作曲に音楽理論は必要か否か問題
最近のX(旧Twitter)はフォローしていない方のツイートも目に飛び込んでくることが多々あり、その日も特に何も考えずにチラッと眺めていた。
すると、「作曲に音楽理論は必要なのか」という命題が目に留まったため、ここで私なりの見解を述べてみようと思う。
(ここで言う『作曲』とは、自らの力のみでコード進行やメロディを考えることと明記しておこう)
結論から先に申し上げておくと、「作曲に音楽理論は必要である」。
ただし、そこには「ある一定の条件下において」という制限を設けさせていただこう。
わかりにくいのでまとめてみると、
「(ある一定の条件下において)作曲に音楽理論は必要である」
その理由について、所感を述べていこう。
なぜ、作曲に音楽理論は必要なのか
私の想像で申し訳ないのだが、「作曲に音楽理論は必要ない」と仰っている方の多くは、「音楽理論」という言葉の重圧を回避しようとしているように思われる。
私も実際そちらのタイプで、「音楽理論」という言葉のなんと重厚たる様相か…その重みから逃避したくて必死だった頃がある。
「音楽理論」。その言葉を聞くだけで、かのクラシック御大である大バッハやハイドン、モーツァルトからベートーヴェン諸々。
とにかく音楽の巨人たちの重責に押しつぶされそうになり、彼らが学んでいたであろういわゆる「音楽理論」を習得することに困難さを見出してしまう。
「私にこれらを学べるのだろうか」
「いや、学ばなくても音楽はできるじゃないか」
「スティーヴィー・レイヴォーンだって音楽理論はよくわからないって言ってたらしいし…」
「そもそもロックをやる上で、音楽理論なんて必要ない!」
そんな風に考えていたものである。
しかし、時が経つにつれ…というより、作曲をする上でコード進行などを考えたりしている最中、私はある視点に辿り着いた。
「なぜ、私は『音楽理論=音楽的に難しいことを覚えること』だと考えていたのだろう」
例えば、ギターでもピアノでもなんでもよろしいが、音楽をやったことがある人なら誰でも覚える道であろう、「C」というコードがある。
初歩的なコードであり、いわば音楽における基礎中の基礎中の基礎、と言っても過言ではないだろう。
さて、ここで疑問である。
Cというコードを知ることは、音楽理論ではないのだろうか?
いや、そんなことはないはずである。
どんなに難しい音楽理論でさえも、その礎にあるのは簡単なコードであるし、もっと言えば「ドレミファソラシド」を知らなければその先の難解な音楽理論には辿り着けない。
山の頂上だけが山なのではなく、山の麓も山を形成する一つの要素である。
ゆえに、例えば「C-Am-F-G」というコード進行を知っているだけでも、それはある種「音楽理論を使っている」とみなすことができるのではないだろうか。
ということは、作曲をする上で基本的に「少なからず音楽理論は使っている」ことになる。
これらのことから、作曲において音楽理論は必要であると言える。
しかし、冒頭にも説明したように、これらに関しては「ある一定の条件下で」という制限が付きまとう。
次項ではそれについて述べてみよう。
作曲に音楽理論が必要のない条件下とは
結論から言えば、
「作者本人だけが、それを『曲』として認めている場合」
である。
若干わかりにくいので詳しく説明をしていこう。
例えば、音楽理論を知らずとも私たちは「鼻歌」で音楽を作ることができる。
音楽理論を知らずとも、コードを押さえずにただギターをガンガン掻き鳴らすだけでも音は鳴り、それを「これは曲である」と作者本人が認めればそれは作曲しているに値する。
今は終わってしまったとあるお昼の番組で、昔タモリ氏が「弾いている風ピアノ」のようなパフォーマンスをしており、ピアノの白鍵だけをそれなりに弾いて曲っぽくしていた。これも、突き詰めれば「作曲」になる。
このように、実は「音楽理論を知らなくても作曲はできる」という状況が成立してしまう。
…が、それは「曲」として成り立つと言えるか…が焦点となりうる。
音楽に対して全く知識のない(つまりCコードさえも、ドレミファソラシドさえも知らない)作曲者本人が「これは曲だ」と認めていたとしても、それを他者が聴いて「これは曲だ」と認識できるだろうか。
他者が聴いて「これは曲だ」と認識させるためには、やはり基礎的な音楽理論(この場合はもちろん、先述の如くである)は必要になることは明白と言える。
このように、「(ある一定の条件下において)作曲に音楽理論は必要である」と言えるという結論に至る。
おーわりっ!なんだこれ!
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