『夜空は宇宙色』 - ライナーノーツ
先週アップした「夜空は宇宙色」のライナーノーツでも綴ってみようと思う。
この曲は青空、および太陽を「マジョリティ」としてのメタファーとして、夜空を「主人公の目指すべきもの、もしくは主人公そのもの」としてのメタファーとして置いている。
歌詞前段における以下、
ここの部分は自分と夜空を対比し、
「自分に嫌なことがあったとしても、それによって夜空が変な色に変化したりはしない。夜空は夜空のままである」
という指針のようなものを指している。
以前、「坂の上のビートルズ」という記事にて書き連ねたが、学生の頃に剣道道場に通っていた私は、それが嫌で嫌でたまらなかった。
嫌で嫌でたまらずに坂の上の駐車場で剣道をサボりつつ音楽を聴くという時間を過ごしていたのだが、私の心理の変化がどうであろうと、坂の上の駐車場は駐車場のままだし、その駐車場から見下ろす県道はいつのもの県道であった。
変わらない物があると人間はホッとするものだし、それは意外と身近にあるんでっせというメッセージである。
歌詞前中段の以下、
ここは、さっきの「青空・太陽=マジョリティ」として考えてくださるとわかりやすい。
太陽が出ていると、空は問答無用で青くなる。
太陽が出ていると、それによって影(この場合は自らのコンプレックスや弱点を指している)が自ずと出来上がってしまう。
例えば、キラキラと輝くように誰からも好かれるAという人物がいたとしよう。
人間というのは否応にも少なからず他人と自分を比較してしまうものである。
コンプレックスや弱点がなさそうで、さらには誰からも好かれそうなAに対し、いつの間にか「Aに比べて自分は…」と卑下してしまう。そんな構図を表している。
サビ後半、
ここは若干哲学的な匂いを放つ箇所になっているため、ここでは簡単な説明で勘弁していただきたい。
「宇宙の果て」と表現しているわけで、宇宙は無限ではなく有限であるというある種の示唆がここで入る。
ちょっと説明が校長先生の話よりめんどくさくなってきたので飛ばしていこうと思うが、この場合は「宇宙の果て=死(有限)」と置き換えることができ、さらには「死」があるということは「生」があり、生によって認識できる「世界そのものの果て」を示している(「世界」という時、それは地球のことではなく自分自身の視神経および脳みそや意識によって認識している今現在のことを指す)。
世界は自分自身がいるがゆえに存在している(または認識できているのでは?)というある種の独我論的なテーゼがここで舞い込み、最終的に死んだら無になるというのなら、果てに行き着き到達するのは「私自身の色だった」という考えなのでは…という深いのか浅いのかよくわからない結論に至るのである。
やべっ、筆が思ったより動いたのでさっさと次へ行こう。
曲は2番へと入り、以下。
ここはわかりやすいと存ずるのでさらっと。
飛行機に乗ったことがある人ならお分かりだと思うが…いくら雲がどんよりと空を覆っていても、飛行機で雲を突っ切ってしまえばその上には何にも邪魔されない空がある。
これを人間に置き換えれば、まぁ夜空ってのはいつでも自分に一本芯を持っていて真っ当に貫いてまっせってことですわな。
そして「ため息〜」の箇所。
これも以下同であり、なんか嫌なことがあってため息ばかりついてしまう日はどうしても目線が下になってしまう。つまり落ち込んでいる。
体は家に帰るために前に進んでいるんだけど、頭の中はモヤモヤと今日あったことを回想してしまっている。つまり後ろを引きずっている。
だとしても夜空を見上げてごらんよ。どうだい?いつもと変わらねぇだろう?私たちにとっての日高屋みたいなものなんだよ。
そんでサビ最後。
これもさっき力説してしまった哲学的なアレと通じている。
太陽も月も地球も星も、結局は自分がいるから認識されているのではなかろうか…?
もしこの世に人間(もしくはそれに準ずる知的生命体)がいなかったら、宇宙はおろか…太陽を私たちが認識しうる意味での「太陽」として認識していなかったのではなかろうか。みたいな。
なんかそんなことを考えつつ、結局はワタシ色=人間色ってことに落ち着くんではなかろうかねぇ、と思った次第であった。
以上である。
ライナーノーツってこんなんで良いんだっけ?
おーわりっ!
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