随筆:言葉の伝達
この一ヶ月、体調が悪い中で師の言葉を噛み砕いて何度も何度も書こうと試みたが書けなかった。そのお陰で師が嘗て言わんとした如来の秘密がよくわかる。書くことでマイナスに働く人が大勢想起出来たからだ。余りにも多すぎる。師は「理解出来ないことを気づいていながら言うとしたら、それもまた暴力だよ」と嘗て私に言った。
言葉
「言葉」は、その背景と表裏を理解するのが前提にあり初めて伝達する。いきなり全てを理解することは、程度の差こそあれ無理な相談だ。一端 横へ置いておき、その上で一先ず理解出来る範疇で仮に留めておく。つまり理解出来ないことも一方で前提としている。それを把握しておく必要がある。
認知
もう、この時点でわからない方もいるだろう。気に病むことは無い。認識すればいい。「ココが解らない」と具体的に認めればいい。これが認知。日本がここまで来てしまった理由を何十年と考えていたが、師を通し一先ず解けた気がする。
認めないのだ。認めないならまだいい。意識がある。意図がある。認知している。しかし現実には認める認めない以前に認知すらしていない。その理由は「自らの影=観念」で事実を真っ黒に埋めてしまったからだ。彼らにだけ見える文字が浮かぶ。映像が見える。それは影であるが故にゆらゆらと朧気で毎度変化する。だから言う度にズレていく。でも彼らは気づかない。認知しないからだ。
空けておく
理解できない部分は認識し空けておくのが大前提に思う。その上で落とせる言葉は落としておく。そこで初めて不完全であるが伝達されたことになる。ところが、師の言葉を借りれば「それが出来ない人が多い」ようだ。その理由は「観念=自分の影」で勝手に埋めてしまうからだ。事実を知らず事実とは異なるにも関わらず。しかも習慣的に行われる。
埋めてはいけない。
空けておく。
一度埋めると「せっかく埋めたのに!」と埋めた労力を惜しみ「埋めた自分を擁護」し、事実が去来しても跳ね除けてしまう。理解が遠ざかる。書をやる上で先生は「認識を最重要とした」と言った。それは同時に「全てに通じている」と。師曰く「頭がいいほど観念は強い」と仰る。
脳は見たいものを見ることが出来るようだ。それが長きに渡れば一層強固になっていく。書家である師は終生「認識だね。僕は認識に生きるよ」と仰った。だから臨書を続けた。惰性ではなく真剣に。問う私に「認識力は必ず落ちるから」と語ってくれた。
認識力
誰でも出来る認識力の改善は簡単だ。記録をとればいい。私は2011年の10月から発生した記憶障害から記録を取り出した。酷い状態は2017年10月頃まで続いた。今も時折おしかしくなることから継続している。長いこと師にすら奇異な目で見られ「マッチャンは遂におかしくなった」とすら言われた。先生ですら影で埋めたのだ。
ズレを指摘される度に事実を振り返り認識を新たにする。他人も記憶が曖昧なので鵜呑みにしてはいけない。撮影、録音、メモ、幾らでも方法はある。全てを試した。特に写真とメモはいい。録音は確認に時間がかかり過ぎる。ただし詳細に知るには録音はいい。メモは経緯が不明になりがちだ。それを読み返す時に気づかされる。当所が無いとしたら相当重症であるが、そこで認識を新たにすればいい。「私が間違っていた!」もしくは「相手が間違っていた!」と。誰を攻める必要もない。誰しも本来が間違う。AIの研究者からすると、忘れるというのは人間の稀有な才能である。
伝達
師は肝心なことを表立って語らなかった。いや、語ってはいたのだが理解されてないことを理解しつつ補足をしなかった。「皆は言葉の表層を撫でるだけだから。例えるなら、湯葉の表層を1枚を摘み上げ口に運び『コレが湯葉か、味もしなければ美味しくもない』と言う。その時点で話にならないじゃない。コッチは残りの湯葉を目の前で美味しく頂いても気づきやしない。食べ甲斐も無いよ」と笑った。当時「それはフェアじゃないのでは?」と思ったが、その答えが冒頭の返しだ。今はよくわかる。
師は「誰しも森羅万象を知る筈もない。知る必要も無い。程度の差こそあれ誰しも無知なんだよ。言わずもがな僕も含めてね」と言った。それを知った上で、理解している部分を埋め、理解しない部分を空けておき、理解している部分で真心で言葉を渡し合う。
最後に
二十年ほど前、よく師から「なるほど、ってマッチャンはよく言うけど、あんた本当にわかってるのかい!?」といきなり怒鳴られたことが何度もあった。「多少なりとも解っているつもりですけど」と言うと「じゃあ、僕に説明してみなよ!」と声を荒げる。そこで尋問のような問答になるのだが、それが終わると「どうしてそこまで解るんだい!?ねえ、どうして!!」と別な意味で声を荒げられた。
今の理解度からすると遥かに当時は浅薄だったが、大筋においては理解出来ていたと振り返る。それは解らないものを自分の影で埋めなかったからだ考える。解らないものとして空けておき、時が過ぎ、理解が深まればいずれ解る。同時に解っている部分を無視しなかった。そこは譲らなかった。昨今は解らない部分はおろか解っている部分を黒塗りする人が増えてきたに思う。これを繰り返すと本当に何も解らなくなる。
認識しよう。まずはそれから。
最終的には”本”という形で手に取れるように考えております。