#エッセイ (ニュースより )『昨今の騒音問題』
先日のワイドショーニュースで、川崎駅前の路上ライブにおける騒音の問題を取り上げていました。どうやら通行人から市役所の方にその演奏の音がうるさいという事だったらしいです。一応川崎駅前では路上ライブは認められているそうですが、クレームが来たからには市としても対応をしていかないといけないという状況になっているとの事でした。そういえば、今は大々的な工事中になっていますが、ついこの間まで新宿西口の駅前には路上ライブをする若者が結構いましたが、そんな彼らは何処に行ってしまったのでしょうか?
そう考えると音に対するトラブルは昔からちょこちょこニュースになっていた記憶はあります。古くは昭和時代の”ピアノ騒音殺人事件”や、平成時代は”奈良騒音傷害事件”(通称:引っ越しおばさん)など結構大きな話題になる事件もありました。これらは刑事事件にまで発展した事案ですから例として挙げるには少し極端ではありますが、音を問題にした揉め事の話題はニュースだけでなくワイドショーでもいまだによく取り上げられていることは確かです。
最近気になる音(騒音)に関するニュースとしては、地域の夏祭りで盆踊りの音がうるさい、もしくは休みの日に近所の小中学校でおこな行われる運動会の音がうるさい、もっと驚くのは、夏の夜に近所の田んぼでなく蛙の泣き声がうるさい、といったものまである始末です。私にとってはこれらはもうちょっと信じられない域の話としか思えないのです。
人が物を認識する時には、その物にラベルの張り付いたようなその名まえをまず認識すると思のです。そして暗黙の裡にそれに対する用途と規範がセットの知識としてあると思うのです。例えば、『ここは図書館、街の人が本を借りに来て読むところ。そしてここでは騒がない方がいい!』という具合です。それを少し延長して考えると、『今日は夏祭り、夜は近所の神社で盆踊りがあるからお囃子が聞こえるだろう・・』と普通に考えられると思うのです。そして盆踊りなんぞ年の内のたかが一日か二日の事です。それが我慢できないという世に中になったのですね。私には盆踊りの音にしろ運動会の音にしろ季節を感じる音色と思えてならないのですが、現代社会ではそれがまかり通らないようです。それらの音が季節の風物詩なのか単なる騒音なのか、その線引きが徐々に後者が優勢する方で引かれ始めているようです。
戦後私たちの国は民主主義になって、個人の権利という事が時間が経てば経つほどに空気が部屋の隅々までに届くような勢いで、世の中のありとあらゆる所で認められるようになってきています。それは戦後に定められて施行された憲法の中身が、初めは紙の上に印刷された理念としてだけで存在していた物が、時の流れと共に実際に人々の肌で感じられるくらいにまで生活の中でその理念を享受できるようになったという事なのでしょうか。それはある意味ではとてもいい事だとは思うのですが、一個人の権利をそこまで頑なに守るという事をどこまでも求め始めると、それを求めた個人は周りに存在する小さな集団との絆も絶ち切っていくという行為になるのではないかと思うのです。その集団は時と場合によっては先ほどの個人の利益を求めた人が属する(若しくは属するべき)集団であるはずです。人は一人では生きてはいけない存在です。だからこそ人間は寄り添いあって集団を形成して生きていくという社会性を持つ生き物になったのだと思うのです。盆踊りの音や休日の運動会の音がうるさいという人は、基本的にそれに参加をしない人なのでしょう。たとえその時に参加をしなくてもかつては自分も楽しんだことでしょうし、年に一度のたまの事ですのでもう少し大目に見てあげるという心のゆとりは欲しいと思うのです。
最近ではワイヤレスイヤホンをして盆踊りをしている地域もあるそうです。その光景は見ていてやはり異常に感じます。やはりお囃子を聞いて季節を感じる方が風流で心にゆとりがあっていいと思うのですが・・・
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