生きる人たちの心の支えに
愛知県の半田市街を一望できる高台にある寛良寺。加藤信行住職(42)の祖父がお寺を地域に根付かせ始め、それを先代である父が引き継ぎました。2024年に法燈継承式を終えたばかりの加藤住職は、時代に合ったお寺のあり方を考えています。
半田市街を一望できる高台に
――見晴らしのいいお寺ですね。
「みなさんが、このお寺は景色がいいですね、とおっしゃってくれます。それはいいんですけど、下の道路からの階段をあがって来る方は稀なんです。本堂裏にも駐車場がありますが、2階建ての本堂への階段がつらくて、本堂に上がれない、手を合わせられない、という方もいらっしゃいます」
――そういう面もあるんですね。
「本堂は、先々代の私の祖父が、多くの方々のご協力をいただいて50数年前に建てられました。建ってすぐに区画整理があって、下の道路を造るために山を削られて崖になってしまったそうです。
鉄筋コンクリート造の本堂なんですが、今の耐震基準に満たないということで、10年後を目安に建て直さなければなりません。それを機に、できるだけ参拝しやすい、段差の少ない、多目的なお寺にしたいと思っています」
祖父が入山して「お寺らしく」
――鉄筋コンクリート造の本堂は当時では珍しかったのでは。
「そうですね。山であったこと、鉄筋コンクリート造が出始めたころ、ということもあったかと思います。
祖父は、今の愛知県あま市の農家の生まれで、紆余曲折を経て地元のお寺(實成寺)の小僧になったそうです。知多半島は日蓮宗の教えがあまり届いていなかったこともあり、なかなかお寺に僧侶が定住しなかったと聞いています。そこで祖父は師匠から、布教をしてみないか、と言われて、単身で半田に来られました。
自分にも他にも厳しく、寒行といって、夜に太鼓を叩いて街を歩き、水行といって、冷たい水をかぶり、早朝から家族総出でお勤めをし、大変だったと思いますよ。そのおかげで、だんだん信者さんになってくださる方が増えて、一人ずつ迎え入れて、どうにかお寺らしくなっていったわけです。
それなりの想い、信念がないと、ここまでのお寺はつくれないですよね」
――無住の期間が多かった?
「寛良寺というのは、昭和17年に祖父が改称したものです。その前は完了坊という名前でした。
たぶん『完了』では終わってしまうようなイメージなので、それで長続きしないのかなと考えられたのではないでしょうか。
『かんりょう』という音を残して、『寛(ひろ)く良く』という意味にされたんだと想像しています」
「完了坊」と「半田のこんぴらさん」
――なるほど、「完了」だったんですね。
「完了坊というのは、宝暦13(1763)年に現在の浜松市妙恩寺のもとにつくられた塔頭のお寺です。天竜川のほとりにあって、川の氾濫によって、建て直しても壊れ、寺の名前だけが残っている状態でした。
明治のころ、半田市の榊原幸吉さんという方が、日蓮宗の祈祷で難病から救われたということで、半田に日蓮宗のお寺をつくってほしいと発願し、この地を寄進していただき、浜松から完了坊を移転させる許可を受け、やってきたとのことです」
――寛良寺のホームページを拝見すると、こちらは「半田のこんぴらさん」と親しまれていたそうですね。
「お寺が建立される前は、柊山という山で、四国の金毘羅大権現の分霊を祀る祠がありました。分霊は元々、半田市内の住吉神社にあったそうですが、市街を見渡せる場所に、と移されたようです。
知多半島は水が少ない地域で、私が子どものころも節水や断水が毎年のようにありました。半田は海も近く、こんぴらさんは水の神様ですので、とても大事に信仰されていたのだと思います。
本堂内に金毘羅明王を祀り、毎年、大祭を行っています。また、完了坊移転で持ち込まれた日蓮聖人の孫弟子、日像上人開眼(伝)の鬼子母神様のご利益をいただきに参詣される方も大勢いらっしゃいます」
2024年に新しく住職に
――2024年11月に法燈継承式があり、新しく寛良寺の住職になられました。
