#印象に残る上司
「これでダメなら、もう仕方ない。」
明け方の会社で、その上司はそう言ってくれた。
当時、ぼくは小さな編集プロダクションで、大きな会社の仕事に関わっていた。
お客様とは思いたくないような担当者さんの要望をなんとかこなしていた日々の、そのひと言がずっと記憶に残っている。
その上司は、ぼくにとって凶悪なパンダという存在だった。
なので、「パンダさん」と呼ぶことにしよう。
パンダを連想したのは、その風貌からだ。いつもだいたい、おだやかでニコニコしている。ように見える。
ただ、銀縁メガネの奥の目は笑っていないことが多い。相手の目をじっと見ている。やさしそうに見えて、実は厳しい。
そして、その厳しさを痛感するのは原稿に対する赤字だ。
入社して最初の原稿は、原型を留めていないほど赤字が入っていた。たしか、200字にも満たない飲食店の紹介原稿だったと思う。単にぼくがクライアントである媒体の文体を理解してなかったといえばそれまでなのだけど、ちょっとショックだったのを覚えている。「腕に覚えあり」と入社して早々の体験だったからだ。
パンダさんは、30人くらいの編集プロダクションで編集長というかアンカーというか、そういう役割を担っていた。出版社に納品する原稿を最終チェックする、いわば「最後の砦」といった存在だ。その砦を前に、ぼくは何度も原稿を書き直した。
パンダさんの赤字で一番ダメージが大きいのが、「意味不明」だ。
なにを言っているのかわからない。日本語として修正しようがない。お前、大丈夫か? …いろんな意味を感じてしまう赤字、それが「意味不明」。殴り書きされた赤字の先を読むと、たしかに何を言っているのかわからない、ろれつのまわっていない、酔っぱらいの文章があった。
パンダさんは自分の仕事を終えると、締め切り前だろうがさっさと帰ってしまう。なので、自宅のFAX番号を聞いて夜中に送るなんてこともしていた(パンダさんは必ず手書きで赤字を入れる)。パンダさんの自宅FAX番号は、ベテラン社員だけが知る最後の手段だった。終電もないような時間に何本も原稿を送りつけたりして、今思えばとても迷惑な部下だっただろう。
そんなパンダさんと、ある大手企業の仕事でチームを組むことになった。
上場企業に勤める人なら、誰もが知っているサービスを提供する会社の、下請けの孫請けのような仕事だ。
下請けである代理店は、電話するのが夜中だとなぜか爆音のハードロックが受話器の向こうから聞こえてきて、「朝イチで」と仕上げ時間の指定あった納品原稿が夕方まで放置される、なかなかにハードモードな担当者だった。
何度かの徹夜をして、ようやく最後の納品データを送ったあと、それでもまだハードモードな担当者から無理難題を言われるかもなと、なにか準備しておけることはないかと、PCの前に座ろうとするぼくにパンダさんが言ったのが、冒頭のセリフだ。
「これでダメなら、もう仕方ない。」
たしかに、デザインも1ミリ単位で要望に合わせて修正した。「映画のような風景写真」といったオーダーの画像も散々探した。できることは、十分すぎるほどに対応した。PCの前に座ったところで、ぼくができることはもう何もなかったと思う。
そんな気持ちを、見事に救ってくれるひと言だった。たぶん、ぼくは、そのとき初めてパンダさんの言葉に心から共感した。そして、始発の電車で家に帰ってひたすら眠った。
今でも、ハードモードな仕事現場に出会うと、そのひと言を思い出す。
十分すぎるほどに仕事した自分に対して、もしくは、自分のまわりにいる昔のぼくのようにそれでもPCの前に座ろうとする同僚や後輩に対して、「そんなに背負い込まなくてもいい」とねぎらうために、この言葉を渡す。
この言葉が、なにかの救いになればいいなと思いながら。