私小説『些細な日常の一幕』
9分程度で読めます。
曇る午前6時手前の神無月、私は自宅の居間の椅子に座っている。
それとは不釣り合いの高さのテーブルには、スチール缶のお茶が置いてある。飲もうと思い、今しがた離れから持ってきたものだ。
だが、私はぼーっとそれを見つめるだけだった。体を起こしたばかりで着替えもせず、朝食を摂らない身体はまだ冷えている。そこに冷たい飲み物を流し込むのはいかがなものかと、まだ冴えない頭で考えていた。
そもそもこのように過ごす気は全く無かった。予定通りならまだ寝ているはずだった。
だが何が原因か、私の身体は予定よりも早く起きてしまったのだ。眠れない身体に僅かな苛立ちを覚えた後、何かを飲もうとお茶を持ってきたのだった。
私にはもう一つの考え事があった。自分の身体、飢えている身体をどうしてやろうかと、考えていた。もし、普段このようなことがあったら私は間違いなく、胃袋のことなど気にせずに水を飲むだけだろう。
だが、目覚める前に見た夢が私に誘惑の選択肢を与えたのだった。
東京都の何処かにあるパンの専門店。
店内に陳列されているパンをトングでトレイに乗せ、それを会計に持っていく方式の店。気がつくと私はそこにいた。
もう少し詳しい所在がレシートに書いてあったかもしれないが、些細な出来事はすぐに忘れてしまうものだ。夢の中では特に。
夢の中で既に飢えていた私は、「三食パンかよ」というくらいトレイに乗せて購入した。そこには、牛乳パン抹茶入り、抹茶と小豆のコッペパン……など、やけに抹茶が多かったのを覚えている。
全部は食べなかったが、甘すぎず、抹茶の苦味が活かされた良い味わい、そんな記憶が残っている。
今思えば、これは昨日の記憶の破片が紛れ込んだのかもしれない。実際に食べた訳では無いが、メディアで美味しそうな抹茶ラテが紹介されていたのだった。
さて、不意に目覚めてしまった私は夢の中で出会った美味を忘れたくはない。すぐさま枕元においていたスマフォで調べてみることにする。「抹茶ミルク パン」 「牛乳パン 抹茶」 「コッペパン 抹茶」など……。
こういった類(たぐい)は世の中に溢れているようで、夢の中に類似するものが現れる。だが、現実とは非情なもので、手に入らないのは明確だった。
大抵、先進的なパンというのは東京にあり、抹茶を使ったグルメというのは、京都を始めとした抹茶の名産地にある。だが私の棲み処はそこにはない。
そして、残念ながら抹茶パンというのは、この世の中においてはマジョリティパンではない。つまり、東京でも名産地でもない"ここ"には存在し得ないのだ。
斯(か)くして私は抹茶を使ったパンを諦めた。そもそも大抵の抹茶を使ったグルメは甘すぎて抹茶の苦みの良さが打ち砕かれている。そんな偽りの抹茶を食べるくらいなら、最初から口にしないほうが幸せというものだ。
そのため、この諦めは早かった。
しかし、それでも誘惑の選択肢はまだ残っている。抹茶パン以外という選択肢。
もはやここにおいて空腹を満たさない選択肢は、この思考の凝視によって除外されたのかもしれない。
とりあえず近場のコンビニへ向かうことは決定した。何かしらのパンを手に入れるのであれば、一番近いのはそこなのだ。
だが、これは新たな問題を提示されるきっかけにもなった。
それは、コンビニへ"徒歩"で向かうか、"車"で向かうかだ。
近場とは言ったものの、徒歩12分、車で3分程度の場所にある。そう、これが東京でも京都でもない"ここ"、田舎だ。
双方には魅力がある。まず車は単純に早くこの飢えを満たせることで、徒歩は、普段の車の通い路(かよいじ)をゆっくりとその景色を堪能できることだ。
余剰時間である今、普段しないことを試してみるいい機会かと思っていた。この悩みに逡巡していて、もってきたスチール缶のお茶を飲まずに、ただぼーっと座っていたのだった。
ぼーっとしているとは言ったものの、同時に焦ってもいた。刻一刻(こくいっこく)と予定している朝食の時間が迫っているからだ。
午前8時に朝食を摂ることになっている。これは同居人がいるための絶対に避けられないルールである。もしこれに従わなければ、ひどく怒られて気分の悪い午前中を過ごすことになる。
徒歩か、車か、そもそも行くのをやめてしまうか。
……10分くらい経っただろうか。午前6時になったばかりにようやっと私は決断を下したのだった。
