トレノとの透明な別れ

ちょっとだけ、胸がギュッとなる話をしてみよう。

あれは…私がまだ小学生の頃だったと思う。
3年生か4年生か、確かそれぐらいの年齢だ。

当時、私の家では自家用車としてトヨタの「トレノ」に乗っていた。

「トレノ」と一口に言っても「〜代目」と種類があるから、詳しい人からすると怒られてしまうかもしれない。
前面から見たトレノの顔はあまり覚えてないけれど、後ろから見たトレノのバックライトの形などはぼんやりと覚えているから、おそらく6〜7代目トレノではないかと思う。

トレノは、確か九州出身の母が地元で購入し、それを父が船に乗って関東まで運んできた…という話だった気がする。銀色のトレノ。
関東在住なのに「九州ナンバー」だから、さぞかし周りで走っていた車の運転手も目を疑ったことだろう。

そんなトレノと、私は生まれた時からずっと一緒にいた。
幼児用の車用安全椅子（チャイルドシート）をトレノのシートに乗せて座っていたものだ。
今でこそ落ち着いてはきているが、幼少期の私はとにかく車酔いが激しかったため、幾度となくトレノの中で吐いてしまった記憶がある。

トレノは4人乗りである。
近場へのお出かけなら大丈夫だが、私の家ではお盆に帰省する際、親が交代しつつ5時間も6時間も運転をして東北にある父の実家へと行ったものだった。
そのため、幼児だった頃から小学生は低学年まで上がってくると、私は車酔いで気持ち悪くて横になって寝たいのに隣の席に妹がいるから寝られず、イライラしてケンカをしたこともある。
その際、「なんでこの車は4人乗りなの！？もっと大きい車にすればよかったのに！」と駄々をこねた記憶もある。

トレノじゃなくて、もっと大きな車、友達家族が乗ってるような6人乗りぐらいの大きいやつにすればよかったのに。そんなふうに思っていたものだ。

だから、私はトレノがあまり好きではなかった。
「嫌い」とまでは言わないけど、融通の利かないやつ…かゆいところに手が届かないやつ…そんな感じだ。

ある日、家族でTOYOTAのカーショップ…いわゆる「ネッツトヨタ」というのだろうか、そこに赴いた。
当時の私はなんでここにみんなで来たのかわからず、ネッツトヨタにある子供用の遊び場で妹と遊んでいた。

父と母がお店の人と色々と話しているのをチラッと見て数十分後、「終わったから帰るよ」と言われ、お店を後にした。

トレノに乗り込み、確かその足でファミレスにでも行ったように思う。帰りに父が「車を買おうと思ってるよ。大きいやつ」と言った。

私は「え！ほんとに！？」とすごく興奮した。
聞くところによると、次は6人乗りの大きい車にするという。
私はもう、その話を聞いた時点で想像した。
絶対に1番後ろの席でゲームをやるんだ！気持ち悪くならないようにもちろん寝ながら！

すごくワクワクして、私は早くその大きい新車がやってこないかな…と胸を高鳴らせていた。

それからどれぐらい経ったぐらいだろうか。
もうあまり覚えてないけれど、多分半年近く経ったぐらい…かもしれない。

「新車が来たらしいから、明日みんなで取りに行くよ」

と父が言った。
私は嬉しい気持ちと同時に、ある疑問がふっと湧き起こった。

「父さん、トレノはどうするの？」

「トレノはお店まで乗って行って、そこでお別れかな。TOYOTAのお店で引き取ってもらうんだよ」

私は、急に寂しい気持ちになった。
新しい車が来ることはとても嬉しい。待ち望んでいたことこの上ない。
でも、トレノとお別れになるだなんて思ってもいなかった。

そして次の日、確か夜6時とか7時とか、それぐらいだったと思う。
家族で「新車が来ている」という場所まで行った（確かネッツトヨタで受け取りではなかった気がする。あまり覚えてないので定かではないが）。

父がお店の人と色々とお話をしたりして、ついに私は新車に乗り込んだ。

でも、少しも嬉しくなかった。
トレノと別れるのがイヤだった。
トレノとの思い出が、走馬灯のようにグワっと私の脳を駆け巡った。

ゲロ、何度も吐いちゃってごめん…。
エアコンの風が出るところ、壊しちゃってごめん…。
もっと大きい車がいいとか言っちゃってごめん…。
ごめん…ごめん…。

声には出さなかった…いや、もうこの時点で私は泣いてしまっていたから、声になんて出せなかった。

隣を見たら、私の涙につられてか否か、妹もぐわんぐわんと泣いていた。

それにつられるかのように、すでに泣いていた私もぐわんぐわんと収まりがつかなくなった。

「だ…大丈夫？」

お店の人が車の窓ごしに声をかけてくれたように思う。

父が「じゃあ、ありがとうございました」とお店の人に言って、車を発信させた。

お店の駐車場を父の運転する車がグーっと旋回し、国道へと足をむける。
でも、もう父の運転する車はトレノではない。
トレノはお店の駐車場にポツンと突っ立っているかのようだった。
お店の光にちょっと照らされて、銀色のボディが淡くゆらめく。

私と妹は窓を全開にして「さよなら！！！！」と大きな声で叫んだ。
国道に入り、徐々にお店から遠ざかる。
もちろん、トレノの姿もどんどん小さくなり、やがて見えなくなった。

ぐすんぐすんと泣いている私たち兄妹をみて、父と母は「じゃあ…なんか美味しいものでも食べに行きますか」と言ったのだった___。

後日…と言っても数年後ぐらいになるが、トレノの話になった時に、父が笑いながらこう言っていた。

「あの後、お店の人が『新しい車に乗って嬉しがってくれるかと思ったら、お子さんたちが泣いちゃってたのでびっくりしました』って言ってたよ」

今思うと、確かに新しい車に乗って泣くというのはなかなか不思議なことだし、お店の人からすれば複雑な気持ちだっただろうなと反省だ。

トレノのことを思い出すと、なんだか「あの頃は純粋だった」とセンチメンタルな気持ちになるのであった。