#エッセイ 『しなやかに優しい女(ヒト)』


    日常の生活を送っていると、見知らぬ人に思いがけずに人助けをされたり、または自分が助けたりという事があるのではないでしょうか?今から数年前の事ですが、出勤で早朝の地下鉄に乗っていたら、僕の目の前に立っていたおじさんが貧血で倒れるという事に遭遇しました。通勤時間帯でそれなりに混んでいた車内でしたが、電車の扉が開くと同時に扉の横に立っていた意識が朦朧とした状態のおじさんが崩れ落ちるようにホームに倒れ込んだのです。僕の目の前で起きた事ですので、その瞬間は何も考えずに電車を飛び出して咄嗟に介抱をすることになったのです。どちらかと言えば恥ずかしがり屋の僕ですが、いざとなればそんな行動もとれたのだと思います。
 ところが問題はそこからでした。介抱をするためにしゃがみこんで倒れたその男性の背中をさすりながら
『大丈夫ですか?大丈夫ですか?』
と二、三回呼びかけたのですが、もちろん返事はありません。振り返って車内を見ると他の乗客はみんな明後日の方向を見てこっちには気が付かないふりをしています。椅子に座っている人に至っては全員、目を瞑って寝ているじゃありませんか・・・。それを見て思わず“わぉ!えっ!どういう事!俺なんか大袈裟な事してんのかな??”という感情が頭の中を瞬間的に駆け巡り、焦ってしまったのです。後から考えればそりゃそうだったのかもしれません。倒れている人は血を流していた訳ではありません。顔が青白くなっていて、おそらく誰が見ても貧血だったと思います。その場をやり過ごすというのも一つの方法です。逆の立場なら僕だってそうしたかもしれません。“さて困ったな・・”と思いながら、懇願する様な目で車掌がドアの開閉の確認をするためのカメラを見上げてみました。“見えてるんでしょ!何とかしてよ!”とすがる様な思いです。そして次にしゃがんだままの姿勢で首を左右にキョロキョロとしながらホームを見回しました。朝の時間帯とはいえ、その駅は空いていてホームには他の乗客いません。そこで声を上げて
『すいませーん!』
と大きな声を出せればよかったのですが、残念なことに声を上げる事が出来なかったのですね・・。その瞬間は恥ずかしさの方が勝って、僕は口をパクパクするだけでした。これも後になって考えれば本当にかっこ悪くて情けない話です。
 その時です、止まっていた電車の中から一人の若い小柄の女性が出てきたのです。その女性はスッとしゃがみこんで男性の口元に自分のハンドタオルを当ててくれました。その時は“おお・・心強い・・”という安堵の気持ちと、名前も何も知らないけれど何か盟友が出来た様な気分になったのです。若い女性でしたがとっても立派な人に見えました。そんなことをしているうちにホームの向こうから駅員が二人、並んで走ってきました。
『後はこっちで看ますので・・』
と言ってくれ、そこでバトンタッチです。出てきてくれたその女性は無言でスッとしなやかな態度で車内に戻っていきました。それに少し遅れて僕もオロオロしながら車内に戻ったのです。電車はその後2,3分遅れで出発しました。
 その時僕は心のどこかでいい事をした様な気分になっていたのですが、後でよくよく考えると実は何の役にも立ってなかったのですね・・。そしてさっきの若い女性に一言お礼を言いたかったのですが、彼女は吊り革を掴んだまま目を瞑って下を向いています。結局そこででも彼女に助けてくれたことに対するお礼の一つも言えませんでした。その日一日会は社で仕事の合間に“今日はいい日なのか?それともダメだった日なのか?”とそんなことを考えてしまいました。

 あの症状を見れば、倒れた男性はきっと大事には至らなかったでしょう。そうすると今度は助けてくれた女性の事が気になったのです。無言で助けてくれて、無言で去っていく・・・。いざという時にためらわずに人を助ける事が出来る勇気・・。“若いのに偉いなぁ”と今でも思うのです。これも後から考えた事ですが、あの時、僕がもし、もうちょっとその場から離れた所で見ていたら果たして助けに行けただろうか?そして自分が若かったら、あの女性のように動けただろうか?もしかしたらあの日に隣の車両にいて介護をしているという車内放送を聞いたら、電車の遅れにイラついていたのではなかろうか・・・。どれもこれも自分の中では有りえそうで情けなくなります。
 そう考えると“女性はいざと言う時には腹が据わっているもんだ”と思うのです。緊急事態では実は男の方がじたばたしがちという事は時折見かけます。逆のケースだって無いわけではないのでしょうが、でも人生の岐路に立った時に女の人に“あなた男なんでしょ!やってみなさいよ!”と背中を押されたという経験のある男性も多いのではないでしょうか?人は見かけによらない所があって、体の大きい男が臆病だったりしますのでね・・(笑)
   腹の据わった女性の爪の垢を煎じて飲みたいもんです。

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