外は思ったよりも寒くない。それはちゃんと着替えた上でウィンドブレーカーを着込んだためだろうか。もしくは、ここが外ではないからかもしれない。
そう、私は車を走らせていた。結局、楽で欲望を満たす選択肢を選んだ。徒歩も、行くのをやめるのも、飢えが苦痛である。
コンビニまでの道は、車の通りが少なかった。それは本日が土曜日の午前6時だからだろう。こんな時間からコンビニへ行くのは今日が休日でないか、手持ち無沙汰か、私のように欲望に駆られる、限定的な人間だけだろう。
そんな事を考えていると、コンビニが見えてきた。曇りがかった今日は空がまだ仄暗(ほのぐら)く、コンビニの明かりが少し目立った。
普段日が落ちてからの外出を控えているため、久々にコンビニのそんな顔を見た気がする。駐車場にはほとんど車がなかった。
店内の様子はいつも変わらない。
いや、コンビニは週替りで新商品やそれを宣伝するためのポップ、オトクな商品購入キャンペーンなどがあるはずなのだが、普段利用しない私にとってそんなことはどうでもよかった。この飢えを満たすためにお眼鏡にかなう食料が調達できれば、良いのだ。
実のところ、どんなものを買うのか大枠は決めていた。惣菜パンとコーンスープ缶。朝食前に甘ったるい菓子パンを食べる気にはならないし、砂糖があまり好きではない。
それに、以前から惣菜パンを食べたい欲が溜まっていた。それを発散するチャンスが到来したのだ。食べたい理由は忘れてしまったが。
そしてコーンスープであれば飲み物の中でも比較的満足感がある。内容量が少ないのがネックだが。
入口から真っ先にホットドリンクの陳列棚が作られていたため、コーンスープ缶があるのが見えた。これで一つは確定した。
次はパンの陳列棚を見ていこう。どうやら結構残っているようだった。恐らく手前に残るパンたちは昨夜のピーク以降に入荷されたために残っているのだろう。
これからどれほどの廃棄が出るのかわからないが、現状の私にとって選択肢が多いことは贅沢な悩みを発生させた。
とりあえずは大半が菓子パンであるためそれを視界から外す。要らない情報を視界の外に追いやらないと思考の妨げになってしまう。
残った選択肢はパン全体の1/4にも満たない。このコンビニでは菓子パンが惣菜パンに比べ、圧倒的な権力を持っているようだった。
それでも、選択肢はある程度絞られたほうが悩む時間が少なくて助かる。
粗挽きソーセージと辛子マヨ、ピザポテトパン、トマトとチーズのピザパン、フランスパン生地にソーセージをのっけたもの……など、選択肢として上がりそうなものはこのあたりだろうか。
そしてどうやら惣菜パンと言えば定番のカレーパン、焼きそばパンはなかった。コンビニでこの2つが無いなんて、致命的ではないだろうか? 以前来たときにカレーパンはあった気がするが、焼きそばパンは見た記憶がない。
まぁ、もとよりこだわりはないし、朝食前の腹ごしらえには量の多い食べ物だろう。
そしてそれぞれの惣菜パンの値段を見て驚いたのだが、ほとんどが150円以上することだ。
もう4年も前の記憶だが、惣菜パンと言えば120~150円台で結構頑張っていた気がするのだが、近年の不景気や素材の価格高騰などによって全体的に値上がりしているのか?
私はこれにより少しがっかりして買う気が失せた。いや、収穫なしで帰るのは気が引けるので買うのだが……。
気力の失せた私はその中でも安かったピザポテトパンを選ぶことにした。
パンもポテトも炭水化物、これならいい感じに腹がふくれるだろうと期待し、先程見えたコーンスープ缶を手にとって300円程度の会計を済ませ、家路につく。
昔は自動販売機で110円か120円だったコーンスープ缶も、コンビニですら150円近いとは……やるせない気持ちになる。
往復とコンビニの滞在時間で、時計は15分程度の経過を知らせていた。
たったこれだけの事柄に15分も時間を使っていることが恐ろしい。
頭の片隅でそんな事を考えながら、パンの袋に切込みを少し入れ600Wで20秒ほど温める。扉を開ければピザらしい匂いが漂ってくる。
この匂いに再び出会ったのは、いつぶりだろうか。コーンスープ缶を触ればまだ、少しやけどしそうなくらい熱いのが嬉しかった。
そうして、ゆっくり食べようと自室に戻る。ピザポテトパンとコーンスープ缶を頬張り、今日の些細な出来事を綴り始めた。
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