生きてるうちが花なのよ、生あるうちに報われたいと誰しも思うけど、叶わぬことのほうが多いんじゃないか。 虎は死して皮を留め人は死して名を残す どこがでみたことがある… 誰もがどこかで目にしたことのあるタロットは、1909年にイギリスで出版されたウェイト=スミスタロットではないだろうか。 ウェイト=スミスタロットは、文筆家アーサー・エドワード・ウェイトの思想を、パメラ・コールマン・スミスという若き芸術家が作画する共同制作として生まれた。 ウェイト版は、これまで78枚のうち
定職につかず暇だけはあった若かりし頃。 青春18切符と鈍行列車でいろんな場所を旅して回った。 当時よく訪ねていた関西の友人宅。 駅から彼女の家まで歩いていく途中、春先に黄色い小花をつける大きな木があった。 春の宵の口。 街灯の薄明かりの中で芳香を漂わせながら満開に咲き誇って大きく揺れている木。 眺めていると、美しさと同時に、旅先の心許ない気持ちや、これから先のまるで決まってない人生の不安が、ゆっくりと胸いっぱいに拡がっていくようだった。 その時、ふと彼女が 「ミモザ。
人生の中でカード、着物、香り、この3つは定期的に物欲がやって来る。 とはいえたくさんあっても使うものは決まっている。 これ以上増やしてはいけない!!と思いつつ、BULYのルーブル美術館コレクションに、こころ奪われてしまった。 フランスの著名な8人の調香師たちがルーブル美術館所蔵の8つの作品を香りで表現しているコレクション。 今回は調香師アリエノール・マスネによる「サモトラケのニケ」のボディミルクを購入。 ルーブルの完全の美がモナリザならば、対極の不完全の美がサモトラケのニ
はやいもので1月も下旬を迎えた。 年明けに今年の抱負を高々と掲げる人々に、遅れまじと焦りもあったけれど、その熱気も落ち着き、淡々とした日常が戻ってきた。 抱負は持てぬままだけど、新年早々に早速ハートを鷲掴みにされたのは貝殻だ。 最近は砂浜に出かけ、貝殻を愛でる生活をしている。 貝殻探しの時間は、「自分が良いと思うかたちと色彩」それだけの世界に没頭する。 振り返ると、物事の基準は親や師であったり、社会や世間の常識であったり。 人生の中で、自分だけの基準でなにかをみつめるこ
・:*🎄God bless you🎁・:*.. 誰のもとにもうつくしいものが訪れる 一夜となりますように 🎄*・**:.。. 🎁.。.:*・・*🎄・゜゚・:.。..。🎁.:*・:.。. 🎄 ~GOLDEN TAROT~ U.S. GAMES SYSTEMS, INC./U.S.A /Kat Black
あるところである人が溜息混じりに呟いた。 「わたしってほんといつまでもどうしてこうなんだろ。」 それを聴いたある人が、 「それはあなた、まだ自分に期待するものがあるからよ!わたしなんて砂漠を彷徨った挙句、一雫の水もないようなところまで自分に絶望したもの。まだまだ絶望が足りないのよ。」 と弾けるように笑った光景をずっと覚えている。 タロットの物語は、自らが積極的に外側の世界にアプローチをしていく前半の世界と、自らの内面の世界に入っていく後半の世界がある。 前半の周囲を変えて
カップはタロットの世界では感情や愛情。 カップの1が純粋な愛情なら、カップの2は愛情の分かち合いの始まりだ。 カードには、カップを差し出し、受け取ろうとしている男女の姿が描かれている。 このカードをみると、NPO法人抱樸館理事長であり、東八幡キリスト教会の奥田牧師による 「絆は傷を含む」 という言葉を思い出す。 人と人とが出会い、愛や気持ちを分かち合うことは素晴らしい。 けれど、いいことばかりではない。 そこには必ず傷も含む。 カップの2は人との距離感に躊躇がある時など、
タロットの恋人たちの札をエデンの園のアダムとイヴにしたのはウェイトのグッジョブだったと思う。 このカードが出ると、伝え方に少し気を使う。 恋人たちは恋愛成就のカードではない。 選択、迷いの世界。 その向こうにある精神的自立を求められるカードだからだ。 カードの描写では、アダムはイヴをみているが、イヴは天使を見上げている。 親に問うようにその答えを無邪気に待っている。 「わたしはこれでいいのかしら、この人でいいのかしら。」と。 けれど天使は静かに目を閉じて黙っている。 イヴ
