【座敷わらし日記#0】京都・若一神社
「座敷わらしがいる」という噂の京都の若一(にゃくいち)神社とは、どのような神社でしょうか?
1.若一(にゃくいち)神社
【ご鎮座】
京都府京都市下京区七条御所ノ内本町98
(JR京都線「西大路」駅から徒歩5分)
若一神社は、西大路通(京都の西を南北に走る大通り)に面しています。
ご神木の、清盛公御手植えの楠を避けるために、西大路通は少し湾曲しています。
【ご祭神】
若一王子(にゃくいちおうじ) 熊野十二所権現の御分霊とされます。
一般的には、若一王子は「天照大神」とされますが、実際に参拝してみて感じたのは、熊野三山の眷属「ヤタガラス」です。
2.由緒
宝亀3年(772年)、摂津国天王寺に住む威光上人が紀伊国の熊野に詣でて、人々を救うために、若一王子の御分霊であるご神体を背負って旅立ちます。
現在の若一神社がある地に至り、森の中の古堂で御神意があったので、ご神体を安置しますが、そのご神体は土の中に入っていかれます。
平安時代末期、六波羅に住む清盛公が、この地に別邸の西八条殿を造営しました。
仁安元年(1166年)8月、清盛公が熊野に詣でた際、熊野権現より「土中に隠れたるご神体、世に出し奉斎せよ」とのお告げがありました。
清盛公は帰京すると西八条殿の邸内を探索し、東方の築山より光が放たれているのを見つけます。清盛公は歓喜して自ら三尺ほど土を掘ってみると、土中より若一王子の御神体が現われたので、11月10日に社を建立して鎮守社として祀りました。
3.開運出世のご利益
鎮守社建立の翌年、仁安2年(1167年)2月10日、清盛公は太政大臣に任ぜられます。この清盛公の出世により、若一神社は「開運出世の神様」と尊崇されるようになりました。
清盛公は、厳島神社の整備、日宋貿易の拡大、娘の徳子が高倉天皇に入内と、隆盛を極めていきます。
【平家滅亡について】
1180年 8月 源頼朝が伊豆で挙兵
1181年 閏2月 清盛公病死(享年64歳)
1184年 2月 一ノ谷の戦い
1185年 2月 屋島の戦い
1185年 3月 壇ノ浦の戦い(平家滅亡)
清盛公が亡くなり、三男の宗盛が後継ぎとなりますが、全国各地で相次ぐ反乱や後白河法皇との対立、飢饉などによって平家は追い詰められ、滅亡への途を辿ります。
平家滅亡は、清盛公が没落したからと勘違いされがちですが、清盛公が亡くなったことで、平家は徐々に権力を失っていったのです。したがって、清盛公は、若一王子や座敷わらしから見放されたわけではないのです。
【平氏と平家の違いについて】
ここまで、「平家」と書いてきたことに気づいていましたか?
実は、「平氏」と「平家」は同じではないのです。
詳しくはコチラをご覧ください。
4.境内社
・寿命社 【ご祭神】高砂尉と姥
天正年間(1573年 - 1592年)に播磨国の高砂神社より勧請
・弁財天社【ご祭神】市杵島姫命
正徳5年(1715年)に竹生島の都久夫須麻神社より勧請
・松尾社 【ご祭神】松尾大神
・稲荷社 【ご祭神】稲荷大神 伏見稲荷大社より勧請
・祖霊社 【ご祭神】神職、総代、世話方、特別崇敬篤き方々の御霊
1983年(昭和58年)9月11日建立
・楠木社 【ご祭神】平清盛御手植の楠と精霊