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「やりたくないこと」のやりたくないことは頑張れない

私、根性論があまり好きではない。

どんな困難も根性があれば乗り越えられるだなんて、根性を棒高跳びの棒だとでも思っているのだろうか。バナナフィッシュで棒高跳びのシーンがあったの、1回だけだったぞ!!!!

とはいえ、根性が必要な場面も確実にあるとは思う。

私は昔から「根性が足りない」と言われてきたけれど、自分では正直根性がある方だと思っている。

っていうか、そもそも人間は根性があるものなんだと思う。

私にだって、これを読んでくれてる画面の前のあなた様にだって、確実に根性はあるんだと思う。

でも、「やりたくないこと」における『やりたくないこと』は、根性云々ではなくそもそもやりたくないのだ。

だから、根性が無く見えてしまうだけなのではなかろうか。

剣道の朝練、すごく嫌だった

小学生の4年生ごろから中学が終わるまで、私は剣道の道場に通っていた。

剣道を始めて1年ぐらいまでの間はそれなりに楽しいような痛いような小手が臭いような、なんかそんな感じだったけれど、学年が上がるにつれて徐々に「剣道は嫌いである。やりたくないのである。助けてほしいのである」という強い忌避の気持ちが湧いて出てきたのであった。

やめたいと何度か母に打診してみたものの、「中学が終わるまではやりなさい」的なことを言われ、たまにサボりながらも週三日の稽古には出向いていた。

週三日の稽古でさえ嫌々ながらも行っていたけれど、隔週の土曜日にその道場では朝練があったのだ。

朝6時から7時までの1時間。

たった1時間、されど1時間。早起きが苦手でなおかつ剣道が嫌いな私からすると「なんでこんなことやらなきゃいけないんだ」と思っていた。

夏場はまだ良いけれど、冬の道場の床の冷たさったら無い。床に足裏の皮膚が張り付く。

そう、まさに「やりたくないこと(剣道)」の『やりたくないこと(朝練)』である。

こんなのはもう頑張れない。

だってやりたくないことの中でもさらにやりたくないことなんだもの。

何でもやってくれるよろず屋でも「やりたくねぇよ!」とサジをなげるレベルである。

「やりたいこと」の『やりたくないこと』にこそ、根性が試される気がする

記事冒頭で「根性論は好きではない」と言ったけれど、とはいえ根性が必要になるシーンがあると存ずる。

それが「やりたいこと」の『やりたくないこと』である。

わかりやすい例で言うと、例えば野球選手は「野球がやりたい」から野球選手になっているはずである。

でも、野球選手は試合で活躍するために素振りをやったり守備練習をやったり、基礎体力を高めるためのトレーニングを積んだりする。

野球はやりたいけど、基礎体力のトレーニングは好きではないし、できればやりたくない…的な野球選手もいるはずである。

とは言っても、野球をやるためには基礎トレは大切だからやらなければいけない。

やりたいことをやるために必要な、やりたくないことをやる。この瞬間にこそ根性が必要になる。と思う。

結構、この「やりたいことをやるために必要だけど、正直やりたくはない」的なことなら根性を持ってがんばれる人は多い気がする。

モンスターハンターでも、強い武器を作るために狩りたくもないモンスターを何回も狩ったりとか。それもある意味根性の成せる技である。

根性は基本、ある

結論。

根性は基本、みんな持ってるものである。

でも、やりたくないことのやりたくないことはもうほんとにやりたくないだけであり、それが「根性がない」と見なされてしまう一因になってる気がする。

根性の正しい使い方は、「やりたいことに必要だけど、やりたくはないもの」に対してなのかななんて思いつつ。

そんなこんなで、根性でここまで書いてきたのであった。

おーわりっ!


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yato
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