夏から積読していた漱石センセイの「吾輩は猫である」をやっと読了した。 結末は知っていたので、読み終わるのが寂しく、のばしのばしにしていた。 まるでひと夏を吾輩とともに苦沙味先生の家で過ごしたかのようだ。 「呑気とも見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」 秋の日暮れの情景から、この名文が審判のフィナーレのラッパのごとく、吾輩の最期が語られていく。 タロットに例えるならば、世界。 必ずしも思い描いた世界ではないけれど、思ってもみなかった世界だけれど、完
ある日花屋さんで、ふと目に入った一輪の花を手に取った。 一緒にいた友人が、 「多肉植物が好きな人はわかるのね。 それ、セダムの花だよ。」 と微笑みながらおしえてくれた。 この花がセダムの花なんて知らなかった。 初めて知った。 そのあと、友人とカフェに入ってランチをした。 にこやかに話しながら、わたしは別のことを考えていた。 共通の知人の名前がなんだったかをずっと考えていた。 ほら、あの人。 最近引越しをしたあの人。 あの人の名前が思い出せない。 最近は、どこへ行っても連絡
今年も彼岸入りしました。 秋分の日は23日となるようです。 あの世とこの世が交差する日ですね。 子供の頃、彼岸花はなんだか毒毒しい怖い花のイメージがありました。 大人になってみると、なかなかうつくしい花だと感じ入ります。 調べてみると別名がいろいろあり、葬式花、死人花、地獄花、これでもかというくらいおどろおどろしい名前が続くかと思えば、釈迦の降らせた花、曼珠沙華という荘厳な呼び名も。 けれど花からすれば、どこ吹く風。 人には勝手に言わせておけとばかりに、うつくしく咲いて
9月9日、重陽の節句に誰かに書いた手紙 拝啓 秋らしい気候になってきました。 お変わりなくお過ごしですか。 今年も菊の節句を迎えましたね。 重陽のいわれ、東洋の陰陽思想で奇数は陽とされますが、最大数の9が重なる日は、陽極まり陰となると考えられ、その祓いの行事が始まりだそうです。 タロットでも9のカードは共通のテーマがあります。これまでの人生を振り返る隠者、傷つきながら戦うワンド、自己満足の世界にいるカップ、満たされてるけどなにか足りないペンタクル、夜更に苦悩しひとり涙す
青空に向かって映えるバラは清々しい。 満開になって眠たげに頭をもたげているバラも愛らしい。 そして朽ちかけて雨に打たれ、うなだれているバラのなんとうつくしいことよ。 どれもおなじ生きている尊厳じゃないか。人もおんなじだとわたしは思う。 赤く咲いても、白く咲いても薔薇は薔薇、と言ったのはベルばらのアンドレだったか。 バラは気高さや愛情を思い出す花なのかもしれない。 アートワーク:Catrin Welz-Stein (カトリン・ウェルツ・シュタイン) サイズ:H14 x W8.
桜も終わり、春の景色が広がっています。 子どもの頃、春はわたしにとって、とても憂鬱な季節でした。 進学、クラス替え、etc…いろんな人や場所の変化。引っ込み思案で、環境の変化がとても苦手だったわたしは、満開の大きな桜を見上げながら、不安と心細い思いでいっぱいだったことを覚えています。 この時期になると春休みでしょうか。 ティーンエイジャーのグループが快活に街中を歩いています。 でもきっと、なかには不器用に、一生懸命みんなのあとをついていっている子もいるんだろうな、とふと懐か
ダイソーで買ったハンバーガーの具カード。 使い道はないのですが、カード好きとはそんなものなのです。 ゲームが出来るようです。 クア・アイナ アロハ!バーガー DAISO PUBLISHING ゲームデザイン/森 晋太郎 アートワーク/skrparr
制作者のローマ・チェはトランスパーソナル心理学を学んでおり、その思想を織り込んだカード、と説明されている。 トランスパーソナル心理学は、心理学、東洋西洋の思想、宗教、自然科学、宇宙、あらゆるものを結びつけようとした試みであり、学問としても確立している。 しかし現在では玉石混交になっていることも否めない。 もともとは純粋な哲学や思想として生まれたものが、組織や拝金と結びつくと、まったく別の方向に向かってしまうことも多い。 夢みたものはいつの時代も儚く潰えてゆく。 ガーリーで