「祖父と父には威厳があり、信仰心があり、正道というか、だれが見ても間違っていないことをされてきたんですけど、私に同じことができるかなと……。子どものころからずっと悩んできたのが正直なところです。昨秋まで東海市の大教院で17年間、住職をさせていただいて、自分の思うようにやってきた経験や、時代に即した対応を、寛良寺でも生かして行ければと思います」
――大教院での経験とは。
「私は大学を卒業後、自動車販売会社のサラリーマンを経験してから、日蓮宗総本山の身延山久遠寺(山梨県)へ修行に行き、お坊さんの資格を取得しました。たまたま同じ知多半島の大教院が無住になっていて、ご縁をいただき入寺しました。
父とともに法務をこなすこと、他のお寺で修行することも大切なことですが、一つのお寺を任せてもらえたのは、とてもありがたい経験、環境でした。若くて大変な面も多々ありましたが、怖いもの知らずで、逆によかったかもしれません。
はじめは駐車場もなく、お墓も『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくるような感じで……。鬱蒼としていてお寺が周りから見えず、細い道を進んでいくと、ああお寺があった、という状態でした。そこを整備して、きれいにしていくのは、それなりに楽しい経験でした。
そこで永代供養墓を建てようと考えていたときに知ったのが、矢田石材店です」
ずっと考えていた「お墓の問題」
――寛良寺は半田はなえみ墓園、大教院は東海はなえみ墓園を、矢田石材店と運営しています。
「実は矢田石材店がはなえみ墓園の事業を始める前に、矢田さんに相談していたんです。
以前から、お墓の問題はどうにか解決したいと思っていました。お墓の面倒を見る人がいない、なかなか普通のお墓は建てられなくない、という悩みがある。お寺としてはお墓参りの習慣は残したい思いがある。お墓はつくらない、と言っていた人も、建てればお参りに行きますから、やっぱり大事なことなんだろうと思います。
散骨とかいろいろな考えがありますが、お骨がここにある、というのは心の支えになります。亡くなった人のためでもあるけれど、今を生きる者の心の支えとして必要なものじゃないかな。
自分たちが生きている間だけでも手を合わせられるようなお墓をつくれないか、っていう提案を、ずっとしていたんです。それで、矢田さんがはなえみ墓園という形にまとめてくださいました」
――お墓は供養と同時に、生きている人のためにも必要だと。
「時代に合ったことでないと、これからはちょっと難しいよなと思って、そこを考えています。今の人たちが受け入れてくれてこそ、その先の人へつながっていくわけだから」
間口を広く、頼られる存在に
――寛良寺をどんなお寺にしていきたいと考えていますか。
「日蓮宗というちゃんとした芯を持ちながらも、様々な人を受け入れていきたいですね。
ここは、日蓮宗でないとお墓を建てられません、日蓮宗の教えに帰依してください、というお寺だったんです。それでは、これからの時代は難しいかなと。入口、間口を広くして迎え入れて、その上で日蓮宗の教えをわかっていただけるようにしたい。
この宗派だから、というのではなく、このお寺さんだったら、このお坊さんだったら、私が困った時に助けてもらえる、もし亡くなったときにお参りしてもらいたい、と思ってもらえるような、頼りになるお寺、僧侶でありたいと思います」
――はなえみ墓園もいろんな宗派を受け入れていますね。具体的にお考えはありますか。
「例えば、子供食堂とかどうでしょう。サイズが合わなくなった服を交換する地域活動をされている方に、お寺を活用していただいてもいい。景色が良いことを生かした活動もいいかもしれません。
だれでもウェルカムで、お寺に迎え入れたいですね。みなさんの心が晴れ晴れとした気持ちになってもらえるように精進します!」
永代供養のついた安心のお墓「はなえみ墓園」。
厳かな本堂でのお葬式を提案する「お寺でおみおくり」。
不安が少なく、心のこもった、供養の形を、矢田石材店とともに考える、お寺のご住職のインタビューをお届けします。
随時、月曜日に更新する予定です。