには、世界中の不幸が必要だったのかもしれない。
2021年3月11日