#エッセイ『すごい女性(ヒト)』
世の中には思わず“すごい人だな~”と思ってしまう人がいます。僕がそんな事を思う多くの人は、名経営者や世界的なスポーツ選手、または優れた業績を上げた科学者だったりするのですが、それ以上にコレは凄い人だ!と思う方が二人いるのです。一人は元女優の宮城まり子さんともう一人は社会事業家という肩書で紹介をされている沢田美喜さんです。この二人に共通するのは、生涯にわたって困っている子供たちに無償の愛で手を差し伸べ続けたという事です。それぞれの半生を知ると感動を超える熱い物を感じずにはいられません。今回は宮城まり子さんのお話です。
彼女の最初のキャリアは舞台女優として芸能界で活躍をされたそうで、後に紅白にまで出ていたそうです。その彼女の転機は昭和三十年代の終わり頃に訪れたのです。とある舞台の役で脳性麻痺の子供の役でオファーが来た時に、何気なくその役を引き受けたのが始まりだったのです。当時の演劇では、自分が演じる役が分からない時に勉強を兼ねて現地に視察をするという事があったそうです。当時そのような障害を抱えた子供たちはちょっと汚れた様な病院の少し暗い不衛生な所に、何人もの子が押し込められていたようで、それを見た宮城さんはショックを受けたのです。そして、そのような障害を持った子たちの真似をするような事を舞台でやってもいいのかと悩みながらも公演最後まで演じ続けたそうです。公演そのものは大盛況で終わったそうですが、その舞台の後もずっと病院にいる子供たちの事が気になっていたそうです。宮城さんはその時の心境を次の様に書き残しています。
『あの子たちの温かいご飯は誰が用意するの・・?そして温かいお布団は誰が用意してくれるの・・?誰もいないのなら私が用意しましょう!』
そう考えて、施設となる園を自分で立ち上げようと一念発起すると、そこからが凄いのです。まずは何をどうしていいか分からないかので、その足で役所に行き必要な事を一から教えてもらい、着々と必要な資格を取得し、また必要な書類等の準備を進めていくのです。その発想力と行動力には本当に舌を巻いてしまいます。そしてこれも彼女の破天荒な一面なのですが、宮城まり子さんはその終生において作家の吉行淳之介氏と愛人関係にあったのです。自分で園を作るという行動を起こす前に宮城さんは『手伝ってもらいたい』と吉行淳之介氏にお願いをしたそうです。それを聞いた吉行氏は一言『区切りがついたと言って途中で投げ出さないなら手伝いましょう・・』と言ったそうです。その言葉で宮城さんはきっと覚悟というのか腹を決めたのでしょう。この施設である園を立ち上げて運営し続けることが生涯の仕事になったのです。
この吉行淳之介氏がどのような形で園を手伝ったのかはちょっと分からなかったのですが、彼が書斎でタバコをくわえながら原稿に向かっている写真に、園の子供たちが映り込んでいるものを見たことがあります。あぐらをかいて椅子に座る彼の膝に園の子供が一人、そして机の向かい側から半身を乗り出している子供が二、三人映り込んでおり、吉行氏はそれを気にもしないで考え事をしながら、片手にペンをもう片手にタバコを持っている姿で写されていました。その光景が特に子供たちをかわいがっているようには見えないのですが、しかしそれが日常の自然な風景として捉えることが出来る一枚でした。それを見た時に、この男の潔さというのか、心の広さ、もしくは自然に内面から溢れる彼の人間に対する愛情とでもいうものが複雑に入り混じった感覚となってその写真を見た事を覚えています。一言で云えば吉行淳之介のその姿が凄くかっこよく見えたのです。“自分の周りにある全ての事を自然体で受け入れて生きる・・・”こんな人になりたいと今でも思わず憧れてしまします。
