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さらば、わが愛


昨日で2回目の鑑賞
1回目を観たときには、もう観ることは
ないんだろうなと思ったほど
深く沈んだのほどだったが
脳の忘却は凄まじく
また観ることになった
次第だ。

愛しても愛し足らない、
憎んでも憎みきれない、

このキャッチコピーはまさに映画を
全て秀悦に丸め込み
咀嚼している言葉だと思った。

どこの場面も切り取り
なんだか舞台になるような気に
させられる。

誰かと誰かがいる、
語る場面がなんだか舞台の
ワンシーンなような気がして、

そう思うのは
個々の気持ちが、少し観る側に
とって読み取れるからなのか、

主人公を取り巻く人々

自分を捨てた母と愛する段小楼に
愛される菊仙との関係性は
切ってもきれないような
家族でもない、友人でもない、
恋人でもない、他者との運命が
不思議なくらい哀しかった。

だが菊仙は小楼のために
時に蝶衣を捨て駒かのように
扱い何事もなく終わらす、
そんな冷淡な本質は
簡単に指をきり子を京劇の世界に
封じ込めた蝶衣の母に
どことなくリンクさせる。

だが菊仙の全てとなった小楼が
もう愛していない、
と本気かは定かでない
言葉を発したことにより
菊仙の生きる意味を全てかき消した。
彼女の人生も、また裏切り裏切られ
この世を自分の手で終わらせて
幕が降りた。

かつて自分を使い捨てのように扱って
京劇のマネージャーは
いつのまにかご機嫌取りのように
ぬるぬると居る
だが革命時に簡単に、裏切る。
彼もまた革命に翻弄され
何が正しいのか、何をもって
生きているのか道標がわからなくなっている。

かつて捨て子であった小四は
常に近くに自分のそばでいなくならない
存在かと思っていたが
革命時に、蝶衣、小楼を目の敵にするように
京劇の在り方に意を唱える。
だが彼もまた虐待蔓延る
京劇の世界におとされ
その全てな存在である居場所ですら
音を立てて無くなろうとしている、
そんな孤独感に苛まれながらも
必死に京劇にしがみついているのか
それとも自分という意味を確立したいのか。

誰が善で誰が悪か。

登場人物たち
それぞれが一つの大きな玉のような
粒が合わさり複雑なゆらぎを
おこしぶつかり離れ、また合わさる。
人間の感情はその時により
変わる。
たとえ昨日が全てだとしても明日には
昨日がなかったかのような
切り返し方、無常は
まさしく自分を守るために
裏切る人間の汚さ、いや
それが人間なのか。


蝶衣と小楼

蝶衣も小楼も京劇という
小さな世界の中で
生きている。
この世界で自分たちが望み
鍛錬をしていたわけではないだろう。
単に蝶衣に関してな遊郭で働く母親が
成長しついに遊郭の一角では育てられなく
なったからという理由から
いとも簡単に泣きそうな顔を
作り上げて劇団の主に情けをこう。
あの時の幼い蝶衣の顔は
全てを知っているような
冷淡な表情をしていた。
そのように幼いころから
彼らの居場所は京劇のみ。

京劇を外からの眺めとしてみれず
そもそも京劇をどのように捉えていたの
だろうか。

おそらくわたしが彼らのように
感情移入したとて
計り知れないものがあること
だけは分かりうるやもしれない。

幼いころから
ほとんど虐待かのような扱いをうけ
役と自分自身なのか、
自我を考える間もなく
女か男かわからない蝶衣。

そんな蝶衣に常にそばで
過ごしてきた小楼。

彼らたちの、間を取り持つ生命力は
彼らたちの生きている証
なのか。

蝶衣は小楼に
特別な感情を抱いている。

小楼も蝶衣に
特別な感情を抱いている。

ただ、特別という言葉は一緒で
あっても2人それぞれが抱く
特別な感情は異なる。

蝶衣演じるレスリーチャンの
艶かしい繊細な所作は
まさに小楼を独り占めしたいと
ばかりの意思表示かのように。

栄枯盛衰

かつて宦官として
ちやほや、奔放な生活をしていた
ものはタバコ売りになり
何を言っても
タバコ売りとして
身を構えている。

場面は少しであったものの
凄まじく記憶にこびりつく。

近代中国の歴史と、ともに
蝶衣と小楼もまた
栄枯盛衰をひしひしと
感じながら何を思い
京劇に身を投じたのか。

さいごに

ここまで読んでいただき、
至極光栄である。
わたしは作家でも何ものでも
ないため
読みずらい点や解読不可解な点も
沢山あるだろう。
おゆるしを。

現在 4Kに蘇り
『さらばわが愛 /覇王別姫』
は上映中である。

興味ある方は是非
一度映画で観ることを
強くお勧めするとともに
ここで一度また
この映画のサウンドトラックの
幕落を聴きながら
思いにふけるとする。



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