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『異なる表情』|「想」語り#1

「あぁ、眠い」私の目蓋はそろそろ限界を迎えていた。ただでさえ静かな会場なのに、和楽器の優雅な音色と重低音の声が眠気を誘う。どうやら、音楽のことを「囃子(はやし)」、右側に座っている人のことを「地謡(じうたい)」というらしい。会場の外で先生がそう言ってたのを私はかろうじて覚えていた。

そう、今日は芸術鑑賞会。学校行事の一つである。昨年は劇団四季の『ライオンキング』をみたが、あれは面白かった。毎年ミュージカルでいいのではないか。よくわからない歌に合わせてお面をつけて踊るのを見るより何倍も面白いのは間違いない。つくづく伝統芸能の面白さに疑問を抱く。まあいい、あと30分もすれば帰れる。早く帰りたい。早く帰って、小太郎に会いたい。

小太郎は私が物心つく前からうちにいるラブラドールレトリーバー。最近は、歳のせいであまり動かなくなってしまった。数年前までは、日課だった近所の公園への散歩も今となっては全くと言っていいほどしなくなった。いつかはお別れをするとわかっているものの、心の奥底では受け入れたくない。

私は舞台を呆然とただただ眺める。そしてなぜだか舞台の上で踊ってる人のお面と朝に「行ってきます」の挨拶をした時のまめの表情がどこか重なって見える。悲しそうな表情である。

気がつくと演目は終わっていて、周りの生徒が次々と席を立っていた。「ねえねぇ!めっちゃ面白くなかった!?」そう言いながら、私の唯一の幼馴染のひかるが満面の笑みで私に近づいてきた。好きな子からバレンタインチョコをもらったかのような喜び方だった。ひかるは一方的に続けた。「特にあのお面!すごい楽しそうな顔してたよね!きっとあの女の人は最後嬉しくて仕方なかったんだと思う!」終始目蓋が閉じかけていた私にはなんのことかさっぱりわからなかった。そして、劇の内容にはさほど興味もなかった。

ただ私の頭からあの悲しそうなお面の表情が離れずにいた。「楽しそうな顔」と言っているひかるの言動が尚更助長しているかのようだった。1つのお面、異なる受け取り方。不思議な感情がゆらりと頭に到達したが、そのまま消えた。やっぱり少しでも早く帰って小太郎に「ただいま」と伝えたい。少しでも一緒に時間を共有したい。その思いに駆られて、私は足早に会場を後にした。

*この物語はフィクションです。

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