そしてとうとう園を開校する日が来ました。その施設の名前は『ねむの木学園』という名称で1968年に開校しました。その当時は“女優が学校を作る”というくらいの感じでマスコミに認知され、各方面からの取材の申し込みがあったそうです。宮城さんとしてもこれからの運営費を考えると寄付等も募りたいという気持ちもあって開校日の取材を受けるのですが、彼女の優しさがここでも大発揮されます。テレビカメラが入ると、障害を持った子供たちの顔が全国にテレビを通じて流れてしまいます。そこで彼女は一計を案じて、近所の幾つかの小学校の校長先生に頼んで開校日に小学生に来てもらうという事を思いついたのです。そうすればテレビに映されても健常者の子に混ざってどの子に障害があるのか分からなくなるという心遣いをしたのです。僕では到底考えられないアイデアです。このしなやかな心遣いもしくは優しさは女性特有なものなのか、それとも宮城まり子という人の持って生まれたものなのか、いずれにしろ人に対する、いや困っていてケアをされるべき人に対するさりげなさを装ったとても深い愛情であると感じるのです。それと同時にその話を聞いて応えてくれた小学校の校長先生たちもまた教育者として本当に素晴らしいと思うのです。この時の映像は、テレビの特集の中の資料映像として僕も見たことがあります。確かにどの子がねむの木学園の子供かという事は分からない様になっていました。おそらくですがその当時、彼女がこのような園を作ったということが国内の色々な識者たちにも知れ渡ったのでしょう。とある巨大商社の経営者が後日、紙袋に税金をすでに差し引いたお金を持って寄付に来たという事を宮城さんは自身の手記で書いていました。その会社経営者もまた立派な方で
『本来なら社会から支援されて、沢山のお金を儲けた私たちが今度は社会に還元をしていかなければならないのに、それを貴女が代わりにしてくれているんです。このような事に手を付けられないでいた自分が恥ずかしく思い、せめてこのお金だけでも納めてください。』
と申し出てくれたそうです。心の底から湧き出る私利私欲にない善意の行動にはやはり優しい人たちがちゃんと寄って来て助けてくれるのですね。“桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す”とはこういう事をいうのでしょうね。ねむの木学園をずっと続けていれば色んな事があったのだとは思います。宮城さんはもう亡くなりましたが、その晩年には園の大切なお金が関係者に持ち逃げされたりと悲しい事もあったようです。それでも彼女は無くなる最後の日まで、ねむの木学園の運営を続けたのでした。
2020年3月に宮城さんは永眠をされました。その晩年の写真をネットで見ると、彼女は車椅子に座っていました。写真の中では今まで大切にケアをしてきた子供たちと同じような園の子供たちにその車椅子を押してもらっています。そしてその子たちはかわいい綺麗な制服を着せてもらい、ニコニコした顔で新しいランドセルを背負っています。心なしか宮城さんの顔は少し嬉しそうにして映っています。これもとても素敵な写真です。そして生前の彼女はどんなことを言っていたのかと思って調べたら次のような事を言っていました。
『やさしくね、やさしくね、やさしいことはつよいのよ』
と語っていたのです。本当に素敵な言葉です。とても短くそして分かり易い言葉ですが、宮城さんの歩んできた人生を思いながらこの言葉を思い出せば本当にその意味が強く心に響き、そして残ります。
宮城まり子という人はおそらく自分の意のままに天真爛漫な人生を送ったのでしょう。吉行淳之介氏との関係もそうだったのでしょう。そして彼女は自分の心の中から噴き出す愛情をそのままの形にして困っている人を助け、その行為をする事が彼女の喜びだったのだと思うのです。普通に考えればリスクがあり、かなり勇気のいる事です。そこに損得を抜きに飛び込んでいくという姿勢は本当に凄いです。日常の生活を考えても、イザというときの人助けは勇気のいる事です。世界では大きな愛を持って無償で人を助けているのはなぜかしら圧倒的に女性の方が多いです。このような人を傷つけない圧倒的な素敵な力を出す女性は本当に素晴らしいです。
最後に宮城まり子さんの残した言葉でもう一つ素敵なものを書かせてもらって終わりにします。これは会社生活を送る僕の胸にも強く響く言葉です。
『強さの影にやさしさがうずもれて、自分より弱い人間を助けようとしなかったら、
次は自分よりも強い人間にやられることになります。
そんな社会に幸福の花は咲かないでしょう。』