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大自然と歴史の波にもまれて
愛知県豊橋市の大円寺は遠州灘をのぞむ丘にある。海という自然の大きな力を受けたり、名を残した人たちとかかわったりという、お寺の歴史を、水野一光住職(67)からうかがいました。
最初のお寺は太平洋の中?
――大円寺の山門から見おろした先の森の向こうは太平洋ですね。この地域は豊橋市の南部になりますか?
「豊橋市の一番隅っこ、江戸時代は田原藩の高豊村といい、今は田原市との境になります。サーフィンをする人にはおなじみの表浜海岸はすぐ近くで、有名なアイドルの方もサーフィンをしにいらっしゃったという噂も聞きます。
室町時代の1532年に黒田城の城主の菩提寺としてつくられたと伝わっていますが、当時のお寺は今、太平洋の海の中です」
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――海の中ですか?
「海が近いので、高潮や海岸の浸食、津波などの影響を避けて、大円寺は二度、海から離れて移転をしています。
開山は鎌倉の建長寺系の僧で、臨済宗のお寺として始まりました。今川方の武将だった城主の黒田氏は徳川家康の田原攻めで追われて、城の跡地に大円寺を建て直したそうです。そのお寺があった土地は今、海の中です」
若き徳川家康をかくまう
――戦国武将の逸話があるんですね。
「徳川家康を助けたという話もあります。大円寺の住職が朝のお勤めをしていると、本堂の横で音がするので外を見たら、十数騎の武士団が逃げ込んできていた。住職は詳しく事情は聞かず、本堂に招き入れて、温かいお茶や麦飯、汁を差し出して、馬にもいっぱいのワラや水を与えたそうです。そこに追っ手の武士が、『三河の者が逃げ込んでこなかったか』と探しにきた。しかし、知りません、と住職が答えたので出て行ったといいます。
かくまった一人が若いころの徳川家康だったそうで、大円寺に徳川家の将軍から下付された朱印状があるのは、家康が江戸幕府を開いた後、孫で三代将軍となる家光に『大円寺にかくまってもらって、今があるんだよ』と伝えたことによるとも言われています」
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伊勢神宮への近道、参拝でにぎわう
――特別なお寺だったのですね。
「江戸時代、この辺りは栄えていたんですよ。江戸から伊勢神宮にお参りに行くときに、渥美半島から船で渡ると、名古屋をまわって行くよりも1週間くらい早く着いたらしいんですね。大円寺の前を通っている国道42号が当時の街道です。国道42号は伊良湖岬から海を渡って伊勢につながっているんですよ。
大円寺には、海岸に流れ着いたといわれる阿弥陀像を安置した阿弥陀堂があって、遠方からも大勢の参拝者が訪れたらしく、この辺りには旅宿もあったそうです。
寛永(1624-1644)のころ、西国三十三観音霊場のすべてのご本尊の小さなご分身を本堂に祀って、それを拝めば三十三観音をまわったことになるとして、それも信仰を集めていたようです」
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蔵の古文書に残っていた歴史
――そうした歴史はどのように伝わってきたのですか?
「私のおじいさんである二代前の住職が、蔵で古文書を見つけたんですが、多くはそこに書かれていることです。海岸の浸食が続いて、村人は丘の方へ移ってしまい、お寺だけが残ったので移りたい、と、住職が手紙で派遣元の建長寺に訴えたけれど、まったく相手にされず、とうとう山門の近くまで海が来たので、鎌倉へ帰ってしまった、とか。1703年に少し内陸に移転しましたが、その後も高潮などの被害が続いて、再び1766年に今の場所へ移りました。
前にお寺があった場所は、今は海岸の防風林とところです。
古文書はお寺にあってもボロボロになるだけなので、大学の歴史学の先生が保管しているのですが、海岸の崩壊の激しさを物語る貴重な文献だと、高く評価されているようです」
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――おじいさんがご住職をされていたということは、大円寺がご実家なんですね。
「第2次大戦中は大円寺が陸軍の駐屯地だったという話も、おじいさんから聞きました。境内が広いというのと、敵が太平洋から攻めてくるんじゃないかということで。近くの山では、地面の中から銃や日本刀が入った大きな木箱が出てきたらしいです」
東京でシステムエンジニアに
――お寺で育って、自然とご住職になられたんですね。
「38歳までは東京でサラリーマンをしていました。小さなお寺なので、2世代の生計を立てるのは難しく、父親も高校の教師をしていました。
私は駒澤大学仏教学部を卒業した後、日本大学の理工学部でに入ってコンピュータの勉強をして、就職した会社でシステムエンジニア(SE)としてソフトウェアの設計をしていました。東京で家族も持ちました。当時はSEがまだ珍しく、どの会社も欲しがって、どんどん育てようという時代で、そのまま続けたい気持ちもありましたが、父親の体調がすぐれず、戻ってきました」
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――ご住職になってうれしかったことは?
「どういうわけか、この地元のみなさんは葬儀をお寺でされるんですよ。20数年前までは自宅で葬儀をしていたんですね。ある時、お寺でしたいという方がいて、それから、うちも、うちも、となりまして。葬儀会館が増えて来て、ほかのお寺ではそういう所でされる方が多いんですが、うちは違うんです。大円寺の本尊様の懐のもとで葬儀ができるっていうことで、すごく感謝していただける。それはうれしいですね。
なぜなのか、分からない。私は20代、30代っていう人間的に成長できる期間がサラリーマンで、その年齢で僧侶をしてきた方に比べて薄っぺらい住職なんじゃないかっていう、引け目があるくらいなのに。
あと感謝してもらえるのは、お寺をきれいにしているということ。庭木や生垣の剪定や草むしりとか、今年の夏は特に暑くてたいへんでした」
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春夏秋冬、壮大な日本画の襖絵
――きれいと言えば、とても素晴らしい襖絵があるんですね。
「四季の絵ですね。鳥居礼さんという日本画家の作品ですが、うちの親戚なんですよ。客殿をつくり直すときに、そこの襖絵を描かせてくれと言われまして。4部屋あったので春夏秋冬で、4年間かかりました。美大を出て美術教師をされていたんですが、画家に専念しようと決めたときだったようです。大円寺の襖絵を描いた後に、伊勢神宮などでも大きな作品を描いています」
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『曹洞8代目、観音31代目』
――今後はどんなお寺にしていきたいですか。
「私は『曹洞8代目、観音31代目』の住職です。大円寺は江戸時代の末期に曹洞宗のお寺となり、そこからは8代目ですが、室町時代の開山からご本尊の如意輪観音を守ってきた住職としては31代目になります。もう自分は70歳が近くなってきたから、次の代を考えることに力を入れたいですね。いかに跡継ぎを探して、育てていくか、この大円寺を育てていくかっていうことを」
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寺名:龍渓山 大円寺
宗派:曹洞宗
住所:愛知県豊橋市城下町休場4
永代供養のついた安心のお墓「はなえみ墓園」。
厳かな本堂でのお葬式を提案する「お寺でおみおくり」。
不安が少なく、心のこもった、供養の形を、矢田石材店とともに考える、お寺のご住職のインタビューをお届けします。
随時、月曜日に更新する予定です。